インタビュー

宮崎充登 広島東洋カープ投手 「選択/決断の岐路」

2008.01.16

社会人野球・ホンダ鈴鹿に10年間在籍した後、28歳という年齢で昨年、広島東洋カープに入団した宮崎充登投手。社会人野球の酸いも甘いも噛み分けた「ベテラン」にその喜怒哀楽を語ってもらうと同時に、遅咲きの「ルーキー」に入団を決意したダイナミクスについて、プロでの生活について語ってもらった。

社会人野球時代/「入社3年目。もうプロには入れないんだなと思った」

―宮崎選手は普段、どのような生活をしていたのでしょうか?

僕の場合は午前中に仕事をして1時40分位から練習をしていました。ただ、2月はやはりプロ野球と同じでキャンプに行っていましたし、3月の中頃から5月にかけては地方大会があるので、それに合わせて野球中心の生活で動いていました。殆ど会社の方に出勤することもなく、朝から3時4時位まで練習をするという毎日でしたね。

―地方大会とはどのような性格の大会なのでしょうか?

地方大会では主に、監督が色々な選手を試してチームの編成をします。大体どのチームも3つ、ないしは4つの大会に出場しますね。そして6月にある都市対抗野球の予選に臨む。そこで勝ち抜けば8月に東京ドームである本選に出場することができました。今は少しルールが変わっていますが。

―ホンダ鈴鹿では普段、どういったお仕事をされていたのでしょうか?

三次元測定機という機械を使って、ラインに沿って流れて来る部品が設計図通り作られているかどうかを確認する部署に在籍していました。といっても形上在籍していただけで殆ど機械を使ったこともなく、机の前に座って自分の試合の結果なんかをずっと見ていました。だから本当に、仕事をしていたという感覚はなかったですね。
僕の職場は本当に恵まれていて、周りはもう「お前は野球だけやっとったら良いんや」というような野球好きの集まりでした。僕からすればすごく居心地の良い職場でしたし、バックアップもしてくれました。

―入社3年目には4カ国大会の代表選手に選ばれ、広島の春季キャンプにも派遣されました。この年にはプロに行けるという手応えもあったのではないでしょうか?

自分の中ではありましたね。高校を卒業する前に一応、ドラフト候補として名前も挙がっていましたし。それに、社会人で3年したらプロに行けるだろうという甘い考えもあったので。それがやはり、プロに入るまでに長い時間を必要とした原因ではないかと感じています。

―3年目もやはり、ドラフト候補に名前は挙がったものの、結局どのチームからも指名されませんでした。さすがに落ち込まれたのではないでしょうか?

はい。その時点でもう「プロの世界に入ることはできないんだな」と思いましたね。その当時は年齢で大体区切られていましたし。この先もう、ドラフトにかかることはないんだろうなと思って社会人時代をずっと過ごしていましたね。

―9年目にはフォームをスリークォーターに改造。10年目には当時エースだった高宮和也投手が横浜ベイスターズに入団しました。この2つの出来事が転機になったとよく記述されているのですが、では、4年目から8年目までのいわゆる「空白期間」では、一体どのような心境でお過ごしだったのでしょうか?3年目でもうプロは無理だなと思い始めた頃からは。

とにかく自分の活躍できるピッチングスタイルというものを、どうしたら勝てるのだろうかということをずっと考えていました。試合でも練習でも、どうしたら本当に自分の思っている所に投げられるようになるのかと。

―やはりプロは諦めきれなかった?

というよりかは、野球を長く続けたかったので。社会人でやるとすれば10年、長くできて10年位なんですね。で、僕が高卒で入っているので28歳、その年齢まではやりたかった。社会人でも落とされることはあるので、やはり第一線で投げ続けていたかったですね。

―社会人で10年間もやっていると、恐らく野球を辞めようと思われたこともあると思います。具体的にはどういった瞬間に、もう辞めてしまおうかなと思われましたか?

