〈寄稿〉百周年に寄せて 藤原辰史(京都大学人文科学研究所准教授)「敗北の時代の光に向けて」
2025.04.01
京都大学新聞が権力と対峙した百年の歴史は、どんな言葉でまとめられるのだろうか。現状の京都大学、いや日本の大学全般を眺めてみるならば、残酷な言い方だが、敗北の歴史だったのかもしれない。1995年に入学した私は、「自由の学風」に憧れて京都大学の構内に足を踏み入れたが、いつのまにか校舎に鍵がつけられるようになり、部屋も自由に使えなくなり、大学側は学生をカスタマーとしてとらえるようになり、私を含む教員のことを「教授」と学生が呼ぶようになり、百万遍から立て看板がなくなった。そして、先輩たちに聞くと、私が入学したときにはすでに自由なるものはかなり失われた後だった聞いて愕然とした。
自由とは、自分で試みた責任が自分に跳ね返ってくる痛みをもった自由だった。社会から跳ね返ってくる反応が学生にもたらす痛みによって、自分が大学生であることの地球社会における特異性を知り、そこから変革の萌芽を探る試みこそが、学問の営みだった。学問弾圧、戦争、自然破壊、差別、天皇制、家父長制、男性中心主義に対する抵抗、自主講座、11月祭、シンポジウム、自主研究会、自主フィールドワーク、演劇、ライブなど、京都大学新聞の紙面を飾ったあらゆる課外の試みは、それに対する反発も含めて、大学の研究教育の副産物ではなく、それが育つふかふかの土壌であった。正義に取り憑かれた教員や、自由を溺愛する事務員や、なにより大学の主人公である生意気な学生が、大きくてずるいものにあらがい、それぞれの立場で自由を育んできたことを私は通常の教員よりは知っている。ただそうだったとしても、京都大学の「自由の学風」が権力に対し、とりわけ政治権力や金融権力の愚挙に対して勝利を収めた、という見方は歴史修正主義以外のなにものでもないだろう。
けれども、悲観主義の私がこの大学にまだ希望を捨てられないでいる理由のひとつは、京都大学新聞の存在である。現在のところ京都大学新聞に対する弾圧が起こっていない、という意味ではほとんどない。希望というのは、平成生まれの学生記者でさえ権力に対する「アカンベエ」をまだやめられないでいること。そして、敗北主義に陥らないだけのユーモアを捨てきれていないことだ。あらゆるものを「ロジスティックス」化してやまない世界資本主義は、学生に借金をさせ、ユーモアとアイディアを失わせ、商品の流通と投機の世界に身を捧げるように導く。京都大学新聞がそれに従った日が、京都大学が死ぬ日だろう。その日以降、京都大学の「焼け跡」には、上位下達のための言葉、上司や部下を褒め称えるだけの言葉、違和感を押しつぶすだけの清潔でスマートな言葉が電子信号に変えられて高速で動き、学問は、吉田や桂や宇治のキャンパスの地中深く、埋葬されるだろう。
自由とは、自分で試みた責任が自分に跳ね返ってくる痛みをもった自由だった。社会から跳ね返ってくる反応が学生にもたらす痛みによって、自分が大学生であることの地球社会における特異性を知り、そこから変革の萌芽を探る試みこそが、学問の営みだった。学問弾圧、戦争、自然破壊、差別、天皇制、家父長制、男性中心主義に対する抵抗、自主講座、11月祭、シンポジウム、自主研究会、自主フィールドワーク、演劇、ライブなど、京都大学新聞の紙面を飾ったあらゆる課外の試みは、それに対する反発も含めて、大学の研究教育の副産物ではなく、それが育つふかふかの土壌であった。正義に取り憑かれた教員や、自由を溺愛する事務員や、なにより大学の主人公である生意気な学生が、大きくてずるいものにあらがい、それぞれの立場で自由を育んできたことを私は通常の教員よりは知っている。ただそうだったとしても、京都大学の「自由の学風」が権力に対し、とりわけ政治権力や金融権力の愚挙に対して勝利を収めた、という見方は歴史修正主義以外のなにものでもないだろう。
けれども、悲観主義の私がこの大学にまだ希望を捨てられないでいる理由のひとつは、京都大学新聞の存在である。現在のところ京都大学新聞に対する弾圧が起こっていない、という意味ではほとんどない。希望というのは、平成生まれの学生記者でさえ権力に対する「アカンベエ」をまだやめられないでいること。そして、敗北主義に陥らないだけのユーモアを捨てきれていないことだ。あらゆるものを「ロジスティックス」化してやまない世界資本主義は、学生に借金をさせ、ユーモアとアイディアを失わせ、商品の流通と投機の世界に身を捧げるように導く。京都大学新聞がそれに従った日が、京都大学が死ぬ日だろう。その日以降、京都大学の「焼け跡」には、上位下達のための言葉、上司や部下を褒め称えるだけの言葉、違和感を押しつぶすだけの清潔でスマートな言葉が電子信号に変えられて高速で動き、学問は、吉田や桂や宇治のキャンパスの地中深く、埋葬されるだろう。
ふじはら・たつし 京大人文科学研究所准教授。専門は農業史。
