【連載第八回】吉田寮百年物語(2020.12.16)

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《連載にあたって》

京大は昨年4月、吉田寮現棟の明け渡しを求め、寮生20名を提訴し、今月2日には第5回口頭弁論が開かれた。こうした中、本紙では昨年7月16日号より「吉田寮百年物語」を連載している。吉田寮の歴史を振り返り、今後のあり方を考える視点を共有することを目的とし、連載にあたり吉田寮百年物語編集委員会(※)を立ち上げた。前回第七回では、1980年代後半以降の動きを振り返り、入寮対象の拡大や大学との交渉体制の再構築について考察した。今回は、2本の寄稿などを通して2002年からの約10年間の動きを振り返り、老朽化対策を巡る寮内での検討状況の変遷に迫る。

※吉田寮百年物語編集委員会……メンバーは「21世紀の京都大学吉田寮を考える実行委員会」や「21世紀に吉田寮を活かす元寮生の会理事会」の会員と趣旨に賛同する個人で、京都大学新聞社が編集に協力している。

※これまでの連載↓
第一回
第二回
第三回
第四回
第五回
第六回
第七回

目次


    《通史》新寮建替えから現棟補修保存の模索へ(2002~2010年)
    《解説》近年の大学運営方式の変化
    《記録》自主管理空間としての吉田寮食堂(唐仁原俊博氏)
    《史料》吉田寮を訪ねて(尾池和夫氏)

《通史》新寮建替えから現棟補修保存の模索へ(2002~2010年)


進まぬ新寮建設の交渉

吉田寮の老朽化対策は、1988年12月の川崎清教授の調査結果「緊急を要する順位に従って部分的な補修を行うと共に定期的な清掃、維持管理等の必要な処理を行い環境の保全に努めるならば、なお、当面の期間使用に耐えるものと思われる」を基調に始まった。小規模な補修が行われ、併せて、抜本的解決のため新寮を吉田寮自治会と話し合って決める内容の確認が、歴代の学生部長(副学長)とその後、合意され続けた。

1994年11月17日の確認書では「新寮建設へむけて、学生部長瀬地山 敏と吉田寮自治会は連絡会を設け、新寮構想作りの準備を開始する」との合意がなされた。

また1999年5月19日付けで、三好郁郎副学長から「新寮建設に向けての話し合いを進めて行くに当たって、まず第3小委員会の委員にこれまでの経緯を十分にご理解願った上で、予備折衝を行っていただく必要があると思います」という文書が吉田寮に提出された。しかし、21世紀を迎えても、新寮建設の話し合いは開始されなかった。

木造建造物の評価高まる

1980年代の在寮期限闘争当時、他大学では木造の自治寮が老朽化を口実に廃寮されていった状況(1979年12月3日文部省による老朽寮改築計画指示)があり、鉄筋コンクリート寮への建替えの切望が強かった。また、高度経済成長からのスクラップアンドビルドの思潮の影響が残っていて、木造建造物としての吉田寮に関心は高くなかった。

ところが、世紀の転換を前に、文化財保護の分野では1996年の文化財保護法の改正で近代の建造物が築後50年経過を目安に文化財として評価されるようになった。さらに、20世紀と異なり、「個人的には築93年の、あの古い木造の建物が好き」(京大新聞2006年11月1日号)という寮生の声が公になっていた。さらに京都では古都らしい景観の滅失の危機感から、町家などの調査、保全に広範囲から関心が寄せられるという社会状況が影響して、吉田寮を京大構内最古級の建造物として再評価し、現棟を大規模補修して継続して使い続けようという意見が寮内外に高まっていった。

