〈寄稿〉百周年に寄せて 杉本恭子(フリーライター)「忘却にたいする記憶の闘い」
2025.04.01
学生だった頃、まだ西部に残っていた旧京都大学新聞ボックスを覗いたことがある。誰もいなかったので、雑然とした室内に一歩だけ入ってみた。白々とした蛍光灯の下、古い木造の建物と紙の匂いが混ざり合い、折り重なった時間の重力を感じたのを覚えている。ここが『権力にアカンベエ―― 京都大学新聞の六五年』(草思社)の場所なのか、と思った。
それから25年後、わたしはひょんなことから『京大的文化事典ー自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)という本を書いた。鴨川の向こう側、同志社大学の自治空間に身を置いていたわたしは、吉田寮や熊野寮、西部講堂、ブンピカ、時計台前での集会などによく足を運んでいた。自転車で加茂大橋を渡ってタテカンだらけの百万遍まで来ると、胸の奥まで空気を吸い込みたくなるような解放感があった。ところが、2018年5月にタテカンが撤去されて以来、そのゆるぎない解放感にヒビが入りはじめた気がしていた。今すぐに記録をはじめなければ、わたしたちがいたあの場所は、わたしたちの記憶にしか残らなくなる。半ば、焦燥感に駆り立てられるようにして、わたしは懐かしい友人たちにひさしぶりに会い、彼らの関係性を辿りながらより若い世代の卒業生・学生、教職員、京大が自治の主体としてきた″当事者″に話を聞いていった。他ならぬ彼らの語りによって、京大にしかないあの解放感の輪郭を描きたかった。
しかし、その目論見はごく初期の段階で打ち砕かれた。京大の人たちは、自分たちが見たいものを見て、やりたいことだけをやるのである。彼らの記憶は非常に鮮明だが個別性が高く、あまりに網羅的ではなかった。同書に「好きなことしかできないのは才能だ」と書いたら、多くの京大関係者から熱い賛同のメッセージが届いたのだが、つまりはそういう人たちなのだ。しかも彼らは「まとめる」という力学に生じる権力性に懐疑的である。その個人分散性こそが京大的文化をつくってきた根幹だと言っても過言ではない。
京大の人々の語りを編むには、縦糸となる記録を必要とした。そのひとつが、京都大学新聞だった。わたしは総合図書館に通いつめ、1988年以降のバックナンバーをすべて閲覧した。そして、学生の視点で伝えるメディアの存在が、京大の言論の自由と京大的文化を支えてきたのだと強く確信した。京都大学新聞なしに、わたしは『京大的文化事典』は書けなかった。
昨年、古道具市の片隅で古ぼけた箪笥の引き出しに、昭和20年8月24日の毎日新聞を見つけた。玉音放送から9日目、京都の街の朝に投げ込まれた新聞は、黄茶色に変色し破れてはいたが丁寧な折り目がついていて保管の意図が感じられる。紙面に刻まれた見出し「大東亜戦争」「停戦の事實」「学徒隊」「戦災都市八十二」「聖慮畏し」「退職軍人相談所」「聯合軍軍票」||歴史書でしか見たことのない言葉に埋め尽くされた日常があったのだと、想像する距離を失った。時代を、世界を記録する意味はここにある、と思った。なんてことのない日常のこの一瞬を、遠い過去にも遠い未来にもつなげるのが、日常を記録する新聞というメディアに課せられた役割なのだ。現・編集員のみなさんには、京都大学の当事者であるあなた自身の言葉で、今この瞬間に捉えたものごとを伝えてほしい。書くときには「誰の隣に立ちたいのか」と自らに問うことも忘れないでほしい。わたしたちのペンは、人を傷つけることから逃れえないからだ。
あの本を書きはじめたとき、なにげなく自分の本棚からミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』を手に取った。「今は一九七一年。ミレックは言う。権力にたいする人間の闘いとは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない、と」。この一文を読み、そうだと思った。わたしたちは常に、忘却にたいする闘いを続けなければならないんだ、と。百周年を迎える京都大学新聞社に、クンデラの言葉を贈りたい。
* * * * *
