【連載第七回】吉田寮百年物語(2020.10.01)

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《連載にあたって》


京大は昨年4月、吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を提訴した。先月18日には、新型コロナウイルスの影響で延期されていた第4回口頭弁論が実施された。こうした中、本紙では昨年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。前回第六回では、1970年代後半からの「第一次在寮期限」を振り返ったほか、3つの史料から寮自治会と大学との団体交渉を考察した。今回は、2本の寄稿などから1980年代後半以降の動きを振り返り、入寮対象の拡大や大学との交渉体制の再構築に迫る。

※吉田寮百年物語編集委員会……メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
第八回

《通史》寮空間の多様化と団交確約体制の再確立(1989年~2002年)


入寮資格枠の拡大と全室相部屋へ

吉田寮は、京都帝国大学寄宿舎(1897年)として開設以来、長い間、入寮資格を学部の男性に限定していた(京大への女性入学は1946年から)。「在寮期限の執行完了」(1989年)の前後から、厚生施設としての学寮の意義について話し合いを深めながら、入寮資格枠を次のように広げていった。1985年度、学部の男女学生に。以降、性別要件を廃して1990年7月に留学生、1991年度に院生・聴講生・研究生・医療技術短期大学部生(現・医学部人間健康科学科生)。そして、1994年度には「京都大学学生との同居の切実な必要性が認められる者」を入寮資格者として募集。こうして家族や介護者などの入寮が可能になった。

吉田寮(現棟)は1913年以来、1人部屋を基本に運用されていた(1953年から一部が二人部屋に)。入寮資格枠の拡大に伴い、入寮希望者が増加し、1993年には、現棟の定員147名(1953年に大学が、7・5畳以下を1人、8畳以上を2人と設定した定員数)を入寮者数が上回るようになった。そこで、この年、全部屋を相部屋の運用に変更。相部屋とは、1部屋2人、または2部屋に3人、あるいは多数部屋に多数人数とする仕組みである。

吉田寮食堂の「自主管理空間」化

吉田寮食堂は収容人数が200人程度。イベントスペースとして扱いやすい規模である。かつて存在した東大駒場寮の「駒場小劇場」(収容人数300人)に似ていた。ただし、食事提供が主な機能のため、自治会主催の行事に用途が限定されていた。1986年3月末に食事提供機能が停止すると使用頻度が低い空間として残された。

1986年11月23日、学生団体「教育学部有志せんこはなび」が、吉田寮以外の団体として初めて吉田寮食堂を使用。11月祭の企画、石坂啓氏(漫画家)の講演会が開催された。

翌1987年6月、学外の劇団「満開座」から、吉田寮食堂で公演を行いたいという打診を受けた。在寮期限闘争のさなか、吉田寮の存在を学外に積極的にアピールできる機会と判断し、同年9月の公演が実現した。「満開座」をきっかけに、寮外の団体や、学外の団体が、吉田寮食堂をイベントスペースとして使用できるようになっていった。 

1992年、寮食堂使用の調整機関として文化部食堂局が設置された。貸し出しの仕組みが整備された。1996年、食堂使用者が参加する定例会議が開かれるようになった。さらに1998年には厨房使用者(楽器の演奏者など)の定例会議が始まった。こうして「貸し出し小屋」という概念から、食堂を使用する諸団体の「自主管理空間」という場に、吉田寮食堂は変容していった。

他大学の自治寮の支援

他大学の自治寮が大学当局によって廃寮にされようとしているのに対し、吉田寮は支援活動を続けた。

大阪市大杉本寮では、1986年12月22日に評議会で廃寮が決定された。吉田寮生は1987年1月廃寮反対の大阪市大教養部ストライキを応援。また閉鎖直前(1990年3月末)の最後の杉本寮祭では、吉田寮生が演劇を披露した。

東大駒場寮は、1994年11月14日、「1995年度入寮募集停止、1996年3月廃寮」を東大教養学部長が通達。その前後から、寮生大会での支援決議、現地行動、署名、交流会などを行った。駒場寮は2001年8月22日強制執行で閉鎖された。

山形大学の「学寮」は、1999年度から入寮募集停止。2001年2月に強制執行で閉鎖となったが、集会や裁判の傍聴に参加した。

アーカイブスの充実化

1984年8月、文化部情報局が発足。1964年まで遡って、吉田寮と京大新聞に残されていたチラシの整理を行い、キングファイル約70巻がまとめられた。その後、一時期、情報局の活動は停滞した。

1992年に情報局が再建され、以前よりも緻密に整理が進んだ。その結果、約200巻のキングファイルが追加された。情報局を再建したメンバーらの活動が「資料集を公刊する会」に発展。『吉田寮資料集「在寮期限」の到来からその終結へ 1985︱90』(1994年2月)を自主出版した。学生部長(副学長)団交についても、1988年河合隼雄学生部長団交から2015年までビデオ撮影され残されている。

2008年1月17日、大学文書館に吉田寮の1263点の資料を寄贈。それが総長裁量予算でマイクロフィルム化されるとともに、目録が作られ公開された。

団交確約体制の再確立と、新寮問題

「在寮期限」問題が終結した1989年以降、学生部長(のち副学長)が交代するたびに確約内容の引き継ぎ団交が行われることが慣例となり、1978年以来の団交確約体制が再確立した。

