文化

〈企画〉映画評 おおかみこどもの雨と雪

2012.08.16

先月21日から全国で公開されているアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』は現在日本でもっとも注目されているアニメーション監督の一人、細田守氏の最新作であり、公開9日間で興行収入が10億円を突破するなど商業的にも好調な滑り出しを見せている。

ここでは今話題のこの作品について、大きく5章に分けて論じていきたい。最後までおつきあいいただければ幸いである。



Part01 はじめに

~彼女らの人生の物語~



「おとぎ話みたいだって、笑われるかもしれません。でも……」少女の声のモノローグに続いて、花畑に横たわる「母」の姿がスクリーンに静かに映しだされ、映画は始まる。

それほど劇的でもない、しかしどこか運命を感じさせるような出会いを経て、一緒の時間を積み上げ、少しずつ心を通わせていく主人公の花と「彼」。「彼」が「おおかみおとこ」であることを知っても、花の「彼」に対する想いは揺るがず、ついに二人は結ばれる。自分の正体を隠すため、これまで「誰にも顧みられず」生きてきた「彼」は、花の愛によって初めての救いを得る。やがて花は「彼」との愛の結晶である二人の子供、雪と雨を授かり、二人は生まれたての赤ん坊を見つめて幸せな未来を思い描くのだった。「優しい子になるかな」、「頭の良い子になるかもしれない」。ささやかだが満ち足りた日々。彼女らの前途に待ち受けるのはもはや祝福だけであるかに見えた。

しかし、「世界」は突然、彼女らに牙をむく。ある日、不意に姿を消した「彼」を探す花が見たものは、既に息絶え、ゴミ収集車へと「回収」されている「彼」の姿だった。

花がその命ある限り愛することを誓った最愛の「彼」の亡骸でさえも、それがおおかみの形をしている限り、人間の社会にとっては「ゴミ」でしかないという、思わず目を背けたくなるほど冷酷な現実が突きつけられるこのシーンは、同時に「おおかみ」と「人間」は決して同じ世界では共存しえないという世界観の提示にもなっており、残された「雨」と「雪」のたどるべき運命をも示唆する重大なターニングポイントであるといえるだろう。

残された母、花は亡き夫が残した運転免許証の写真を見つめ、一人だけで子供達を育てていくことを誓う。花とその子供、「雪」と「雨」、三人の人生の物語がここに幕を開ける。

本作、『おおかみこどもの雨と雪』を通して貫かれているのは「生きる」というテーマであろう。

おおかみと人間、二つの世界にまたがる存在として生を受けた「雪」と「雨」が、「おおかみ」、「人間」という二つの生き方のいずれを、如何なる理由でどのように選択していくのか、子供達の秘密を知るたった一人の人間である花が、「おおかみこども」である雨や雪とどう接し、どう育て、やがて子供達が下す人生の選択をどのように受け入れるのか。

ここからは「雪」、「雨」、「花」の三人それぞれの心情や選択ついて順を追って考えてみることにしたい。



Part02 雪

~今まで、苦しかった~



幼いころから活発で好奇心旺盛だった姉の雪。渋る花を強引に説得し、自らの意思で小学校という名の人間社会へと漕ぎ出していった彼女に一貫しているのは「自分は人間である」という「無意識の意識」とも言うべきような感覚であった。だから彼女は弟の雨が行ったような、おおかみが人間から「悪者」と決めつけられていることに対する異議申し立てにも関心を示さないし、「おおかみおとこ」である父への感傷も薄い。自分の趣味である動物の骨集めや特技の狩りさえも、それが小学校の女の子たち(≒人間社会)に受け入れられないとわかるや否や即座にやめてしまった。

このように、早くから無意識的に「人間」として生きることを選択していた彼女が、「人間」か「おおかみ」かという問題に関する「意識的な選択」を迫られるきっかけになったのが、転校生の草平との出会いである。  

