文化

〈寄稿〉百周年に寄せて 池田浩士(京都大学名誉教授)「報道陣と青春の夢」

2025.04.01

多くの人に好き嫌いがあるように、私にも大嫌いなものがある。何よりも嫌いなものの筆頭は、「よりそう」という言葉だ。寄り添われる側からすれば、これほど私の主体性と感情をないがしろにした言い分はない。傲慢と鈍感と無恥と、そして何よりも自分の権力と相手に対する優越とを、「よりそう」という腐った言葉は誇示している。

これと同じくらい嫌いなものをもう一つ挙げよ、と言われれば、それは「報道陣」だ。出来事を伝えるためにその現場にいる記者やカメラマン、つまり報道企業の従業員たちのことらしいが、なぜそれが「陣」なのか。大坂夏の陣、陣笠と呼ばれる雑兵たち、陣中見舞いという名の賄賂、敵陣をドローンで殲滅……。考えてみてもロクなことは思い浮かばない。「陣」とは軍隊の隊列やその配置を意味する語であり、「軍隊」は戦争のための道具であり、「戦争」は破壊と殺戮によって遂行されるものであり、その破壊と殺戮は「敵」という名の他者を抹殺するための所業である。つまり、報道陣とは、敵という名の他者を抹殺する戦争の一部隊、もしくはその部隊の拠点なのだ。

この「報道陣」という日本語がいつ生まれたのか、正確なことを私は知らないが、1937年12月号の雑誌『文藝首都』に発表された宮本百合子の「明日の言葉」と題する時評的エッセイに、こういう一節がある――「一面には社と社との激烈な競争によつて刺戟され、一面には報道陣の戦死としての矜りから死を突破しやうとさへする従軍記者でもない作家、謂はば、命を一つめぐつてそれをすてるか守るかしやうとする熾烈な目的をも、立場の必然からはつきりとは摑んでゐない作者」云々。

精密に読まないと文意をつかみにくいが、ここで「作家」もしくは「作者」と呼ばれているのは、これまで私小説的な世界に閉じこもってそれを誇りにさえしてきた文学作家たちや、弾圧に屈して転向した旧プロレタリア作家たちである。その年の7月に中国に対する戦争が始まるや否や、彼らが軍部や政府によってお膳立てされた「軍報道班」の一員となって嬉々として戦線報道に挺身する醜さを、宮本百合子はこの一文できびしく批判した。報道各社の従軍記者たちが、職業上やむなく前線報道に携わって生命を賭するのみか、他社との競争のためにも先陣を余儀なくされるのと対比して、あまりにも無意識・無自覚に戦争ルポルタージュを垂れ流す作家たちを、深い軽蔑を込めて批判したのだった。

この一文の中に姿を現わす「報道陣」は、おそらくこの語が最も早く使われた一例ではあるまいか。「支那事変」が日本国家と日本国民(いや、臣民)の地獄への道の一里塚になったとすれば、ここで一般的となった「報道陣」という語は、戦後民主主義さえ跡形もなく抹消され終えた現代にまで、日常の中に戦争の姿をとどめる用語として生き続けることになる。しかも、この語が持つ意味や、この語が生まれた状況についての無意識・無自覚に支えられて。

「報道陣」という語が生まれたのは、戦争の中で、戦争によってだった。報道という社会的営為が、そしてそれを仕事とする報道関係者、とりわけ記者やカメラマンが、戦争の一翼を、しかも極めて重要な一翼を担う戦闘員の一部隊として、必要とされたのである。そしてその必要のための道具となって、いや武器となって、記者やカメラマンは働いたのである。現代の戦争にとっていかに報道戦が重要であるかは、誰もが知っている。けれども、報道が必要であり重要であるのは、戦争の中で、戦争のために、だけではない。これまた自明のことだ。戦争の中ではない現実を実現したいと思う人間たちと社会は、「報道陣」によるのではない報道を待っている。報道者たちが報道陣ではなくなることを待っている。

