〈寄稿〉百周年に寄せて 吉村萬壱(小説家)「抵抗の証」
2025.04.01
今から28年前の1997年、第1回京都大学新聞新人文学賞が「小説など、何らかの意味を持った文章(テクスト)」を募集した。昭和35年に伊藤整、野間宏を選考委員に京都大学新聞千号発刊記念として懸賞小説を募集し、その後井上光晴、開高健、高橋和巳らを選考委員に迎えながら昭和45年まで続いた文学賞の、再開第1回ということだった。
当時、支援学校の教員をしていた36歳の私は「公募ガイド」でこれを見付けた時、どうせまた落選だと思いつつ、自分の人生に決定的に足りない何かを埋めるべく、懲りずに応募を決めた。勿論手持ちの弾などなく、地球に攻めてきた宇宙人にコテンパンにやられる地球人を描いた書きかけの漫画のような小説「国営巨大浴場の午後」を無理矢理完成させて、締め切り当日の10月31日に送るのが精一杯だった。
その年の大晦日に電話があり、最優秀賞受賞を知らされた。しかしその一本の電話以外に特に物的証拠はなく、時間が経つにつれて、これは悪質な詐欺ではないかとの疑念が膨らんで抑えられなくなった。結果的には詐欺ではなく、年明けの1月10日に大阪なんばの喫茶店で京大生3人と会い、賞状と賞金10万円を貰ってインタビューを受けるに及んで、私は自分がずっと望んでいた、創作によって報酬を得るという夢が実現したと思った。しかも京都大学の学生新聞が主催であり、選考委員も森毅氏と若島正氏と只者ではないところが他の文学賞とは一味違っていてカッコいいと思った。選評は勿論散々で、若島氏は「これを書いた暇な公務員の顔が見てみたいって気になりますね」「ある意味これはすごく幼稚で、何とかして欲しいと思いますがね」とおっしゃっておられた(ちなみにその後何度か顔を見ていただく機会を得た)。森氏は「もっとはちゃめちゃにできたのにって欲がでる」とのことで、この精神性はこの文学賞のその後の受賞作に漂うちょっと普通ではない感じ、逸脱感、意味不明さ、過剰さといったものに反映しているような気がする(これには、或いは下読みの学生たちの持つ嗜好も関与しているのかも知れない)。
学生によって、当局とは独立に運営されている京都大学新聞は創刊百周年という。実に目出度い。発行部数1万部と言えば大手文芸誌よりも多く、立派な数である。文学賞は2008年に第2回が(受賞作は森いの助氏の「リンゴ」)、2015年に第3回が(受賞作は井口可奈氏の「ボーンの錯覚」)、そして今年2025年に第4回が行われる。賞金の10万円が溜まったらその都度開催する、という都市伝説は本当だろうか?森いの助氏は人形劇団の主催者、井口可奈氏はその後も幾つかの文学賞を受賞されていて、両者の作風とも独特の味わいがある。第2回の選考委員は若島正氏、谷崎由依氏、私。第3回はここに大森望氏が加わった。第4回は大森望氏、青羽悠氏、私である。つまり私はずっとこの賞に関わらせて貰っていることになる。選考委員としてだけでなく、2001年に「クチュクチュバーン」で文學界新人賞、2003年に「ハリガネムシ」で芥川賞を受賞した時、そして2014年に『ボラード病』を出版した時などにもこまめな取材を受けた。
私の小説のテーマは一貫して「暴力」であるが、ウクライナやパレスチナ、ミャンマー、アフリカ諸国など、世界が悪びれることもなく暴力行為を曝け出すようになったこの時代、自分の書く小説が完全に現実に追い越されたと感じた途端、筆が凍り付いてしまった。私はこの1年半ほど極度のスランプであり、殆ど小説が書けていない。しかし暴力というものはまず文化を破壊しにかかってくるので、文化を創造し続けることこそが暴力への抵抗運動なのであってみれば、どうしてもこの辺りで一つ大きな小説を書きたいと思っている。百周年を迎えた京都大学新聞の歴史そのものが、言葉に対する暴力・弾圧への抵抗そのものであるように、私も書くことで抵抗の姿勢を示したいと思うのだ。
私には早川書房との間に、大きなSF小説を書くという約束をしている。私はこの長編小説の構想を早川書房の担当者に告げてから、もう十数年間ずっと待って貰っているのである。すると或る時、余りに書かない私に担当者が「2027年刊行にしましょう」と期限を切ってきた。その年は何と「京都大学新聞新人文学賞受賞30周年記念」に当たるから、というのである。これを刊行して京都大学新聞の取材を受けるというのが、現在の私の最大の目標である。
