文化

〈寄稿〉百周年に寄せて 佐藤卓己(京都大学名誉教授)「大学新聞と新聞学の百年へ」

2025.04.01

岩波書店創業百年の記念出版『物語 岩波書店百年史2 「教育」の時代』(岩波書店・2013年)の冒頭、私は1925年4月15日付『京都帝国大学新聞』創刊号の第1面を載せた。その紙面の半分は「岩波書店刊行書」広告であり、この学術出版社の権威を象徴するように見えた。であれば、今度は『京都大学新聞』創刊100年の本紙に、同書を含む「岩波書店刊行書」広告をお願いしたいところだが(笑)、話がそんなにうまく進むことはないだろう。

さて、私は昨年3月に京都大学大学院教育学研究科を早期退職して上智大学文学部新聞学科に移っている。京都大学で20年間メディア文化学の教育と研究にたずさわったが、残された時間で「日本新聞学発達史」を書きたいと考えたからである。その執筆場所として、「日本新聞学の父」小野秀雄(1885~1977)が創設した上智大学新聞学科は最適だった。小野先生は1929年東京帝国大学に研究者養成のための新聞研究室(のちの新聞研究所、現在の情報学環)を創設し、1932年上智大学にジャーナリスト養成のための新聞学科を開設している。

私自身は京都大学文学部で西洋史を学んだわけだが、1980年当時の京都大学にジャーナリズムやメディアの研究者は一人もいなかった。誰も教えてくれる人はいなかったので、経済学部図書室の上野文庫などを頼りに新聞学を独学した。やがてドイツ留学でミュンヘン大学の新聞研究所に出入りし、帰国後は東京大学新聞研究所の助手になった。どちらの新聞研究所も小野先生ゆかりの場所だが、京都大学と小野先生の関係はあまり意識することはなかった。だが、その回顧録『新聞研究五十年』(毎日新聞社・1971年)を読み直してみると、あちらこちらで京大人脈との交流や集中講義担当などの記述が確認できる。

というのも小野先生は1906年に第三高等学校から東京帝国大学文科大学独文科に進んでいる。もちろん、第三高等学校は京大教養部の前身である。『新聞研究五十年』で三高の生活は詳しく回想されていないが、冒頭の「自由思想にかぶれた中学時代」には次の記述がある。

「当時の高等学校は、全部で七校で、完備した東京帝国大学と、未完成の京都帝国大学の予科であった。そして、一高と三高は高校中の高校といわれ、一高は「自治」、三高は「自由」を誇りにしていた。ゆえに私の自由思想のごときは、三高では問題でなかった。その時、私は『くれないもゆる』の寮歌の作者沢村胡夷といっしょになった。」

京都帝国大学に文科大学が開設したのは1906年であり、小野先生が目指した独逸文学講座が設置されたのは翌1907年である。当然ながら希望講座が「未完成の」京大ではなく「完備した」東大に進み、やがてドイツ新聞学を独学したわけである。その意味ではメディア研究者がいない京大で学び、東大新聞研究所の助手となった私のキャリアと重なる。しかも小野先生が創設した日本新聞学会(のちマス・コミュニケーション学会、現メディア学会)の第36期会長を私は務めた。だとすれば、私以上に「小野秀雄研究」の適任者はいないようだ。

4年後の2029年には東京大学情報学環が創設100年を迎えるわけであり、今年4月から私は東京大学情報学環の客員教授としてその研究に取り組むことになっている。奇しくも私が所属した京都大学、東京大学、上智大学は小野先生の歩みであり、日本新聞学史を私が書くのは宿命なのかもしれないと思う。紙媒体としての新聞が大きく変容しようとしている今、『京都大学新聞』創刊100年の年に、日本新聞学の歴史に取り組む決意を新たにしている。


さとう・たくみ 京大教育学研究科教授を経て、現在は上智大学文学部新聞学科で教授を務める。専門はメディア論。

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