老朽化と新寮問題では、住友則彦寮小委委員長との確約内容「今後吉田寮の補修を行うよう努力する」「老朽化の抜本的改善策としての新寮建設の具体的プログラムを示すよう努力する」「寮に関することはすべて寮自治会と話し合い合意の上で決定する」(1988年8月4日)が、合意の基調となった。じっさい、歴代の学生部長(のち副学長)と団交で、概ね三つの確約が引き継がれていった。一つ目は補修を今後も継続して行うこと。二つ目は寮機能の回復と老朽化の抜本的解決のため、新寮の建設を努力すること。三つ目 は、新寮の内容は話し合いのうえ決めること。1992年11月18日の万波通彦学生部長、96年5月16日の益川敏英学生部長、98年3月3日宮崎昭学生部長、98年7月2日の三好郁郎副学長、99年10月20日宮崎副学長の確約で同じ内容の記述が見られる。

新寮建設の場所について、吉田寮は、現在の近衛地区を追求した。1996年12月6日、益川敏英学生部長が建築場所を学外とする案を提案すると、吉田寮はこれに反対。のちに、1999年6月17日、三好副学長とは「新寮の建設地は、現在の吉田寮の敷地及びその周辺とすること」という確約が結ばれた。さらに「入寮者・退寮者の決定については、新寮においても現行の方式を維持する」とした。三好副学長との確約は、2001年6月27日の尾池和夫副学長との確約に引き継がれ、こうして新寮建設への条件は整っていったが、新寮建設の予算化は進まなかった。  

寮食堂の半分が焼失

1996年10月31日、吉田寮の西側にあったサークルBOX(京大交響楽団など)から出火。出火原因は不明。類焼により吉田寮食堂の西半分が焼失した。その後、益川学生部長との団交で「『焼け跡』を何らかの形で利用しようとする場合には、吉田寮自治会と相談し、その意向を十分に尊重する」(1996年12月6日)という確約が結ばれた。

副学長制導入と学生部再編  情報公開連絡会の開催へ

1998年度から、京都大学の組織再編の一環として、副学長制(2名)の導入と学生部の事務局への編入が行なわれた。

1997年6月14日、「瀬地山敏教授(総長特別補佐)は『これまでは、分かっていながら放置してきた問題があった』とし、老朽化した学生寮や西部講堂などを挙げ、新しい組織体制によって、積み残してきた課題が解決できるとの見方を示している」と報じられた(京都新聞)。また評議会の内部資料には「本学が抱える学生問題の円滑な解決に資するため」とあり、以上から学内の自治・自主管理空間への管理強化のための措置であると学生らは反発した。

1997年6月24日の評議会決定時には、吉田寮は当事者を欠いた一方的な決定であること、独立した機関として学生部が持っていた柔軟性を損なうものとして、学内自治団体とともに大規模な抗議活動を行った。1997年7月11日と10月9日の2回、「学内再編問題に関する連絡協議会」(吉田寮も含む)と井村裕夫総長(当時)との団交が行われた。総長団交は、1978年2月4日以来19年ぶりだった。井村総長は、団交の場で情報公開が不十分であり改善が必要なことを認めたが、確約へのサインを拒否。3回目の総長団交も拒否した。

1998年3月3日、吉田寮は宮崎学生部長と「情報公開の場として、学生部長が参加する連絡会を公開の場で行う」という確約を結んだ。その確約に基づき、1998年3月度から「情報公開連絡会」が始まった。情報公開連絡会は月に1回開催され、誰もが参加でき、学生部委員会の内容と部局長会議の議題項目が公開された。副学長制が導入された1998年4月からは、教務・厚生補導担当副学長が出席した。情報公開連絡会は2016年2月開催を最後に、川添信介副学長が学生との合意なくホームページで「中止」を告げるまで約18年間、継続した。

《歴史コラム》吉田寮食堂 炎上


「火事です。オーケストラボックスが燃えています」。

1996年10月31日午前4時頃、この放送の声で目を覚ました。飛び起きた。廊下を走る足音が鳴り響き、叫ぶ声も至る所から聞こえてきた。とりあえず受付に向かってダッシュした。

受付から一歩足を踏み出した瞬間私は呆然とした。オケのボックスは完全に炎に包まれており、空は真っ赤という情況だった。寮食堂に燃え移らないようにするぞ。ということで、寮食堂への燃え移りを阻止するべく、バケツリレーを行った。寮食堂の厨房の内側から寮生が一列に並んでバケツをリレーしていく。そして、その水を寮食堂の外側の壁にぶっかけてゆく。みんな、とにかく必死である。しかし、その努力はむなしく炎はすごい勢いで迫ってくる。食堂の外側にはもうかけることはできず、内側にかけていった。消防士の人がやっと来たようだ。無理をするな、といって、去っていった。しばらく頑張っていたけれど炎がもう目の前まで来て身の危険を感じたため撤収した。

外に出るともうオケのボックスは骨組みだけの状態になっていた。消防車のサイレンの音が辺り一面に響いている。でも消防士の人たちは全く放水をはじめようとしない。どうしたことだ、早く消してくれー。吉田寮は木造なんだぞ。5分で全焼するんだぞ。

さらに厨房奥の煙突からも炎が上がっていた。ある人は叫び、またある人は吉田寮の最期を見届けるがごとく呆然とし、しばし時間が止まったように感じられた。 

でも、しばらくして厨房奥からそれ以上燃え広がらないような気がした。おかしい、もう全焼してもいい頃なのに。厨房の所に防火壁というヤツがあってそこで止まっているらしいということを聞いた。そんなもんがあったなんて知らなかった。つまり、我々は助かったのだ。(1997年度吉田寮入寮案内より。ペンネーム「あっきーさん」執筆。抄録。)

紙面紹介


2020年10月1日号紙面では、以下の記事も掲載しております。

・《記録》生活ぐるみの異文化交流 ―留学生への日本語学習支援の経験から―
・《記録》家族で入寮するまでの経緯 ―セーフティネットとしての機能―

このほか《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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