文化

〈寄稿〉百周年に寄せて 藤井建人(日本印刷技術協会シニアフェロー)「京大新聞に見る100年メディア経営の条件 持続的なビジネスモデルはいかに成立したか」

2025.04.01

希望の門出と困難の草創期


京都大学新聞は1925年に全国7紙目の学生新聞として創刊した。時代背景は、関東大震災の2年後で関西は物資供給の復興特需があり、スポーツは東京帝国大学との対抗戦が盛り上がり、大正デモクラシーもあって賑やかだったようだ。しかし裏では治安維持法が公布され軍靴が忍び寄っていた。公務員初任給が70円の時代に年間予算が1万円(現代の価値で約4千万円)だった。新聞は当時最先端のITメディアであったことを思えば無理もない。1部5銭は現代では200円程度か。月2回発行、4~6頁、翌年には月3回発行、さらにその3年後には週刊化した。旺盛な読者ニーズと広告引き合いのあった様子がうかがわれる。

しかし、創刊翌年には検閲が始まり、3年後には各種圧力から部長が退陣に追い込まれる。4年後には同志社大学の学生新聞が御用新聞になることを拒否して抗議の解散、その前には早大と北大も発行停止になっていた。戦時色が強まるなか、政府と大学による京大新聞への圧力は強まっていく。5年後には2頁、月2回発行に縮小、下級生21人が全員退部させられるなど体制は締め付けられていった。10年目には全員が抗議の総退部をしてしまい、発行人の入山雄一だけが残された。1941年には特高警察から発禁処分を受けた。

ジャーナリズムとしての学生新聞の歩みは研究がほとんど手つかずのようだ。多くの学生新聞が諸事情で発行を断念するなか、なぜ京大新聞は100年続いたのか。ゴーイングコンサーンとされる営利企業の新聞社や出版社でさえ、100年の歴史を持つのは数えるほどだ。ましてや、京大新聞はアマチュアである。新聞発行に必要な取材・執筆などを教えても4年で卒業してしまう。ノウハウ継承は民間企業よりはるかに困難であろう。しかも学生の本分は学問であって新聞は生業ではない。それなのに、どのように100年に渡って先輩から後輩へバトンをつないだのか。メジャーな新聞や雑誌の発行断念が相次ぐ今日、京大新聞の軌跡はメディアの持続性に関する多くの示唆を含んでいよう。

独特のビジネスモデルを形成


現在、京大新聞はブランケット判、4〜6面の新聞を月2回発行する。発行元は京都大学新聞社だが株式会社や社団法人ではなく任意団体、要するにサークルだ。にも関わらず「社」を称したのは、戦前に政府と大学の干渉が繰り返され、機関紙のようになりがちだったので独立の気概を込めたことによる(1946年)。京大新聞の持続性を考えるうえで、法人格を持たない点は興味深い。先に創刊した東京大学新聞は戦後まもなく財団法人を設立した。他大学、他メディアと比較すると、京大新聞は自主財源の任意団体による定期刊行物として現存する日本最古のメディアである可能性を指摘できる。

サークルなのに会費を徴収していない。副業の収入が潤沢だった時には取材などに薄謝を支給したこともあった。会費がないので未払いによる退会がなく、一度「入社」すると卒業するまで「社員」になる。実働のない社員であっても、籍があれば頼みごとをする時に便利という。専用の部室が大学構内にあり、任意団体としてのあやうさを固定拠点があることの確かさが補う。同窓組織「インテル会」は4年単位で入れ替わる学生組織に長期視点の見守りと助言の機能を果たす。

収入は購読料、広告費、入学・卒業アルバム販売の3本柱から構成される。収入の多角化を重視している点は大手新聞社となんら変わらない。過去には入試の合否電報サービス、受験ガイドや就職情報誌の刊行を収入源にしていた時期もあった。学生自らが紙の新聞の発行コストを創出しようと、常に独自の収入源を求めてきた。時には民間のアルバム業者とぶつかり、時には副業がうまくいって滞納した200人への原稿料を詫び状とともに一括返済した。自主財源は京大新聞の独立性を担保する最も基礎的な基盤の一つになってきた。

世代を超えて受け継ぐ発行継続の思い


創刊号で「不偏不党」を掲げた京大新聞の理念は、現在も「権力にアカンベエ」の一言に受け継がれている。一般的に学生新聞が主語に「本学」を使うなか、京大新聞は「京大」を用いる。大学とも一定の距離を置くことで報道の中立性を表現し、批判的な視点を保つ立場を常に再表明している。

