〈百載無窮〉『大学新聞』は京大新聞なのか
2025.04.01
※「百載無窮」のほかの記事はこちら。
京大新聞が100年の歴史の中で4つの名称を冠してきたことはすでに述べたとおりだ。そのうち、戦時中に東大新聞と合同で発行していた『大学新聞』は、「京大新聞」と言えるのだろうか。というのも、今号で2734号に到達した通算号数に、『大学新聞』の計58号はカウントされていないのだ。1944年まで続いた『京都帝国大学新聞』は378号で休刊し、その後発行された『大学新聞』の号数は新たに1号から数えている。さらに、戦後の『学園新聞』は、発刊当初は1号から数えていたが、200号到達を機に『京都帝国大学新聞』の378号を足した通算表記に変更した。つまり、紙面上は『学園新聞』が『京都帝国大学新聞』の後継と位置付けられる。
発行実態に照らしても、『大学新聞』が「役割も茲に完遂」と宣言して終刊した1946年4月21日号よりも前となる同年4月1日付で『学園新聞』第1号が発行されており、『京都帝国大学新聞』と『大学新聞』および『学園新聞』が一直線でつながっていないことがわかる。
また、『大学新聞』の構成員について河内光治氏は、著書の中で「京大にも編集員が置かれ、通信が送られて来る」としたうえで、「実際は旧帝大新聞(東大新聞)が主体となるよりほかに方法はなく、事務所も帝大新聞社をそのまま使い、役員も全員『帝大新聞』から出すことになる」と指摘している。京大新聞66年9月26日号に掲載されている「京大新聞小史」を見ても、「戦争の激化によって(中略)学生新聞はすべて姿を消すことになった」とある。戦後については「『京都帝国大学新聞』は『学園新聞』として全国の学生新聞に先駆けて復刊した」と説明しており、連続性の認識が薄いことがうかがえる。
一方、『大学新聞』の紙面は『京都大学新聞縮刷版』に収録されている。これについて小関孝子氏は論文の中で、縮刷版の前書きに「厳密な意味では、京都大学新聞の流れとは別個のものではあるが、京大新聞も編集に参加した、貴重な史料として収蔵した」と説明していることに言及したうえで、次のように述べている。
この文章(引用者注:縮刷版の前書き)の執筆者はRというアルファベットでしか表記されていない。1969年という学生闘争が激しかった時期を鑑みると、「戦意を鼓舞する」目的で発行されていた『大学新聞』を『京都大学新聞』の縮刷版に掲載するという行動について、匿名で解説せざるをえない事情があったことと推察できる。
当時の状況をふまえた興味深い指摘だ。実際、葛藤を抱えながら『大学新聞』の編集にあたっていた者もいたことだろう。
あれこれと書いたが、本稿のねらいは、『大学新聞』を京大新聞の歴史から除外することではない。『大学新聞』の独特の位置付けを理解し、困難な状況でも新聞づくりを続けてきた事実を再認識してもらえれば幸いだ。たとえ原稿を東京に送っただけであっても、たとえ「京大新聞」らしくない内容であっても、京大新聞の1頁として認識すべきだろう。(村)