大規模補修の可能性の見極め 補修特別委員会の発足

吉田寮内で変化が発生した。1999年までは新寮建替えで寮内合意できていたが、木造建造物への評価の高まりを背景に、吉田寮の現棟補修保存を訴える寮生が現れ始めた。ただし、1985年の新寮建替え方針を転換するほどには、寮内の議論は深まらなかった。建替えか保存か、いずれにも決めかねる状態が発生し、1999年度前期方針では、新寮についての議論が煮詰まっていないと指摘された。2000年度前期総括では、「新寮建替え」「現棟補修保存」の二つの方針のいずれも選択できない状態であることが寮内合意となった。ただし、いつでも新寮獲得運動を再起できるよう、新寮に関わる副学長との確約を更新し続けることとされた。

2001年度後期には、「新寮建替え」「吉田寮増築」「まったく別の新寮獲得」「現棟補修保存」など多数の代替案検討が必要であり、その中でも、現棟補修保存の可能性を見極めるため、吉田寮内に「補修特別委員会」を設置することが決定された。同委員会は2002年8月に活動を開始し、有識者の協力を得て調査を行うとともに、「吉田寮メンテナンスのための大掃除」や「吉田寮ペーパークラフトの作成」を実施した。京大の西澤英和講師(当時)らの調査の結果、大規模補修をすれば現棟は長期的に使えるという見通しを得て、2004年には大規模補修の見積書を建築業者から取得し、大学に補修請求を行った。しかし、補修請求は予算化されなかった。

吉田寮への大学の評価

2003年3月に発表された「京都大学自己点検・評価報告書Ⅳ 学生支援・学生サービス」で、「学寮問題は、本学積年の『負の遺産』であり、法人化を前に、その適切な対応と決断を『先送り』してはならない問題である」「議論が集中したのは、学生寮、西部講堂を含む課外活動施設、キャンパス・セキュリティの問題であった。これらは大学の自治、学内の組織の自治権、大学の施設・組織管理の問題に深くかかわる事項であり、解決の道筋さえみえず、本学の積年の棘となってきた」と記された。この総長への答申を取りまとめた丸山正樹教授に対し、吉田寮は撤回を求めたが、撤回されなかった。

一方で、副学長だった尾池和夫氏(のち第24代総長)は「木造建築には価値があるんだ。補修したい」「吉田寮に食堂をつくる。生協みたいに学生が利用できる方法もある」と語り、後任の東山副学長は2004年4月28日の団交で「一緒に新寮の概算要求をつくっていこうや」と発言。「自己点検・評価報告書Ⅳ」の影響は顕在化しなかった。

耐震診断の実施

京大の全学的な耐震診断の一環で、2005年9月から12月にかけて、財団法人建築研究協会が、吉田寮の耐震診断を実施。12月に「京都大学学生寄宿舎吉田寮耐震診断報告書」がまとめられた。報告書の所見では吉田寮食堂については「抜本的な耐震改修工事が必要」「できる限り早い時期に使用を制限・禁止することが望ましい」、寄宿舎棟については、「適切な補修と後述するような補強が行われれば継続使用可能であると判断する」と記された。この調査報告を受けて大学の「平成16年度監事監査にかかるフォローアップ状況について」(2006年3月)には、「吉田寮の外壁補修に向けた耐震補強調査の診断結果も出され、現在、設計段階の調整を行っている」と記された。だが、2006年6月、総長裁量経費での予算化は実現しなかった。また文科省への概算要求は根回しの段階で断られた。学生センターが吉田寮に伝えた大規模補修の費用は、耐震補強工事で2億5千万円、仕上げ改修(内装、外装、照明など)を含むと、総額5億8千万円だった。

京大の意思決定機構の変化

1998年3月までは、寮生が交渉する学生部は独立した部局だったが、副学長制導入と同時に、本部事務局に組み入れられた。これ以降、政府−文科省が推し進める大学組織のトップダウン的運営が京大にも取り入れられるようになった(詳しくは、下記
    《解説》近年の大学運営方式の変化
を参照)。さらに、2004年4月、京大が法人化された。法人化によって、総長と理事7名が構成員である役員会が法的に正式な意思決定機関となり、部局の代表者から構成される評議会は、教育研究評議会と名称を変え、教育面に専念にする機関になった。