この待望の実現は、もちろん容易ではない。報道陣を必要とするのは、武器による戦争だけではないからだ。この資本主義世界の中で、グリーンランドもガザ地区も、沖縄も首都圏上空も、ごっそりとカネと権力で買い占めようというこの正真正銘の末期金融資本主義世界の只中で、情報戦や謀略戦がますます不可欠であるとすれば、報道陣は、その資本主義体制にとってますます不可欠な戦闘部隊である。こうした世界体制の中で、その戦闘部隊の一員となるのではなく、報道陣ではない報道者として生き、そういう報道者の共同体を目指すことは、夢のまた夢でしかないだろう。

だが、かつて「支那事変」や「大東亜戦争」の報道陣が、報道陣の一員であることによって目に見える生命を失ったとすれば、現代の謀略戦や情報戦の一翼を無意識・無自覚に担う報道陣は、報道者としての眼に見えぬ生命そのものを失うのである。『京都大学新聞』の記者・編集員もその例外ではないだろう。いま現在、この新聞社の部員たちは、何らかの陣営に動員されることによって報道者としての生命を失う、という危険からは遠いかもしれない。けれども、まったく別の現実が、明日にでもやってくることは、宮本百合子が批判した文学作家たちでなくとも、私たちと無縁な現実ではない。そのとき、「報道陣」ではない報道者として生きることは、『京都大学新聞』の部員にとっても、容易ではないだろう。それどころか、じつはいますでに、そういう現実はまったく別の姿をとって、始まっているかもしれない。

そのいま、戦闘要員ではなく報道陣の一員ではない『京都大学新聞』のスタッフは、しかし、かつて眼に見える戦争の時代に報道陣を支えた読者とは別の読者、いまはまだ臣民ではない読者によって、支えられているのである。その読者たちに「よりそう」のではなく、その読者たちと共に考え、その読者たちとの不断の緊張関係を生み出すことの中に、報道陣とは別の道が見出されるに違いない。それは、さまざまな姿の戦争とは別の現実への道の一歩だろう。

これは、一つの夢である。もっとも実現から遠いかもしれない夢である。だが夢とは、現前の出来事と当面の政治的・社会的な課題とを伝える「報道陣」の仕事の、対極にある営みなのだ。夢は、未来の現実と現時点で関わる行為であり、未来を先取りする実践である。報道や評論においてもこれに変わりはない。そして、いま夢見られているこの夢は、大学時代の終わりとともに消え去る夢ではないはずだ。大学を出たあとの社会生活でも、その生活の中でこそ、ますます実現を待っている夢であるはずだ。

かつて、史上最初のドラキュラ映画であり、ドイツ表現主義を代表する映画の一つでもある『ノスフェラトゥ』(1922年)で、吸血鬼ノスフェラトゥと対決する青年フッターの役を演じたのは、グスタフ・フォン・ヴァンゲンハイムという当時26歳の舞台俳優だった。それから15年後、ナチス・ドイツからソ連に亡命した作家や芸術家、思想家たちによって、「表現主義論争」という大きな論争が展開された。宮本百合子が「報道陣」に言及したのと、まったく同時期のことだ。「表現主義はナチズムへの道だった」という前衛芸術否定派=ソ連派の批判に抗して、かつての表現主義者ヴァンゲンハイムは、一貫して表現主義を擁護し、青春の夢に対して誠実であり続けることをやめなかった。「かつての表現主義者たちのように、いま四〇なりすでにそれ以上なりの年齢を背中にしょっている者は、こんにちにも二〇歳の人間がいることを忘れるまい」と彼は書いている。反対派を抹殺する粛清の嵐が、ソ連で吹きすさんでいたときであるにもかかわらず。

青春の夢は、それが深く真摯であればあるほど、一生涯の夢として実現を待ち続けるのである。そしてさらに新たな青春の夢へと引き継がれるのである。『京都大学新聞』は、この夢を育む共同の場にふさわしい歴史と現在を、これからの百年にも、その紙面によって読者と共有することをやめないだろう。

いけだ・ひろし 68年から04年まで教員として京大に在籍した。専門はドイツ文学やファシズム文化。

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