拝見 研究室の本棚 第4回 読書の魅力は「自問自答」 安部浩 国際高等教育院 教授
2024.10.16
「どのくらいあるんでしょうね、わからない」。研究室を見渡しながら安部教授はそう語る。本棚にはニーチェやカントといった哲学者の名が刻まれた背表紙が並ぶ。哲学書の原典が多いそうだ。教授の専門は主に現代ドイツ哲学。存在論や形而上学が専門分野だ。「ある」とはどういうことか、という問いに向き合っている。
読書との出会いは早い方だという。両親は読書家というわけではなかったが、家には本がたくさんあった。小6の時、夏目漱石の『こころ』に感銘を受けた。中学時代には日本近代文学を愛読した一方、中2で読んだヘルマン・ヘッセの中編小説『デミアン』に強く感動した。「授業中でドキドキしながら読んだこともあったんだけど、大変な小説だなと思ったことを覚えてますよ」。高校時代には高橋和巳の作品を愛読した。高橋はかつて京大で教鞭をとっていた中国文学者だ。漢詩に興味があったこともあり、「中国文学を勉強するなら京大文学部に行くしかない」と決めて京大に進学した。「高橋和巳との出会いが先か、京大を目指したのが先か」という問いは「鶏が先か、卵が先か」のような問いだという。大学に入学してからは、詩を自覚的に読むようになった。特に西脇順三郎やヘルダーリンの詩を読み耽った。詩と小説は、言葉の凝縮度が違う。理屈以前に心を打つ詩の喚起力が、大学に入ってから少しずつわかるようになったという。
中国文学を志して京大に入った安部教授は、一転して現代ドイツ哲学を研究することとなる。方向転換の契機となった本がハイデガーの『存在と時間』だ。大学1回生の時、哲学好きなクラスメートに誘われ、今出川通の喫茶店・進々堂で定期的に開かれる読書会に参加した。読書会で『存在と時間』の翻訳を読んだ時、全く理解できなかった。ただ、読書会のメンバー各自が自分なりに文意を読み取って議論をしたことが印象に残っているという。
教授は、「広く推薦する本」として3冊を挙げる。1冊目は『学問の創造』(朝日文庫)。京大名誉教授であった福井謙一氏が、ノーベル化学賞受賞に結実した研究の原点を記した自伝的著作である。その原点として福井氏が挙げる「科学的直観」に教授は注目する。合理性によらない直観的な選択が、学問のみならず人生においても重要な意味を持つ、ということだ。安部教授が持つ文庫本の扉には、福井氏直筆のサインが覗く。安部教授は福井氏を「学問の世界に誘っていただいた先生」と呼ぶ。福井氏がノーベル賞を取ったとき、教授は小学4年生だった。直接的なツテはなかったが、幸運にも福井氏の自宅を訪れ、話をする機会を得た。「福井先生も私も同じ奈良育ちなので、地縁が物を言ったのかもしれない」と振り返る。京大入学後に再び福井氏を訪ねる機会があった。その際に福井氏から直接貰ったのが『学問の創造』だった。
2冊目は中国の詩人・陶淵明の作品を収めた『陶淵明全集』(岩波文庫)だ。彼は、生死という「どうしようもない人間の存在構造」への向き合い方に問題意識を持った詩人だったが、この問いは現代の我々にも響くものだと安部教授は考える。陶淵明は、世間的な評価にこだわらず、個としてのあり方に徹して生きた。彼は、「君子は自分に困難が降りかかることも辞さない」という意の「固窮の節」を用いて、その哲学を韻文に込めた。「詩としての良さもあるんだけど、読んでいて励まされますよね」。
3冊目は『夢中問答集』(講談社文庫)。室町時代の禅僧・夢窓疎石と、足利尊氏の弟・直義の問答だ。政治家である直義が鋭い問いを投げかけ、疎石が簡にして要を得た説明で返す。例えば直義が、そもそも「悟りの体験」とはどういうものか、と問う。すると疎石は、悟りが重要なのではなく、迷いと悟りの二項対立が生じる根本に帰るのが座禅の狙いだ、と答える。こうした簡潔な説明からなる『夢中問答集』は、日本仏教全般の入門書として非常に優れているという。また、存在論を専門とする安部教授は、悟りと迷いが未だ分かれていない「裸の人間のようなあり方」に関心を寄せている。
安部教授は読書の愉しさとして、「テキストの言わんとするところを理解するのに努める喜び」を挙げる。これは対話において、相手の話に身を乗り出して聞き入ることに似ている。一方で、対話と異なる読書の魅力として「自問自答」があるという。本の著者は生の姿では現れず、必ず自分なりに理解した形をとって出てくる。読書とは、著者の主張を自分なりに理解した自分との対話――。教授はそう語った。