ただし、法人化後初の総長となる尾池和夫氏は「京大っていうのは誰かがリーダーシップを発揮して、ああしようといったら動く大学では決してないので、みなさんと話し合いをしながらやっていく」(京大新聞2003年10月1日号)と発言し、在任中はボトムアップを尊重した。尾池氏の考えは、第一期中期計画(2004年~2009年)にも反映され、「総長を中心とするリーダーシップと部局自治のボトムアップを融合するという京都大学の運営理念」と明記された。

吉田寮については、学生担当理事や第三小委員会が従来通り寮自治会と話し合いを継続していった。例えば、話し合いの結果が、2004年4月28日の東山紘久副学長との確約、2009年10月9日および2010年7月23日の西村周三副学長との確約、2011年3月18日の赤松明彦副学長との確約などで残っている。

突然の10億円の新寮建替え案計画

2006年8月4日、学生センター(学生部の後継組織)から「京都大学重点事業アクションプラン2006―2009」のうち8億1千4百万円の予算枠で、新寮に建替える案が吉田寮に提案された。吉田南構内再生整備(学生寄宿舎)である。大学は当初、寄宿料1万5千円(のち4300円~4700円)、定員200名程度、周辺跡地の学寮以外の利用などの項目を示し、9月9日までに寮内で検討するよう促した。一方、吉田寮は、寄宿料値上げや入寮面接に職員が立ち会う提案内容などに懸念を抱くとともに、「新寮建替え」か「現棟補修保存」かのいずれか寮内合意が取れない状態が続いている上、夏休み中で寮生が少なく新寮建設に合意するという重大な意思決定をするのは不可能と考え、学生センターの提案を断った。ところが、学生センターでは9月以降も、建替え計画の予算申請を引き延ばしていた。

10月6日に、10月23日の理事懇談会までに態度を決めるよう学生センターの職員から伝えられると、その後ほぼ連日のように、寮内の臨時総会や、食堂・厨房使用者を含む寮外生向け説明会、公開会議で建替え条件や建替えの進め方について話し合いが続いた。

10月23日、9時30分から2時間半、東山副学長と新寮について団交を実施。その時間内で両者の折り合いはつかなかった。東山副学長は、12時に団交を切り上げると、その日の午後の理事懇談会で吉田寮建替えの予算申請を取り下げた。

交渉において東山副学長は、寮自治会による入退寮選考や希望する全寮生の新寮への移行を認めた。しかし、寄宿料の値上げについて大学当局は「学内のコンセンサスが得られない」と譲らなかった。福利厚生施設として受益者負担の考えを適用するのは不適切という理由から現状維持を求める寮自治会の主張に対し、一定の理解を示しつつも、「大学全体で生活困窮者の支援のあり方を議論しなければならない」として、値上げが前提であると表明したため、時間内で寮自治会との合意に至らなかった。

交渉がまとまらなかったことに関して吉田寮は、時間制限や説明不足といった当局側の姿勢を批判した。同時に、新寮についての寮内での議論や、寮外の当事者に開かれた合意形成についての検討が不十分であったと振り返り、改善を目指した。

一方、大学の「監事レポート06―7」(2007年2月)では「吉田寮の建て替えについて、寮生との話し合いを行ったが、合意が得られなかったため、今後は概算要求による大型補修を計画している」と報告された。しかし、その「概算請求による大型補修」の計画は実行されなかった。

現棟補修保存のための「大規模補修特別委員会」発足

2009年7月、吉田寮内に「大規模補修特別委員会」が発足した。2002年の補修特別委員会と異なるのは、以前は「大規模補修の見極め」のための目的だったが、今回は「現棟補修保存」の世論形成が目的だった。2009年時点で寮自治会の総意として「建替え」か「大規模補修保存」かいずれを求めるのか方針を一本化できていなかったためである。また寮自治会組織とは別に、木造建造物に関心を持つ寮生有志らが、「吉田寮ほぼ100周年祭」という木造寮の良さを提案する大規模なイベントを、2009年9月及び2011年9月に開催し、現棟補修保存の主張を内外に広めた。