転校初日、草平は初対面の雪にずばりと言い放つ。「なんか、ケモノくさい」。この言葉を聞いた雪は激しく狼狽し、水道で必死に手を洗う。自らの半分を占める「おおかみ」の部分を懸命に削ぎ落そうとするかのようなこの行為は、己の中に眠る「おおかみ」への明らかな実存的嫌悪であり、彼女の苦悩が我々観客にも痛いほど伝わってくる。その後、草平につきまとわれた雪はしだいに心を追いつめられて精神の平衡を失い、とうとう母との約束に反しておおかみに変身し、草平を傷つけてしまう。このことをきっかけに雪は「二度とおおかみにならない」と心に決める。

この「草平事件」は、それまで自分が「おおかみこども」であるという事実すら半ば忘却し、極めてナチュラルな形で人間社会に溶け込んだように見えた雪が、学校(≒人間社会)の中で、自身の「おおかみ」性をある日突如として暴かれるという、少なくとも彼女にとっては衝撃的で悪夢的な出来事であった。

この事件をきっかけに、雪は他の人間とは異なる「おおかみこども」としての自己を認識しつつ、それでいて「おおかみ」、「人間」の両者から「人間」としての生を再び選択し直すという再帰的な決断に踏み切ることになる。

人間社会で生涯おおかみにならずに生きていくという彼女の決断はまた、自分の中に眠る「おおかみ」を生涯隠し通すという決意でもあった。人間と同じ社会で、どれだけ人間と同じように暮らそうとも、「おおかみこども」である自分の本当の姿だけは偽り続けねばならず、誰にも本当の自分を見せることは許されない。そんな彼女の「偽り」への葛藤が解消されるのが作品の終盤、草平と二人きりで夜の学校に隠れる場面である。

母が再婚する、新しい子供が生まれる、母に捨てられる、だから一人で生きていく……豪雨に閉ざされた校舎の中、草平が秘めていた本当の感情を雪だけに伝えると、雪は静かに窓を開けた。たなびくカーテン。その先には「おおかみ」の姿をした雪の姿がある。雪は言う。「あのとき、草ちゃんを傷つけたおおかみは私」、「言わなきゃって、ずっと思ってた」、「今まで、苦しかった」。かつて雪の父が、愛する花にだけ自分の本当の正体を明かしたように、雪は草平にだけ本当の自分の姿を見せたのだった。

雪と草平は近い将来家庭を持ち、共に人生を歩んでいくのかもしれないという予感すら感じさせるこのシーンでもって、雪の物語は一応の幕を閉じる。その後の雪と草平が実際にどうなったかはわからないが、草平に本当の自分を見せることが出来たおかげで、雪が花から独立した一個の人間に脱皮することができたのは間違いないだろう。



Part03 雨

~おおかみだから~



弟の雨は、姉の雪と異なり、幼少期から内気でどこかいまひとつ「世界」になじめない少年だった。おおかみが悪者として描かれている絵本を見て「おおかみってどうしていつも悪者なの?」と花に聞いたり、小学校での生活にうまくなじめなかったり、「おおかみおとこ」だった父に会いたいと漏らしたりといった種々のエピソードからは、雨の中にあった何か名状しがたい「違和感」のような感覚の表出が見て取れる。雨がいかにしてこの「違和感」を持つに至ったのかは、母である花の育児態度の観察が鍵となる。

花は、雨と雪に人間が切る服を着せ、外では基本的に人間の格好をさせ、人間の子供が通う学校に通わせるなど、子供たちが人間社会になじむための運動には非常に熱心であった一方、雨や雪の「おおかみ」の部分を育成することに関してはそこまで大きな努力をした形跡がない。花は人間であるため、子供たちに「おおかみ」としての教育を施すことがそもそも技術的に難しかったことを差し引いても、やはり花の育児や教育は子供らを「人間として育てる」方向へと大きく偏っていたように見える。雨の「違和感」は、己を人間に同化させようとするその「偏り」に対してのものだったのではないだろうか。

