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映画評論 Season 2 第5回 母親も1人の人間だと思い起こすために 『ハード・トゥルース 母の日に願うこと』

2025.11.01

映画評論 Season 2 第5回 母親も1人の人間だと思い起こすために 『ハード・トゥルース  母の日に願うこと』

パンジー(左)とシャンテル ©Untitled 23 / Channel Four Television Corporation / Mediapro Cine S.L.U.

【寄稿】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ 文学研究科教授

主人公・パンジーは鬱病と不安症を患っており、働き者で温厚な配管工の夫・カートリーと、引きこもりの20代の息子・モーゼスと3人で、モデルハウスのように清潔で整頓が行き届いた家に暮らしている。病気のせいか、生来の短気な性格ゆえか、家族から見知らぬ人まで、文字通り出会う人々全てに彼女は毒舌を吐く。パンジーの不安症は深刻で、常に体の不調や睡眠不足を唱え、外出を恐れ、動物や植物にも嫌悪感を抱いている。そんな彼女に、諦めずに声をかけ続けるのが美容師の姉・シャンテルである。成人した娘が2人いるシングル・マザーのシャンテルは、母が亡くなって5年目になる母の日に「一緒に墓参りへ行こう」とパンジーを根気よく誘う。母の墓前で初めてパンジーの鬱病や不安症の一因が明らかにされ、シャンテルはパンジーに対して「あなたを理解できないけれど、愛している」と伝える。

マイク・リー監督


本作品がワールド・プレミアとして公開されたのは2024年9月、トロント国際映画祭でのことであった。アメリカとイギリスでの公開以来、「マイク・リーの労働階級家族ドラマの再来」としてジャーナリストの間で話題になっただけに、今秋ようやく日本で公開されたことが手放しで嬉しい。

今年82歳になるマイク・リーは、1990年代以降『秘密と嘘』(96)、『ヴェラ・ドレイク』(2004)、『ハッピー・ゴー・ラッキー』(08)、『家族の庭』(10)といった傑作を作り続け、数々の国際映画祭で暖かく迎え入れられてきた文字通りの巨匠だ。彼の演出方法は独特であり、撮影前は確固とした脚本を用意することがないと言われてきたが、インタビューで自己の演出方法を以下のように説明している。「撮影前に長い時間をかけることで、キャラクターの世界観、彼らの関係性、背景、その人物の始まりの部分も生み出します。そして、本当の仕事は実際に撮影することです。撮影が始まる前に私は大まかなシナリオを作ります。(中略)ロケ地に行き、何ヶ月もかけてやってきた即興演技をし、リハーサルを通して次のシナリオを書き上げます。(中略)映画で観客が見るのは、すべて即興演技、という誤解もあるようですが、この映画には、いわゆるアドリブはありません。」 (※)

英国、特にロンドンに根付いた庶民の人間模様を描くことに長けたマイク・リーは、もう一人の英国の名匠ケン・ローチと世代を共有している。このような映画が産んだ芸術家たちの作品を、同時代に映画館で見ることができることは決して当然なことではなく、今、この時代に生きていることに心から感謝する。

複数の真実


本タイトルは「Hard Truths」であり、「母の日に願うこと」はおそらく日本の配給会社が作品を解りやすくするために後付けしたもので、英語原題にはない。Truthが複数形になっているように、パンジーを中心に据えた物語は1つの帰着点に落とし込まれることはない。

英国の母の日はイースターの3週間前の日曜日で、毎年日にちが変わる。まだコートが必要な肌寒い初春に、シャンテルとパンジーは、母親の墓参りに出かける。その後2人は車でシャンテルの家に向かう。そこではシャンテルの2人の娘がご馳走を作ってパンジー一家を温かく迎え入れる準備をしており、カートリーとモーゼスもすでに到着している。

しかし、ここまで気まずい家族の団欒(?)は珍しい。観客さえも、居たたまれない感情に陥る。怒りと不安から沈黙を決め込んだパンジーに、母の日の贈り物としてモーゼスが花束を買い、自宅のダイニングテーブルに置いてきたことが告げられる。パンジーは「ありがとう」と言おうとするが、彼女は涙を流し続ける。彼女にとって、その一言を告げることすら、われわれの想像を超えるエネルギーと決意が必要なようだ。

通常のファミリー・ドラマであれば、この涙の瞬間から家族の心のガードが少しずつ下がり、ハッピーエンドを迎えそうだが、本作は「Dark Comedy」「Psycho-logical Drama」 に分類されているように、単純明快な終わり方はしない。翌日、仕事中にぎっくり腰になってしまったカートリーがほうほうの体で帰宅したにも関わらず、2階の寝室で昼寝をしていたパンジーがすぐさまカートリーを助けにいく様子はない。キッチン・テーブルに痛みをこらえながら腰掛け、彼女の助けをひたすら待つカートリーが、一筋の涙をこぼす。2人はこれからどうなるのだろう。精神病の手強さや、愛の在り方の可変性、様々な要素が絡まる人生に潜む多くの真実の中から、どの真実が選び取られていくのだろう。

50代も後半に差し掛かり、これまでの人生の結果が色々な意味で可視化される年齢になった1人の女性を描いた本作。映画評を読んでいる多くの学生たちにとって、おそらく彼女が見つめている答えのない深い悲しみは、想像の域を超えるものかもしれない。しかし、ある母の日の、1人の女性の姿が、われわれの多くが「母親像」に重ね合わせる価値観とは必ずしも同じではないことに確実に気付くだろう。自分たちと同じ1人の人間として、戸惑いながら生きる姿として描かれた女性の物語は、誰にとっても必見の作品だと思う。

(※)『ハード・トゥルース 母の日に願うこと 〈プレス資料〉』内の「マイク・リー監督インタビュー」より、8―9頁。

◆映画情報
原題 Hard Truths
監督・脚本 マイク・リー
製作国 イギリス
上映時間 97分
京都ではUPLINKにて10月31日(金)より公開

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