〈寄稿〉百周年に寄せて 松浦さと子(龍谷大学政策学部教授)「現役学生のケア・ジャーナリズム」
2025.04.01
各地のキャンパスで、学生不在となったコロナ禍を経て、気がつけば多くの大学新聞が失われた。そして私の勤務校でも京都大學新聞の翌年、つまりほぼ同時期に創刊された大学新聞が、気づけば組織もろとも消失していた。コロナがなければ百周年を寿いでいたかもしれない。しかし、「若者と民主主義」を研究する目的で、京大新聞社の現役記者のみなさんにインタビューして、コロナのせいだけではなかったことがわかった。
学生記者のみなさんは、私が問いかけるまで、自ら「ジャーナリズム」を意識していないと言っていたし、左巻きじゃないですよ、インテリって思わないでくださいねと念を押して、革新の気風と反骨精神を期待しすぎる私に釘を刺してから、インタビューに答えてくれた。「あれ、イメージと違ったかな」と思ったが、現役記者たちは、100年の歴史を紡ぐ京大新聞の作り手として、実はとても筋が通っている記者魂を語った。
農村の無人野菜売り場のように無造作に置かれた新聞の販売拠点の箱のなかに、ちゃんと新聞代金が、ときには多めに入っていることに気づき、こんなに小さな規模の新聞がなぜ運営し続けられるのかと、コミュニティメディアの持続可能性を問う経済学部の記者がいる。いま、ここにいる仲間たちの努力や苦労や魅力を最大限に引きだそうと長期間探し続け、観察し、話を聴いて、記事を書くという、こんな「こと、AIにできない」と誇りに打ち震える法学部の記者もいる。
新入生歓迎号に京大キャンパスの植物を網羅した記者は医学部生。困難な手術や治療ができる技術優先の医学でいいのか、道端のタンポポの生命力に気づく気持ちがなくて病む人に向き合えるのか、という問いからだという。選挙は欠かさず行く。が、投票の判断の指標は、「壁と卵」。卵の側に投票するのだそうだ。村上春樹がイスラエルで講演した際に用いた、政治的な暴力システムを壁に、その犠牲者を卵にたとえた表現だ。多くの学外の人々から「京大生の政治志向」に関心が寄せられることに対して、現役大学新聞記者たちは抵抗を感じていた。そのことも意図しているかもしれないが、しかしはっきりとした意思表示だった。
文学部生の記者は、ジェンダー分析報道が総量調査に依拠されすぎていることに抵抗を示していた。そういう大学の姿勢に嫌気がさして他の難関国立大学を辞めて京大に入りなおし、京都大学新聞が「それほど左翼的ではないな」と入部した。映画評などを書いていたが、同級生がメンタルを病んでいるのに学内の保健診療所が廃止されたときに、にわかに厳しく問題意識を前面に取材記事を書く。彼女は、隣人が痛い思いをしていることが肌で感じられたときに、「ジャーナリズム」を発動させた。
京都大学新聞では編集長を置かない。「まとめ役」、「お世話役」と記者たちから呼ばれている文学部修士生は、編集会議ではあくまでも合議制をとっている。が、複数人数の話し合いで結論を出すことはとても難しいうえに、今ではSNSの存在も無視できないであろう。京都市内のある大学新聞では、毎日の記事のアクセス数を書き手が確認できるようになっていて、読者ニーズも良きにつけ悪しきにつけ、反映される。しかし、京都大学新聞では企画案はすべて編集会議の俎上にあがり、無視や断罪されたりはしない。どうやって「決められる」のだろう、と不思議に思うのだが、そこに「お世話役」がやわらかなリーダーシップを発揮している。
裕福と思われている難関大学学生たち。学生記者たちも貧困とは思えないのだが、アルバイトと奨学金で学業を終えるお世話役が、京都大学生がみな裕福なわけではないと、社会の思い込みを厳しく正す。大学新聞のバランスはそこにある。寮費が安価で知られる吉田寮と、現役、OB記者たちの関係は深い。
お世話役の院生が薦めてくれた『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』1990(草思社)という、創刊から65年の編集の記録は、現役記者も講読会をしている貴重な書籍である。歴史を踏まえ、目指す方向がぶれていないかを確かめながら、現在の大学新聞も取材・編集作業が続けられている。
現在の学生記者たちは、自治や民主主義のために「優しい」のだ。受験生へ、貧しい仲間に、地域の人々へ、病む隣人に、がんばる京大生はもちろん、卒業生や、単なる世話焼きな人々も、京都大学をコアにつながるすべての人々に、それは通りすがりの修学旅行生や吉田神社の祭礼参加者にも、自分たちは4年でメンバーが入れ替わる大学という「暴力装置」なのだから、と、謙虚で感謝に満ちている。そして無邪気で明るくて、OBの新聞記者から、「なんであんなに楽しそうなんや」とうらやましがられる記者たちだ。
『権力にアカンベエ!』には、あるOBのあげた京大新聞の3原則が紹介されている。「1、弱いものいじめをしないこと2、正しいことの前で素直であること3、自分で考え、訴えることの大切さ。」現役記者の話を聴いて、今もこの原則が記者たちに共有されていることがわかったように思う。ケアの倫理は近年とても注目されているが、京都大学新聞のケア・ジャーナリズムは100周年を迎えた。
