文化

〈映画評〉報道の使命と倫理 迫られる選択 『セプテンバー5』

2025.03.16

〈映画評〉報道の使命と倫理 迫られる選択 『セプテンバー5』

物語の大部分が展開する制御室 ©2024 Paramount Pictures. All Rights Reserved.

新聞記事を書いていると、「選択」の機会は当たり前のようにやってくる。どの情報を書いて、どの情報を省くか。情報を届けるというメディアの使命と、時事性や重要度、時には当事者を傷つけかねないという倫理を天秤にかけ、伝えるべきか否かを判断することもある(評者はニュース記事のシビアな選択が苦手で、つい今回のように文化記事を書いてしまう)。50年以上前のテレビクルーも、同様に選択を迫られていた。さらに彼らの選択には、直ちに人命を奪いかねないほどの重みがあった。

映画『セプテンバー5』は実話に基づいている。ミュンヘンオリンピックに世界が湧く、1972年9月5日未明。選手村で銃声が響き渡った。パレスチナの過激派組織「黒い九月」が、イスラエル選手団を人質に籠城事件を起こしたのだ。現地で中継作業にあたるアメリカ・ABCニュースのスポーツ班は「今、この状況を伝えられるのは自分たちだけだ」と考え、前代未聞の「テロの実況中継」を始める……。

本作の見所は、スポーツ班のクルーたちが絶えず直面する「選択」にある。事件発生を明るみに出していいのか。経験豊富なニュース班に主導権を渡すべきか。人質が殺される可能性もある中で、籠城の現場を映していいのか。不確実な情報を伝えていいのか。物語の大部分をクルーが集まる制御室で展開していることもあり、綱渡りの状態で中継を続けていくクルーたちの葛藤や焦りが、スクリーン越しにまざまざと伝わってくる。ドキュメンタリーを見ているかのような気分に陥った。

目の前の出来事を伝え続ける、という責任を果たそうとした本作のクルーたちは、メディアを担う人々の鑑といえる。一方で、クルーたちは選手を騙って選手村に侵入したり、警察無線を傍受したりと、現代であれば「マスゴミ」の誹りを免れない行動にも出る。テレビ中継によって警察の動向が筒抜けとなり、突入作戦が失敗するさまも描かれる。クルーたちがメディアの使命を守り抜いた英雄か否かは、観客によって評価の分かれるところだろう。

SNSというメディアを用い、今日では誰もが気軽に情報を発信できるようになった。その一方で、ショッキングな場面を映像に収めたり、迷惑行為をアップしたりと、反道義的な投稿が炎上することも多い。評者のような「オールドメディア」の人間に留まらず、今や全ての人間に「発信者としての倫理」が求められている。評者もメディアに携わる者として、自らの倫理は十分だろうか、と思わされるような場面がいくつもあった。課せられた倫理を考え直すきっかけとして、大変示唆に富む作品である。(晴)

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