やがて雨は冬の雪山で野生に目覚め、山の主である老いたキツネを「先生」と呼んで師事し、「おおかみ」として生きる道を自ら切り開いていく。学校(≒人間社会)に行くよう強要する雪に対しては「嫌だ」、「(自分は)おおかみだから」と言って猛烈に反発し、大人しい性格だった雨はそこで恐らく生まれて始めて雪に暴力を振るうのである。家中を破壊するほどの激しさで繰り広げられた雪と雨の喧嘩の背景には、「おおかみこども」は「人間」であると断じ、弟に人間社会への同化を強制しようとする雪と、そんな姉に「おおかみ」としての自我を武器に抵抗する雨との間での深刻なイデオロギー対立が見られ、もはや「戦争」とすら言っていいほどに緊張感ある場面であった。

そして、やはりというか「戦争」は雨の勝利に終わり、(自分を「人間」だと思っている雪が「おおかみ」としての野生に目覚めた雨と素手でやりあって勝てるわけがない!)ある日ついに雨は、雪や花をも含めた人間社会そのものと決別するに至る。

作品全体で見た雨の心情描写は、花や雪に比べても一見やや少なめな印象を受けるが、それでも雨の「おおかみ」としての自我の目覚めと自覚、そして決断という流れには十分な説得力がある。

雨と花の別れのシーンについては次章でまた詳しく述べることとする。



Part04 花

~私が、守ってあげなきゃ~



本作で描かれている13年間という年月。そのほとんどを、花は自分の家族のために生きた。特に夫である「彼」の死以降、花が生きる意味は二人の子供だけだったといっても過言ではないだろう。

子供が病気になれば慌てて医院に電話し、時には近所から子供の泣き声がうるさいと心ない罵声を浴びる。大きくなった子供の身体に合わせた服を縫い、子供が学校で問題を起こしたらすぐに駆けつけてひたすら謝り役に徹する。また、田舎暮らしを始めてからの花は、自給自足のために農業を学び、汗まみれになって畑を耕すことで文字通り自らの血と肉でもって子供らとの生活を作り上げていった。そこにあるのは子育ての美しい点のみをことさらに描く上滑りな「感動」の押し売りではなく、物質的苦労や肉体の実感をも伴ったリアルな「生活」の描写であり、その誠実さは観客をして花に対する共感を抱かしめるのに十分であった。

子供たちへの献身に満ちた花の生活。その中で彼女は「愛を与える」ことの幸せを噛みしめていたはずだ。しかし、それほどまでに子供に愛を注いだとしても、子はやがて大きくなり、受けた恩など関係なしに親の元から去ってしまう。雨や雪もまた例外ではない。雨と雪はいずれ親離れの時を迎え、そうなれば花は望むと望まざるとに関わらず「子離れ」を迫られる。親の「子離れ」はしばしば子の親離れ以上に困難なものとなり得る。己の全てを子供に捧げて生きてきた花にとっての一番難しい重要な問題は、むしろ彼女自身の「子離れ」にこそあったのではないだろうか。そのように考えれば、本作のクライマックスで描かれる花と雨との別離には、雨の選択や自立という意味合いの他に、花の子離れというもう一つのテーマが隠されているという見方も可能である。

雨と花の関係性から見えてくる花の心情という観点で、本作の終盤を追ってみよう。

急速に「おおかみ」としての資質を開花させ、山にいる時間が長くなっていく雨に対して花が言う。「もう山へは行かないで」。しかし、雨は「先生」の死をきっかけにとうとう「おおかみ」として山で生きていく決意を固め、ある大雨の日、嵐の山へと一人旅立っていく。花は雨を探しに山へと向かい、熊との遭遇や崖からの滑落で全身ぼろぼろになりながらも雨の名を呼び続ける。母にとって、子供はいくつになっても子供である。今や一人前の「おおかみ」になりつつある雨のことを、花はまるで赤ん坊を気遣うように心配するのだった。「雨、どこかで震えてるんじゃない」、「私が守ってあげなきゃ」。

次に花が目を覚ました時、花は雨の手によって下山させられており、雨は今まさに山へ帰って行こうとするところであった。

去っていこうとする雨の背中に向かって、花は決定的な一言を叫ぶ。

「待って」、「だって私、まだあなたに何もしてあげていない!何も……」

育児のために大学まで辞め、人里離れた田舎で農業を一から学び、身を粉にして生活の全てを雨と雪のために捧げ、それでもなお彼女は、自分は雨にまだ何もしていない、もっともっと愛情を与えてあげたいと言うのだ。