やはり自分が結果を残せない時ですね。会社の人たちから自分に対してすごく期待をしてもらっている中で、どうしても結果を出すことができない時期がずっと続いていたので。活躍している姿を見せられない自分に苛立ちや悔しさを感じていました。
後、会社の中で働いていて、自分と同じ年齢の人が頑張っている姿を見ると、会社でも何か、自分が置いて行かれているんじゃないかという気がした時期もありました。野球も駄目、仕事も置いて行かれている。このままだとどちらか1つに絞らなければいけないなと考えたこともありました。

―9年目の終わりにはフォームを変えられました。それは宮崎選手からコーチに提案されたのでしょうか?

いえ、コーチの人から言われました。以前にも1度、少し腕を下げてみたことはあるのですが、その時はこれといった成果も出なくて。自分の持ち味は何だという風に聞かれて結局は上のフォームから投げていました。しかし今回、入社10年目で社会人最後の年にしようと考えてもいたこともあり、コーチから横に変えてみないかと言われて、それは素直に受け入れることができました。

―迷いはありませんでしたか?

全然なかったですね。その時期は丁度、自分の中でもあまり結果が出ていなかった時期でしたし。フォームを変えて、それでも駄目ならもう辞めようと考えていました。

―フォームを改造し、翌年は都市対抗野球の本選(1回戦)まで進まれました。フォームを変えたことで球速・制球力とも格段に上がったというのが通説ですが、ご自身の手応えとしてはどうでしたか?

都市対抗野球の予選に入るまでに地方大会で何試合か投げている中で常時140K後半出ていましたし、MAXで言えば、自分のチームのスピードガンなんですけど、50、51K出ていました。試合が終わってからそう聞かされて、球速も上がったし、ある程度思っている所にも投げることができていたので、やはり変えて良かったなと感じましたね。効果もすぐに出ましたし。

―自分が思った所に以前より速い球が投げられるようになって、できればプロに行きたいという気持ちは湧かなかったですか?社会人最後の年と決めていたこともありますし。

その時はもう、全然湧かなかったですね。27歳の時には鈴鹿に家を建てていましたし、結婚して子供も1人生まれていたので。ホンダ自体が大きな企業なので、変な話、問題さえ起こさなければ60歳の定年退職まで働ける。そのまま仕事に就こうかなと考えていました。

2006年ドラフト会議/「あんたの好きなようにしたらええよ」

―入社10年目。ドラフトにかけるという話が来たのは大体いつ頃のことなのでしょうか?

監督の方にはたぶん、春先位には話が来ていたと思います。その時期にずっと「宮崎お前、今年ドラフトかかったらどうする?」と言われていたので。でも僕は本当に全然行く気がなくて。聞かれる度に「来ても僕、断りますよ」と答えていました。
その後、都市対抗野球の本大会に出場。1回戦で負けて、監督と話をする中で「今年ドラフトにかけるって言ってくれてるんやけど、どうする?」と切り出されました。それでも最初の頃は、「僕はもう行きません」と言っていました。
ただ、日本選手権が終った位に、監督や広島のスカウトの方と話を詰めていく中で「希望枠でかける」と聞かされて。そこではじめて「じゃあ考えます」という風に答えました。

―広島から希望枠の話が出た時に少し心が動いた?

はい。その前に監督が「年齢も年齢やし、希望枠でないとやっぱりきついから」と強く押してくれていたので。

―その後はやはり、ご家族の方やご両親に相談されたのでしょうか?

両親には入団が決まってから話をしたのですが、妻の方には「ドラフトの話が来て迷ってる」という話をしました。その時に妻が「あんたの好きなようにしたらええよ」と言ってくれて。自分の小さい頃からの夢でもあったので、そこで決意しましたね。希望枠の話が出てから、期間としては結構短かったです。

―「妻が後押ししてくれて決断できた」というコメントも出されています。やはり「好きにしたらいいよ」と言われてやりたい気持ちが出て来たのでしょうか?

そうですね。妻の方が駄目と言えば、行っていなかったと思います。家族のことを考えれば、プロの世界で安定しない生活よりかは鈴鹿で安定した生活を取るじゃないですか、普通。でもやはり、妻の方がそう言ってくれたので、一歩踏み出すことができました。

―入社4年目以降は社会人で長く野球を続けたいというスタンスでした。それでもやはり、プロへの夢というものは持ち続けていたということなのでしょうか?