取材、執筆、割付は、決まった編集長やデスクがいない輪番制をとる。発行号ごとに編集長は異なり、デスクは記事を書く人がなる。全共闘運動の反省から、権力を批判する側がピラミッド型の権力構造を持つべきではないとの考えに行き着いた。紙面全体の調整は全員参加の編集会議で決まる。

原稿は社員自らInDesign(adobe社)を操作し、DTPで組み上げて印刷会社にデータ入稿する。現存する学生新聞のなかでは最も早く紙面制作の自主デジタル化に取り組み、1996年にはプロ向けの組版ソフトEdicolor(住友金属)を導入した。制作費用は劇的に下がり、原稿を急いで大阪の印刷会社へ社用車で届ける必要もなくなった。

発行は月2回、年20回としているが、発売日やページ数はかなりふらつく。記録には「2100号が欠番になった。節目だからしっかり準備しようとして1号飛ばしたら、結局うやむや」(1991年)とある。「定期的に発行できている」「稀に見る事態」。「4面にするのは厳しいから2面でいいか」「いや、だめだ」というやりとり(2005年)。「間に合わず、印刷会社に詫びて入稿日をずらすことが複数回あった。月2回の発行を1回にまとめる合併号」(2018年)など。理念、運営、紙面の水準が高い反面、発行の緩さが特徴的である。

一方、発行継続の意思は世代を超えて高く維持された。「編集員はわずか2、3人。それも4回生や院生で、後を継ぐメンバーがいない。運営資金も枯渇寸前」「新聞をつぶさないことが最大の目的だったね」(1975年)。「新聞は出し続けないといけないと思った。いつつぶれてもおかしくなかったけど、途絶えると後が大変だから、細々でも続けようと。つぶさないようにどうすればいいかだけを考えていた」(1980年)。「いろいろあってだんだん抜けて、女性編集員が自分だけになった。最終的には3人で回していた。とにかく新聞を出さないといけないという思い」(2001年)。

任意団体で最も歴史ある新聞


京大新聞の創刊時の紙名は「京都帝国大学新聞」であった。冒頭で述べたように、戦前は政府・大学の干渉が繰り返された。第二次大戦末期は用紙不足のため、やむなく各帝国大学との合同で「学生新聞」を発行した。戦後も用紙不足は続き、関西一円の大学・高校向けのための「学園新聞」を称して用紙供給を受けた。管理権を持ちたい大学側と編集権を持ちたい新聞側の闘争(注)を経て、独立採算でどこにも中立の現在のメディア経営モデルが確立していった。現在の「京都大学新聞」への改題は1959年である。マスメディアのようだった紙面は読者ニーズの変容によって徐々に京大が舞台のコミュニティペーパーに変わっていった。

100年には2人の世話役の伴走があった。入山雄一は創刊から永眠(1979年)まで。新聞社OBとして創刊に立ち会い、一歩退いた立場を取りつつ経営からジャーナリズムまで全面的に支援した。総退部の際には1人で発行を続け、印刷費が枯渇した際には自宅を担保に資金調達した。もう一人は、以後、事務員として現在まで長く勤める文字通りの黒子の存在だ。2人は社員の出入りの多さが宿命的な学生新聞社で、世代間のかすがいとして、精神的な拠り所としての役割を担った。

京大新聞は、紙名や紙面、配布エリア、財源を変えながらも、理念と組織のあり方は変えず、伝統的なブランケット判の新聞であることにこだわって長い休刊もなく100年を迎え、通巻2700号超に達した。現存する任意団体によるブランケット判の新聞では世界最古の可能性すらある。学生新聞ながら、持続的なメディアの条件を兼ね備えたからこそ100年を超えた。本稿はジャーナリズムではなく、筆者の専門のメディア経営の観点から考察した。京大新聞は紙面だけでなくビジネスモデルも面白い。

注 現在、京大新聞は京大の書類配送網を利用させてもらって配達するなど、京大とは良好な関係を保っている。

※参考として紙面連載『京大新聞の百年』や書籍『権力にアカンベエ: 京都大学新聞の六五年』を参照、編集員にヒアリングを実施。


ふじい・たけと 群馬大などの研究員のほか、日本印刷技術協会シニアフェローを務める。紙面連載第十四回で取材。

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