〈映画評〉主人公に映る「ヨソさん」の醜さ 『ぶぶ漬けどうどす』
2025.06.16
まどか(中央)と環(右) ©2025「ぶぶ漬けどうどす」製作委員会
本作でフォーカスされるのは、京都の人々が用いる独特の会話術だ。公家文化の影響か、京都の人々はあけすけな物言いを嫌い、婉曲表現で本音を伝えるとされる。タイトル『ぶぶ漬け(=お茶漬け)どうどす』も、「そろそろ帰ってほしい」という本音を秘めた言葉だ。こうした京言葉の世界を「シニカル(=冷笑的)」なコメディとして描くという本作の宣伝文句、そして前述のオープニングは、本音の見えぬ京言葉に翻弄されるよそ者の哀れな物語、というイメージを観客に植え付ける。ところが、物語は早くもその先入観を裏切ってゆく。
本作で最も狂気を内に宿した人物は、実は京都の人々ではなく、主人公のまどかである。京都の外からやって来た「ヨソさん」のまどかは、ずけずけと方々の店へ乗り込んで行ったり、取材そっちのけで京料理に舌鼓を打ったり、期待した成果が得られず取材対象者の前で露骨に落ち込んだりと、京都人どころか誰であっても受け入れがたい言動を行く先々で取っていく。頂点に達し、人々の逆鱗に触れて反省したのも束の間、今度はヨソさんの不動産業者を「京都を乗っ取ろうとする敵」と認識し、執拗に追い詰めていく。現実にいたら思わず距離を取りたくなる人間だろう。
しかし、別世界の住人のようにまどかを捉えることにも問題がありそうだ。まどかは京都の持つ千年の歴史と文化に価値を見出しているが、同時にその担い手としての役割を、京都の人々に半ば無自覚に求めている。そして程度の差はあれど、現実のヨソさんも京都の人・ものに「京都らしさ」という特異性を見出し、それを消費すると共に、その受け皿としての振る舞いを京都の住民に求めているのだ。最近では京都出身の女将を「いけずな京都人」として振る舞わせ、それを楽しむイベントさえ開催されているそうだ。まどかはこうしたヨソさんの醜悪さを具現化した存在のようにも思える。穿ち過ぎかもしれないが、本作は本音を隠す京文化へのアンチテーゼではなく、我が物顔で京都を闊歩し、「京都らしさ」を消費しようとするヨソさんの浅ましさを告発しようとした作品なのだろう。
そうはいっても、まどかの性格は一般人とあまりにかけ離れていて、京都を舞台にしていながら「京都だからこそ嫌われる」という特異性を持たせられていない。前半が京都人とまどかの不和を描く一方、後半は不動産業者へのまどかの「攻撃」がメインで、物語全体の統一感に欠ける点も惜しい。京言葉の掘り下げも物足りないし、終盤の展開も随分強引で、「シニカルコメディ」としての完成度は今ひとつだ。そもそも、まどか=東京の人間と京都の人間を対立的に描いていることから、本作自体が京都を特異的なものとして見つめる「ヨソさん」的発想に陥ってしまっている点も否めない。このようにいくつかの難点は指摘できるものの、現代の京都に対する新たな視座を提供してくれる点で、やはり意義深い作品とはいえよう。(晴)
◆映画情報
監督 冨永昌敬
脚本 アサダアツシ
配給 東京テアトル
6月6日より全国公開中
上映時間 96分
監督 冨永昌敬
脚本 アサダアツシ
配給 東京テアトル
6月6日より全国公開中
上映時間 96分