なお、このインタビューは、只友景士・奥野恒久編『若者と民主主義の今その遠心力と求心力』2025(晃洋書房)の第七章「創刊100年に聴く大学新聞現役記者たちのジャーナリズム観彼らの『ケアの倫理』と民主主義」にまとめました。
学生記者のみなさんは、私が問いかけるまで、自ら「ジャーナリズム」を意識していないと言っていたし、左巻きじゃないですよ、インテリって思わないでくださいねと念を押して、革新の気風と反骨精神を期待しすぎる私に釘を刺してから、インタビューに答えてくれた。「あれ、イメージと違ったかな」と思ったが、現役記者たちは、100年の歴史を紡ぐ京大新聞の作り手として、実はとても筋が通っている記者魂を語った。
農村の無人野菜売り場のように無造作に置かれた新聞の販売拠点の箱のなかに、ちゃんと新聞代金が、ときには多めに入っていることに気づき、こんなに小さな規模の新聞がなぜ運営し続けられるのかと、コミュニティメディアの持続可能性を問う経済学部の記者がいる。いま、ここにいる仲間たちの努力や苦労や魅力を最大限に引きだそうと長期間探し続け、観察し、話を聴いて、記事を書くという、こんな「こと、AIにできない」と誇りに打ち震える法学部の記者もいる。
新入生歓迎号に京大キャンパスの植物を網羅した記者は医学部生。困難な手術や治療ができる技術優先の医学でいいのか、道端のタンポポの生命力に気づく気持ちがなくて病む人に向き合えるのか、という問いからだという。選挙は欠かさず行く。が、投票の判断の指標は、「壁と卵」。卵の側に投票するのだそうだ。村上春樹がイスラエルで講演した際に用いた、政治的な暴力システムを壁に、その犠牲者を卵にたとえた表現だ。多くの学外の人々から「京大生の政治志向」に関心が寄せられることに対して、現役大学新聞記者たちは抵抗を感じていた。そのことも意図しているかもしれないが、しかしはっきりとした意思表示だった。
文学部生の記者は、ジェンダー分析報道が総量調査に依拠されすぎていることに抵抗を示していた。そういう大学の姿勢に嫌気がさして他の難関国立大学を辞めて京大に入りなおし、京都大学新聞が「それほど左翼的ではないな」と入部した。映画評などを書いていたが、同級生がメンタルを病んでいるのに学内の保健診療所が廃止されたときに、にわかに厳しく問題意識を前面に取材記事を書く。彼女は、隣人が痛い思いをしていることが肌で感じられたときに、「ジャーナリズム」を発動させた。
京都大学新聞では編集長を置かない。「まとめ役」、「お世話役」と記者たちから呼ばれている文学部修士生は、編集会議ではあくまでも合議制をとっている。が、複数人数の話し合いで結論を出すことはとても難しいうえに、今ではSNSの存在も無視できないであろう。京都市内のある大学新聞では、毎日の記事のアクセス数を書き手が確認できるようになっていて、読者ニーズも良きにつけ悪しきにつけ、反映される。しかし、京都大学新聞では企画案はすべて編集会議の俎上にあがり、無視や断罪されたりはしない。どうやって「決められる」のだろう、と不思議に思うのだが、そこに「お世話役」がやわらかなリーダーシップを発揮している。
裕福と思われている難関大学学生たち。学生記者たちも貧困とは思えないのだが、アルバイトと奨学金で学業を終えるお世話役が、京都大学生がみな裕福なわけではないと、社会の思い込みを厳しく正す。大学新聞のバランスはそこにある。寮費が安価で知られる吉田寮と、現役、OB記者たちの関係は深い。
お世話役の院生が薦めてくれた『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』1990(草思社)という、創刊から65年の編集の記録は、現役記者も講読会をしている貴重な書籍である。歴史を踏まえ、目指す方向がぶれていないかを確かめながら、現在の大学新聞も取材・編集作業が続けられている。
現在の学生記者たちは、自治や民主主義のために「優しい」のだ。受験生へ、貧しい仲間に、地域の人々へ、病む隣人に、がんばる京大生はもちろん、卒業生や、単なる世話焼きな人々も、京都大学をコアにつながるすべての人々に、それは通りすがりの修学旅行生や吉田神社の祭礼参加者にも、自分たちは4年でメンバーが入れ替わる大学という「暴力装置」なのだから、と、謙虚で感謝に満ちている。そして無邪気で明るくて、OBの新聞記者から、「なんであんなに楽しそうなんや」とうらやましがられる記者たちだ。
『権力にアカンベエ!』には、あるOBのあげた京大新聞の3原則が紹介されている。「1、弱いものいじめをしないこと2、正しいことの前で素直であること3、自分で考え、訴えることの大切さ。」現役記者の話を聴いて、今もこの原則が記者たちに共有されていることがわかったように思う。ケアの倫理は近年とても注目されているが、京都大学新聞のケア・ジャーナリズムは100周年を迎えた。
なお、このインタビューは、只友景士・奥野恒久編『若者と民主主義の今その遠心力と求心力』2025(晃洋書房)の第七章「創刊100年に聴く大学新聞現役記者たちのジャーナリズム観彼らの『ケアの倫理』と民主主義」にまとめました。
まつうら・さとこ 京大の特任研究員などを経て龍谷大学教授。専門はコミユニティメディア。23年1月に編集部を訪れ、その後編集員へのヒアリングを実施し書籍を執筆。