《解説》近年の大学運営方式の変化


吉田寮をめぐる厳しい状況の背景を考えるための基礎知識として、大学運営の仕組みが次第にトップダウン化していった様子を、近年の国立大学を中心に簡単に整理しておきたい。

90年代まで

日本国憲法第23条に「学問の自由は、これを保障する」と定められたことに基づき、1947年に制定された学校教育法で「大学には、重要な事項を審議するため、教授会を置かなければならない」と定められた。学問の自由を守るためには教授会自治を中心とした大学の自治が必要であるという考え方が、戦後の国立大学や私立大学に広がっていった。

1971年の中央教育審議会答申では、大学が「閉鎖的な独善に陥る傾向が見られる」と指摘して、大学の設置形態や内部組織に改善を加えることを提言していた。こうした構想は、「新構想大学」と呼ばれた筑波大学(1973年設置)を始めとした一部の大学では実施されたが、多くの大学に大きな影響が及ぶのには時間がかかっていた。

1971年中教審答申の構想の影響は、1990年代に入ると次第に顕著になってくる。1991年の大学設置基準大綱化では、大学に対する政府の規制が緩和されるとともに、各大学が「自己点検・評価」にもとづき外部評価を受ける仕組みが作られた。

98年の大学審議会答申と副学長制

1998年10月の大学審議会答申では、「責任ある意思決定と実行」が強調され、「学長を中心とする大学執行部の機能、全学と学部の各機関の機能、執行機関と審議機関の分担と連携の関係」などを明確することを求めている。

1998年4月の文部省令によってつくられた副学長制は、こうした「学長を中心とする大学執行部」強化の動きであった。副学長制は、京都大学でも導入された。

03年の国立大学法人法

2003年の国立大学法人法によって、国立大学は法人化された。法人化によって、学長と学外者(大企業経営者など)を含む理事で構成される役員会が新たに設置された。以後の国立大学ではこの役員会が幅広い全学的事項(中期目標、年度計画、予算、組織の設置・廃止、「その他役員会が定める重要事項」など)の決定権を握ることになった。

14年の教授会の法的位置づけ変更

2014年6月に学校教育法と国立大学法人法が改正され、教授会の法的位置づけが変更された。1947年制定の学校教育法では、前述のとおり、「重要な事項を審議するため」に大学に教授会が置かれた。しかし、2014年の法改正によって、教授会は審議決定機関ではなく、学長が決定をおこなうにあたって意見を述べる機関とされた。また、教授会が意見を述べる事項の範囲は、「学生の入学、卒業及び課程の修了」「学位の授与」「教育研究に関する重要な事項で、教授会の意見を聴くことが必要なものとして学長が定めるもの」などに限定された。

つまり、従来は各学部がなんらかのかたちで関係する管理運営事項に関しても教授会で審議が行われることがあったが、この法改正によって教授会は、審議機関ではなくなり、限定された内容に関して意見を述べるだけの組織に縮小されたといえる。

吉田寮に関しても近年、役員会のトップダウンで大学方針が決まり、各学部の教職員の意見が反映されにくくなっている傾向が見られる。その背景には今回紹介したような大学自治が骨抜きにされている状況もあることも知った上で、学生寮と大学の望ましい未来を考えていく必要があるだろう。

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《記録》自主管理空間としての吉田寮食堂


【寄稿】唐仁原俊博(元寮生・会計年度任用職員)


吉田寮食堂の「食堂利用者」として深く関わった元寮生に、自主管理空間の成り立ちを語ってもらった。なお、寮外団体への「貸し出し」は、1986年の「せんこはなび」による石坂啓氏講演が最初(連載第7回)であるが、自主管理空間としての出発点は、「満開座」が嚆矢である。