大阪出身。1997年同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻修了。学生時代は同大の自治寮・アーモスト寮、学生会館別館で過ごす。現在もアジールとなりうる空間、自治的な場に興味をもち、フリーランスのライターとして取材・執筆を行っている。著書に『京大的文化事典〜自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)など。
それから25年後、わたしはひょんなことから『京大的文化事典ー自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)という本を書いた。鴨川の向こう側、同志社大学の自治空間に身を置いていたわたしは、吉田寮や熊野寮、西部講堂、ブンピカ、時計台前での集会などによく足を運んでいた。自転車で加茂大橋を渡ってタテカンだらけの百万遍まで来ると、胸の奥まで空気を吸い込みたくなるような解放感があった。ところが、2018年5月にタテカンが撤去されて以来、そのゆるぎない解放感にヒビが入りはじめた気がしていた。今すぐに記録をはじめなければ、わたしたちがいたあの場所は、わたしたちの記憶にしか残らなくなる。半ば、焦燥感に駆り立てられるようにして、わたしは懐かしい友人たちにひさしぶりに会い、彼らの関係性を辿りながらより若い世代の卒業生・学生、教職員、京大が自治の主体としてきた″当事者″に話を聞いていった。他ならぬ彼らの語りによって、京大にしかないあの解放感の輪郭を描きたかった。
しかし、その目論見はごく初期の段階で打ち砕かれた。京大の人たちは、自分たちが見たいものを見て、やりたいことだけをやるのである。彼らの記憶は非常に鮮明だが個別性が高く、あまりに網羅的ではなかった。同書に「好きなことしかできないのは才能だ」と書いたら、多くの京大関係者から熱い賛同のメッセージが届いたのだが、つまりはそういう人たちなのだ。しかも彼らは「まとめる」という力学に生じる権力性に懐疑的である。その個人分散性こそが京大的文化をつくってきた根幹だと言っても過言ではない。
京大の人々の語りを編むには、縦糸となる記録を必要とした。そのひとつが、京都大学新聞だった。わたしは総合図書館に通いつめ、1988年以降のバックナンバーをすべて閲覧した。そして、学生の視点で伝えるメディアの存在が、京大の言論の自由と京大的文化を支えてきたのだと強く確信した。京都大学新聞なしに、わたしは『京大的文化事典』は書けなかった。
昨年、古道具市の片隅で古ぼけた箪笥の引き出しに、昭和20年8月24日の毎日新聞を見つけた。玉音放送から9日目、京都の街の朝に投げ込まれた新聞は、黄茶色に変色し破れてはいたが丁寧な折り目がついていて保管の意図が感じられる。紙面に刻まれた見出し「大東亜戦争」「停戦の事實」「学徒隊」「戦災都市八十二」「聖慮畏し」「退職軍人相談所」「聯合軍軍票」||歴史書でしか見たことのない言葉に埋め尽くされた日常があったのだと、想像する距離を失った。時代を、世界を記録する意味はここにある、と思った。なんてことのない日常のこの一瞬を、遠い過去にも遠い未来にもつなげるのが、日常を記録する新聞というメディアに課せられた役割なのだ。現・編集員のみなさんには、京都大学の当事者であるあなた自身の言葉で、今この瞬間に捉えたものごとを伝えてほしい。書くときには「誰の隣に立ちたいのか」と自らに問うことも忘れないでほしい。わたしたちのペンは、人を傷つけることから逃れえないからだ。
あの本を書きはじめたとき、なにげなく自分の本棚からミラン・クンデラの『笑いと忘却の書』を手に取った。「今は一九七一年。ミレックは言う。権力にたいする人間の闘いとは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない、と」。この一文を読み、そうだと思った。わたしたちは常に、忘却にたいする闘いを続けなければならないんだ、と。百周年を迎える京都大学新聞社に、クンデラの言葉を贈りたい。
大阪出身。1997年同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻修了。学生時代は同大の自治寮・アーモスト寮、学生会館別館で過ごす。現在もアジールとなりうる空間、自治的な場に興味をもち、フリーランスのライターとして取材・執筆を行っている。著書に『京大的文化事典〜自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)など。
すぎもと・きょうこ 19年1月に当該書籍の取材で本紙編集部を訪れた縁がある。
