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〈映画評〉血の繋がりを超えた「父性」 『ワン・バトル・アフター・アナザー』

2025.10.16

〈映画評〉血の繋がりを超えた「父性」 『ワン・バトル・アフター・アナザー』

主人公のボブ(演:レオナルド・ディカプリオ)© 2025 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED.

よれよれの服、整えられていない無精髭、ぼさぼさで後退ぎみの髪。『ワン・バトル・アフター・アナザー』の予告で主人公を初めて目にした時、「汚いおっさんだな」と正直に思った。が、演じているのは『タイタニック』(1997)以来ハリウッドの第一線で活躍してきたレオナルド・ディカプリオ。端正な「レオ様」のイメージと、オーラゼロの身なりが妙にちぐはぐで、気になって劇場へ足を向けた。

主人公のボブは元革命家。娘のウィラ(演:チェイス・インフィニティ)と共に暮らしていたが、ある日軍人のロックジョー(演:ショーン・ペン)が現れ、2人を捕らえようとしてくる。離れ離れになった2人は、逃走しながら再会を試みる……。

まず演出について。本作は誇張抜きに、ほぼ全てのシーンで背景音楽が流れている。物語の雰囲気作りに大きく寄与している一方、無音の時間があまりに少ないため、少々耳障りに感じる観客もいるかもしれない。また字幕版のみの上映とはいえ、卑猥な言葉もひっきりなしに出てくるから、苦手な方はやや注意が必要である。

物騒なタイトルのわりに、本作のアクションシーンは数える程度だ。カーチェイスや逃走劇も、トム・クルーズ作品のような華やかさはない。そればかりか、主人公が披露するスタントがことごとく失敗するのだから、「アクション映画」としては相当異端といえる。代わって本作でフォーカスされるのは、人種差別や移民問題といった、アメリカ、ひいては全世界が抱える深刻な問題である。そしてもう1つのテーマとなるのが「父性」のあり方だ。

物語中盤からはウィラの「生物学上の父」たるロックジョーと、「育ての父」たるボブの対比が鮮やかに描かれる。ロックジョーは白人で筋肉モリモリ、風貌は「イケオジ」そのままで、古めかしい「理想の男性像」を体現している。歪んだ白人至上主義を持ち、黒人である娘のウィラを「過去の汚点」として身勝手にも排除しようとするさまは、父権主義の権化そのものだ。対照的に、ボブは酒とマリファナに溺れ、革命の闘志も失ってしまい、娘からも呆れられるほどのだらしない男である。それでも16年の時を過ごしてきた娘と再会するため、屋根から落ちようと、車から振り落とされようと、戦いに身を投じ、娘を受け入れようとする。本作は生まれや人種で人を捉えることの愚かさを喝破すると同時に、父権主義と血の繋がりを乗り越えた、新しい父性のあり方を示す作品でもある。

ボブはトム・クルーズが演じるようなヒーローではない。非力な彼の奮闘は、2時間40分という長尺の割に「大山鳴動して鼠一匹」な結末を迎える。それでもラストシーン、ボブの表情は序盤よりずっと穏やかだ。現実だって、投げつけられた偏見や差別と戦い続けなければならない人がいる。本作はそんな「戦闘、また戦闘」の日々を生き抜く人々へ向けた、ささやかな応援歌である。(晴)

◆映画情報
監督・脚本ポール・トーマス・アンダーソン
配給ワーナー・ブラザース映画
2025年10月3日より全国公開中
上映時間162分

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