* * * * *


1980年代、吉田寮内に設置された食堂は食事を提供する本来の機能を失い、ときに「吉田寮食堂ホール」とも呼ばれる、寮の外部に開かれた、自主的な活動・創作の場として生まれ変わった。
私は2003年に京都大学文学部に入学し、在学中には吉田寮生として、またさまざまな用途で活用する「食堂使用者」として食堂にかかわった。演劇と布団と怠惰を愛したがゆえに、10年の在学期間を経て中退し、京都を離れたものの、演劇活動を行う一食堂使用者としての関係は続いた。

以下は(退学が決まったあとに執筆した)卒業論文『1980年以降吉田寮食堂とその存在意義』を再構築したものであり、文中の「現在」は、2013年3月時を指す。物理的な距離ができたぶん、昨今の状況についてはキャッチアップできていないこと、また、私自身が元寮生であり、相当な時間を食堂で過ごした食堂使用者であることから、そもそも食堂を肯定的に評価していることを踏まえていただければさいわいである。

食堂ではなくなった寮食堂

1986年3月31日、大学当局が一方的に定めた「在寮期限」当日、吉田寮生が叩きだされることは免れたものの、大学職員であった炊フ2名が配置転換された。それまでも寮生によるイベント会場として、立て看作成の場所として、あるいは近隣のサークルの会議場所としても使われていた食堂は、食事提供機能を失ったことで、単なる広い空き部屋となった。

しかし、1987年7年6月、大阪を拠点として活動していた劇団「満開座」が、京都での公演会場を探すうちに吉田寮食堂に行き当たる。公演に便乗して「在寮期限」反対運動についてのビラを配るなど、アピールにつながるのではという思惑もあり、満開座の公演は吉田寮自治会に承認された。

公演パンフレットに挟み込まれた吉田寮自治会執行委員会による「御挨拶」には、「食堂休業に対しては、食堂再開の方向を模索するとともに、共有空間・自由空間としての食堂の機能を維持・拡大していく作業をしてきました」という一文がある。この公演を機に、吉田寮食堂の機能は実際に拡大されていく。

飯も出ない食堂に殺到する人々

満開座から打診があった当初から、自治会内部で一つの懸念があった。「吉田寮食堂で活動できると知った団体が、次々に押し寄せてくるのではないか」。満開座の公演で劇団から徴収したのは電気代のみであり、一般の貸しホールと比較すれば、経済的な負担は相当抑えられる。

また、公演に際して、寮生から実生活上の苦情が多く寄せられた。外に開くということは、自分の生活空間に他者が侵入してくるということだ。そこでは当然、摩擦が起こる。

しかし、満開座の公演後も、自治会は外部の使用を受け入れ続ける。食堂でイベントが行われることが寮のアピールにつながり、少しでも「在寮期限」撤回の助けになるのではないか、という考えが寮内ではある程度共有されていた。

9月に行われた満開座の公演からひと月ほどで、新たなイベント企画が持ち込まれた。高校生をはじめとしたアマチュアバンドのライブイベントである。さらに、ほぼ同時期に、十一月祭に合わせるかたちで、京大朝鮮語自主講座主催でマダン劇の上演が行われた。

その後、やはり多くの団体が吉田寮食堂を使用したいとやってくるようになる。これまでは届け出等もなく自由に使っていた近隣サークルとの調整も必要になってきた。

また、1988年9月に西部構内のサークルボックスの一部が、1989年7月には教養部内にあった尚賢館が焼失。多くの学生らが、サークル活動などで使用していた学内の自治空間、自主活動空間が失われ、食堂がその緊急避難先となったことが、混雑にさらに拍車をかけることとなる。