当時、支援学校の教員をしていた36歳の私は「公募ガイド」でこれを見付けた時、どうせまた落選だと思いつつ、自分の人生に決定的に足りない何かを埋めるべく、懲りずに応募を決めた。勿論手持ちの弾などなく、地球に攻めてきた宇宙人にコテンパンにやられる地球人を描いた書きかけの漫画のような小説「国営巨大浴場の午後」を無理矢理完成させて、締め切り当日の10月31日に送るのが精一杯だった。
その年の大晦日に電話があり、最優秀賞受賞を知らされた。しかしその一本の電話以外に特に物的証拠はなく、時間が経つにつれて、これは悪質な詐欺ではないかとの疑念が膨らんで抑えられなくなった。結果的には詐欺ではなく、年明けの1月10日に大阪なんばの喫茶店で京大生3人と会い、賞状と賞金10万円を貰ってインタビューを受けるに及んで、私は自分がずっと望んでいた、創作によって報酬を得るという夢が実現したと思った。しかも京都大学の学生新聞が主催であり、選考委員も森毅氏と若島正氏と只者ではないところが他の文学賞とは一味違っていてカッコいいと思った。選評は勿論散々で、若島氏は「これを書いた暇な公務員の顔が見てみたいって気になりますね」「ある意味これはすごく幼稚で、何とかして欲しいと思いますがね」とおっしゃっておられた(ちなみにその後何度か顔を見ていただく機会を得た)。森氏は「もっとはちゃめちゃにできたのにって欲がでる」とのことで、この精神性はこの文学賞のその後の受賞作に漂うちょっと普通ではない感じ、逸脱感、意味不明さ、過剰さといったものに反映しているような気がする(これには、或いは下読みの学生たちの持つ嗜好も関与しているのかも知れない)。
学生によって、当局とは独立に運営されている京都大学新聞は創刊百周年という。実に目出度い。発行部数1万部と言えば大手文芸誌よりも多く、立派な数である。文学賞は2008年に第2回が(受賞作は森いの助氏の「リンゴ」)、2015年に第3回が(受賞作は井口可奈氏の「ボーンの錯覚」)、そして今年2025年に第4回が行われる。賞金の10万円が溜まったらその都度開催する、という都市伝説は本当だろうか?森いの助氏は人形劇団の主催者、井口可奈氏はその後も幾つかの文学賞を受賞されていて、両者の作風とも独特の味わいがある。第2回の選考委員は若島正氏、谷崎由依氏、私。第3回はここに大森望氏が加わった。第4回は大森望氏、青羽悠氏、私である。つまり私はずっとこの賞に関わらせて貰っていることになる。選考委員としてだけでなく、2001年に「クチュクチュバーン」で文學界新人賞、2003年に「ハリガネムシ」で芥川賞を受賞した時、そして2014年に『ボラード病』を出版した時などにもこまめな取材を受けた。
私の小説のテーマは一貫して「暴力」であるが、ウクライナやパレスチナ、ミャンマー、アフリカ諸国など、世界が悪びれることもなく暴力行為を曝け出すようになったこの時代、自分の書く小説が完全に現実に追い越されたと感じた途端、筆が凍り付いてしまった。私はこの1年半ほど極度のスランプであり、殆ど小説が書けていない。しかし暴力というものはまず文化を破壊しにかかってくるので、文化を創造し続けることこそが暴力への抵抗運動なのであってみれば、どうしてもこの辺りで一つ大きな小説を書きたいと思っている。百周年を迎えた京都大学新聞の歴史そのものが、言葉に対する暴力・弾圧への抵抗そのものであるように、私も書くことで抵抗の姿勢を示したいと思うのだ。
私には早川書房との間に、大きなSF小説を書くという約束をしている。私はこの長編小説の構想を早川書房の担当者に告げてから、もう十数年間ずっと待って貰っているのである。すると或る時、余りに書かない私に担当者が「2027年刊行にしましょう」と期限を切ってきた。その年は何と「京都大学新聞新人文学賞受賞30周年記念」に当たるから、というのである。これを刊行して京都大学新聞の取材を受けるというのが、現在の私の最大の目標である。
よしむら・まんいち 小説家。97年、本紙文学賞で最優秀賞受賞。03年に芥川賞受賞。