やはりどこかにあったのでしょうね、自分の分からない所で。

―エースが抜けたことやフォームを改造したことなどが一般的には宮崎選手の転機だと言われていますが、10年間の社会人生活を今振り返ってみて、ご自身が考える一番の転機とは何でしょうか?

25歳で当時、ドラフトにももうかからなくなって、ずっと鳴かず飛ばずでやっていた時、26、7歳の時ですかね、その時に一度、辞めようと思って実際に言いに行ったんです。その時にピッチングコーチをされていた河本さんという方が「お前は絶対に辞めるな」と言って止めてくれた。各職場に散らばっている野球部OBの方に相談しても、「お前はまだ辞めるような素材じゃない」とみんながみんな言ってくれた。そのおかげで辞めずに、ドラフトにかかる年までやり続けることができたので、これが1番大きな転機じゃないかなと思いますね。

2007年ルーキーイヤー/「先発初勝利の喜びよりも完投できない悔しさの方が大きかった」

―広島が希望枠を使うのは永川勝浩投手以来4年振りで、背番号も若い16番。契約もルーキーとしては満額の提示を受けていたと思います。相当期待をかけられているというプレッシャーはなかったですか?

この年齢で入るからには、開幕から1軍でやらないといけないなという思いはありました。ただ、契約や背番号のことなんかで変にプレッシャーを感じることはなかったです。この世界に入ると決めた時からもう覚悟はできていましたから。

―キャンプに参加して、アマとプロの違いを感じることはありましたか?あったとすれば、具体的にはどの選手のどういった点が印象に残りましたか?

印象に残っている具体的な選手というのは居ないのですが、横で投げているピッチャーの球のキレ、変化球の曲がり、後はコントロールというのが凄く自分の目に、頭の中に入って来ましたね。やはりアマチュアとは全然違うなと感じました。自分がそういった部分を持っていなかったので、余計に印象に残った面もありますが。「やっぱりレベルの高い所に入って来たんだな」と実感するとともに、正直焦りも感じましたね。

―プロ初登板は開幕2戦目の阪神タイガース戦。7回から登板し、いきなり敗戦投手になってしまいましたが、この試合でプロの壁、あるいは縁起の悪さなどを感じませんでしたか?

感じなかったですね。とりあえず開幕2戦目で登板できたという緊張感の中、「やっと始まったな」という実感をまずマウンド上で持ちました。ただ、2アウトを取ってから四球を出して、次の打者に2塁打を打たれて交代させられた時に、やはりプロの厳しさや中継ぎをやる難しさ、最初からベストのパフォーマンスをしなければならない難しさを感じました。負け投手になったことについては「黒星が付いてしまったな」というのは頭の片隅にあったのですが、「シーズンを通して考えればその内の一敗」と冷静に割り切りました。

―その後もリリーフで登板する度に失点を重ね、4月16日には遂に初の2軍落ちを命じられます。ファームでは主にフォームの修正とフォークの習得に力を入れていたと言われていますが、実際そういった練習をされていたのでしょうか?

はい。やはり縦の変化球が必要でしたので。以前から投げていたフォークを実戦でも使えるようにしようと言われて、精度を上げる練習をしていました。2軍でも数試合投げているのですが、そこでバッターに対してもある程度、自分の思っているような所に投げることができました。変な意味、下に落ちて良かったなと思いましたね。フォークを習得することができたので。後は投球の中で、「2ストライクを取ってから何でお前はストライクゾーンで勝負をするんだ」と言われました。そういったことを考えながらマウンド上で試行錯誤していく中で投球の幅も広がりましたね。

―2軍に落とされた時、それまで以上に焦りを感じることはなかったですか?

それは全然なかったですね。1回目に落ちた時はフォークの習得という明確な課題があった。2回目(7月1日)に落ちた時も、ストレート・スライダー・シュート・フォークだけじゃ無理なので、以前から投げていたカーブを実戦でも使えるようにしたいというはっきりとした目標がありました。なので、下に落ちた時も落ち込み感なんかは全然なくて、とにかく今課題とされているものをできるだけ早く自分のものにしたいという、その気持ちだけでしたね。

―プロ初先発は8月8日の中日ドラゴンズ戦(5回5失点)。何か記憶に残っていることはありますか?