寮生と使用者が共に運営する空間

1992年には寮自治会と食堂使用者とを橋渡しし、単なる寮生と使用者という以上の関係を築くことを目的に、自治会内に「食堂局」が設置された。さらに、1996年以降、月に一度(その後、情勢によって開催頻度には変化があった)、食堂局と食堂使用者が参加する「食堂使用者会議」が開催されるようになる。そこでの議論を経て整備された食堂使用マニュアルには「基本原則」として以下の三点が挙げられている。

①吉田寮食堂は自主管理
寮食堂の維持・管理は使用者一人一人の仕事です。借りるのではなく、食堂使用者会議の一員になり、自分が運営する立場になるのだと思ってください。

②食堂使用は自己責任
吉田寮食堂は貸しホール、貸しスタジオではありません。管理者は一人一人の使用者です。ですから食堂を使うときの責任は基本的に主催団体のもとにあります。必要な仕事があればまず自分たちで、必要な交渉があればまず自分たちで、苦情がくればまず自分たちで対応するようにしてください。もちろん必要な助けをもとめてもかまいませんが、たのまなければ誰も何もしてくれませんし、失敗したらまず自分たちがリスクを負うのだということは忘れないでください。

③運営は話し合いで
食堂に関する決まりごとは基本的に使用者会議での話し合いで決めましょう。日程がかぶった時、使用者同士で交渉が必要なときは、使用者同士の話し合いで決めてください。もし決まらなかったら……? じゃんけんでもしてください。

多様な第三者との出会いの場はこれから先どうなるか

視点を2020年に戻す。私は直近では2018年3月に食堂で演劇公演を行った。2003年から、そこに至るまで、自治会・寮生と食堂使用者の関係は、基本的には1987年の満開座公演時から大きく変わることはなかった。私のように創作活動の場として食堂を使用する寮生もいれば、使用者を毛嫌いする者もいたし、単なる貸しホール感覚の使用者もいれば、唯一無二の場所と捉え、存続のために尽力する使用者もいた。

寮外の使用者がかかわった印象的な出来事が2つある。

2005年、吉田寮及び寮食堂の耐震強度調査が行われ、食堂の耐震性低下が判明したため、不特定多数の人が訪れるイベントに食堂を貸し出さないことを自治会が決定した。しかし以前食堂でのイベントに関わっていた者、イベントを見たことのある者、噂を聞いて来た者などから、再び食堂でイベントを開催したいという声が上がり、耐震性について不安があることを来場者含めたイベント参加者に確実に伝えることを条件に、2008年にイベント使用が再開される。

また2009年4月以降、大学当局より提案された吉田寮の建て替え交渉の席において、食堂使用者は「私たちが現食堂を魅力的だと感じるのは(中略)常に新しい出会いや新しいものが生まれてくる可能性を孕んでおり、またその結果生み出てきたものが堆積してきた歴史的な場の雰囲気が、私たちをさらに新しいものへと駆り立てる力を与えてくれるからです」と主張した。

今一度、満開座公演の「ご挨拶」から引用する。

「我々の寮自主管理は、我々なりの自由を追求する活動ですが、それは決して我々だけの独善やわがままであってはならならい(原文ママ)と考えます。(中略)多様な第三者との出会い・交流が大切だろうと思います。(中略)我々が寮自主管理を通じてどのような意識や文化を生み出せたかを、寮外の人々にも知ってもらい、またそこから寮自主管理の検証へとフィードバックしていく作業も大切でしょう」。

寮の一部を外部に開くという決断は、30年以上の期間、相当な人がかかわったことにより、寮生や寮自治会だけでなく、京都という街に大きな影響を与えた。これから先も食堂で新たな意識や文化が生まれ続けるのだろうか。それとも、その可能性は閉ざされるのだろうか。

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《史料》吉田寮を訪ねて


【寄稿】尾池和夫(京都芸術大学学長)