「まだあなたに何もしてあげていない」。なんという激しい愛に満ちた母の言葉であろうか。我々は、花という人間の、この真に美しい感情の爆発を目撃するために映画館まで足を運んでいたのだ。そう思えるほどに力強くまた感動的なセリフである。

この言葉を聞き、今までどれだけ自分が母に愛されていたかを悟った雨は、一瞬だけ山へと向かう歩みを止め、迷うように花を振り返るが、すぐにまた森へと走り去ってしまう。

母は泣き叫ぶ。「雨!雨!」。しかし、朝日の下で雄々しく雄叫びをあげる雨の姿を見た花は、彼がもはや親の手を離れた独立した個であり、自分だけの世界を持った「おおかみ」であることを悟る。花は雨に「しっかり生きてっ!」と声をかけ、笑顔で雨との別れを受け入れるのだった。

この一連の流れを花の心情に着目して見ると、雨の自立を最初は拒絶(「もう山へは行かないで」)、次に心配や未練となり(「私が守ってあげなくちゃ」、「まだあなたに何もしてあげていない」)、最後に受け入れる(「しっかり生きてっ!」)という花の変化が極めてわかりやすい形で観察できる。「子離れ」に関する花の葛藤が解決されるまでを丁寧に描き、花の笑顔でもって作品を終わらせているところを見ても、やはり本作の実質的な主人公は花であったといっていいだろう。



Part05 最後に……

~愛と世界を肯定する細田イズム~



彼女の13年間に及ぶ子育ての物語は、雨と雪の自立と、花がそれを受け入れる(=子離れする)ことをもって終わりを告げた。しかし、映画は終わっても彼女ら三人の人生はまだまだこれからである。ラストシーン時でも、雪はようやく思春期といわれる年齢に差し掛かったところであるし、「おおかみ」としての雨の生活もまだ始まったばかりである。花もまだまだ若い。彼女らの人生がどうなっていくのか我々に知る術はない。しかし、なぜか彼女らの前途には幸せの予感が満ちているように思えて仕方ない。そう思わせるだけの何かが、世界というものを肯定したくなる何かが、本作にはあるのだ。

現代日本の代表的アニメーション監督である宮崎駿は、かつて自らの創作態度に言及し、「ぼくはやはり、一途に人を思うことはどういうことかということを、自分の願いもこめて描くことに活路を見い出してきた」、「この人間(他者)のために生きようとひたすら思ってる人間を描きたかっただけ」と語り、またアニメの主要な視聴者層である中高生に伝えたいメッセージとして「(何かを真剣に)やるに値するんだよ、この世は」という言葉を残している。

一途に人を思うこと。ひたすら他者のために生きること。そして、この世は生きるに値するということ。これらはまさに本作『おおかみこども』の主題そのものである。

本作の監督、細田守氏は2006年に『時をかける少女』を発表した当初から、その圧倒的な力量ゆえに、一部から「宮崎駿の後継者」的な存在として目されてきた。むろん細田守という映像作家の持つ多面性を無視し、単にここ数年の作品傾向だけで彼の全てを「宮崎駿」、「スタジオジブリ」といった鋳型に押し込めるような言説は細田氏への敬意を著しく欠くもので賛成することはできない。だが、少なくとも本作『おおかみこどもの雨と雪』において貫かれていた「生きる」というテーマや、愛の美しさを堂々と描くヒューマンな姿勢、そして世界を肯定的にとらえる人間描写の力強さなどは、いずれも多くの宮崎作品にも共通のものであり、細田氏が宮崎駿監督に比肩しうる可能性を持った数少ないアニメーション監督であるという主張にはうなづかざるを得ない。

細田守監督がこれからも世間が期待する「ジブリ的」な作品を撮っていくのかはわからない。しかし、愛と世界とそして人間への賛歌に満ちた『おおかみこどもの雨と雪』は、かつての宮崎駿作品のように、これからも様々な年齢層の視聴者に親しまれる作品として末永く生き続けることだろう。真に「国民的」な傑作である。(47)

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