その時にはもう佐々岡さんの調子が悪くて、それで僕が先発に回って来たんですね。新聞等では勝ち取っただの何だのと書かれているのですが、自分の中では何かテストを受けているような、本当に先発でやっていけるのだろうかという不安がありました。中継ぎで短いイニングなら抑えられるという自信がようやく芽生え始めた中で、今度は先発で、この少ない球種でどうやって抑えていこうかなと悩みました。

―2度目の先発は8月17日の阪神戦。6回2失点と好投しましたが、桜井選手にホームランを打たれて敗戦投手に。この試合で特に印象に残っていることはありますか?

やはりその桜井に打たれた一発ですね。自分の中でその日唯一の失投を完璧にジャストミートされましたから。1軍のレベルでやる難しさを改めて感じましたね。

―その試合は私(=筆者)も球場で実際に観戦していました。4番打者には苦労していたものの、他のバッターに対してはストライク先行で勝負できていた印象があります。2度目の先発で何か手応えを掴んだのではないでしょうか?

その時は球の走りも良く、自分の思っている所にもしっかりと投げることができました。その試合が終わった後で、何とか5回までならゲームを作れるなという風には感じましたね。

―プロ初先発の時には「真っさらなマウンドに上がるのは怖さがある」とコメントしています。しかし9月に入って、「先発での勝利にこだわりたい」気持ちが強くなって来ました。

先発して最後まで投げるというのがピッチャーの理想ですし、誰しもが目指しているところでもあるので。そういった欲というものが段々出始めて来た頃ですね。

―昨シーズン最後の先発となった9月29日の阪神戦では8回途中4安打2失点。自己最多の投球回(7回1/3)と投球数(115球)で遂に先発初勝利を挙げられました。この試合ではやはり、投げていて次の回も行けるという手応えがあったのではないでしょうか?

手応えというか、序盤で味方が大量点を取ってくれたので(2回表に広島が4点を先制)。その時点でもう、阪神打線が細かな野球を辞めてどんどん振って来るようになっていたので、楽に投げることができたんです。本来ならその試合は初完投・初完封が懸かっていた。でもそこで、あの点差で完封することができなかった。初勝利の喜びよりもその悔しさの方が大きかったですね。

―試合後のコメントでは「逆球が多かった」など、反省点を口にされることが多いと思います。それはやはり性格的なものなのですか?

そうですね、1番感じるのはやはりそういった所なので。逆球でキャッチャーの人に迷惑も掛けていますし。
キャッチャーは普通、次にどの球を投げさせたいという意図があってそこに構えているんですね。だからそこに投げられないのは自分の責任。ましてや構えた所と逆の球で打たれるのは、自分が1番やってはいけないことなんです。その点はやはり反省すべきですし、それが本当に試合の後、コメントに出てしまうんですね。

―今年1年プロでやってみて、宮崎投手のストレートはどの程度通用しましたか?

前半は球威で押せるのですが、やはり打者2巡目以降になるとそれだけでは抑えられないと感じました。自分の持ち味であるストレートを活かせるような、カーブやフォークで緩急をつけたピッチングが今後の課題です。後は制球力。春先に比べれば大分思った所に投げられるようになって来ましたが、ここぞという場面でもミスをしない安定感が必要ですね。

―では最後に来期の目標を聞かせて下さい。

今年は中継ぎから先発に回って、後半戦はローテで安定したピッチングができました。それを来年に活かす意味で、開幕から先発ローテをしっかり投げられるようにしたいのと、やはりローテで回っている以上、2桁・10勝はしたいなと思っています。

―ありがとうございました。


みやざき・みちと 1978年9月6日生まれ/181cm・81kg/右投げ右打ち・投手/智辯和歌山高~ホンダ鈴鹿~広島東洋カープ/和歌山県出身/10年間の社会人野球経験を経てプロに入った異色の経歴の持ち主。スリークォーターから繰り出される150kの速球と切れ味鋭い高速スライダーが武器。ルーキーイヤーとなった昨シーズンの成績は、31試合・72回2/3・3勝5敗・防御率4.83。

関連記事