2009年、地震学者であった尾池和夫氏(第24代京大総長、現京都芸術大学長)が、吉田寮で地震について講演をした。そこで、「吉田寮はこれまでに震度5の揺れを4回経験している」。また「本部にあった元の旧制第三高等学校の寄宿舎も、建築してから10年強の間に震度5を6回経験している。ちゃんと補修してれば木造でも大丈夫だ」と語った。尾池氏は、講演後、参加者とともに一緒に鍋をつつき、その後、講演会の主催者に文書を送った。尾池氏の了承を得て、掲載する。

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裏返してみたき冬雲比叡山    和夫

東山駅で降りて聖護院の小道をたどって北風の中を歩いた。昨年9月までいつも通勤に歩いていた道を久しぶりに歩く。京都府南部に出ていた大雪の気象情報はすでに解除されて雪こそ降っていないが、吉田寮に近づくとともに空気がやたらと冷えてきた。たぶん零下の気温になっていると感じた。

数年振りに吉田寮の門を入ると学生センターの佐野さんともう一人の職員の方が待っていた。休日にわざわざ出てきて外で待っていてくれた。吉田寮の玄関には中国人学生や日本人学生が数人待っていて、たいへん丁寧な言葉で案内してくれる。

「靴のままどうぞ」

Tくんは文学部6回生で、今日の企画の提案者である。まずスライドのデータをUSBで渡して用意し、スライドの映写具合を確認して、長い寮内を案内してくれる。中寮の廊下を通り中庭に出る。

「あの猫は寮の猫の子どもです」

そばにいる黒い太った猫が、どうやら親猫のようだ。

南寮との間の庭に出る。銀杏の大木が相変わらずそびえている。自由の学風の象徴と見るか、切らないと寮にもたれて被害が出ると見るか、見方の分かれる木でもある。同行の数人の言葉に、それがあらわれている。

北寮の外側に行ってみた。以前視察したとき、研究室のある建物を整備したとき、残土を寮に向かって押し出してきて、木造の寮の下の端に土が被さっているのを見た。その時、それをすぐに直すよう指示したことがあるが、完全には出来ていない。「寮なんてどうでもいいと思っているのだ」と以前の視察のとき、案内した学生たちの一人が吐き捨てるように言ったのを思い出した。

北寮の廊下を歩く。見れば見るほど、がっちりした木造の建物の歴史が見えてきてうれしくなる。葉子もこの寮に初めて入って、すっかり気に入ったようだ。大きく伸び放題に伸びた樹木、雑然と置かれたさまざまの生活のための道具など、すべてが寮の象徴であり、歴史を物語る。

談話室で講演した。「地震を知って震災に備える」とうい題で、地震の仕組みをしっかり話した。談話室に入りきれないほどの学生たちが集まってきた。日本語で話したので、日本語のわかる寮生が隣の学生に、中国語で同時通訳してくれている。談話室はよくできていて、寮生たちの熱気もあってか、ぜんぜん寒くなかった。約2時間、私はひたすら地震の話をした。的確な質問が途中で割り込む。質問の的が外れていないので気持ちがいい。気がついて振り返ると部屋に人がさらに溢れていた。

「こんなに集まると思ってなかったので」

誰かが、この後の用意の心配をしている。

講演の後は、吉田寮名物とも言える鍋である。世話役のTくんが、料金について説明して始まる。思い思いに、自分の箸と食器を持ってきて、でき次第に取って食べ始める。しばらくは議論も絶える。やや時間が経つと、また乾杯をして議論もする。

気がついたら21時30分だった。記念写真を撮る人たちもあり、しばらく挨拶をして帰途についた。夜の空気を冷えていたが、たいへん暖かい気持ちでの帰り道だった。

「ずいぶん頑丈な建物で、よくできているから、きれいに整備して使うといいわね」

長年、地震学者につき合ってきた妻の、帰り道での感想である。

大寒や未来はここに吉田寮    和夫

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紙面紹介


2020年12月16日号紙面では、《通史》で紹介した時代の写真や年表も掲載しています。ぜひご覧ください。

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