拝見 研究室の本棚 第5回 正確な読みでまだ見ぬ世界を知る 髙田緑 国際高等教育院 非常勤講師
2025.02.16

自宅の本棚には、授業で扱ってきたフリードリヒ・デュレンマットやトーマス・マンなどのドイツ語圏の作家の原書や訳書が並ぶ。更に、ワイルダーの「小さな家」シリーズや、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』といった幼い頃に読んだという海外小説も収める。
幼い頃から音楽家を目指し、パイプオルガンで音大を受験したが上手く行かず、浪人生活を送ることになる。そんな中、姉の本棚にあった一冊の本に出会って運命が変わった。その本とは『道ありき〈青春編〉』(新潮文庫)。作家・三浦綾子の自伝的小説だ。他の文学作品であれば「美しく書いて終わるだろう」人生の中での葛藤や絶望が、全編を通して赤裸々に綴られていて、大きな衝撃を受けた。「文学畑にいたい」と思うようになり、学習院大学文学部を受験。無事合格した。
学部卒業後はドイツの大学院に進学し、ホロコースト文学の研究に打ち込んだ。自宅の本棚には、その時に使用したハンナ・アーレントの著作や、ドイツ語の辞書が多数並んでいる。その中には、研究のきっかけとなった『追究 アウシュヴィツの歌』(白水社)もある。この本は、ペーター・ヴァイスの演劇『追究』を文字に起こしたもの。アウシュヴィッツ裁判での約350人の証言を基に戦時下の状況を辿る作品で、1965年の初演以降、ドイツ国内で何年にもわたって上演されてきた。この劇を上演された年代別に観た結果、上演年によって差異があると気付き、興味を持った。例えば、初演時は被害者と加害者を別人が演じていたが、「誰でも被害者、加害者になりうる」との解釈から、現代ではどちらも同一人物が演じる。こうした差異に、ホロコーストに対するドイツ人の理解の変化を見出して博士論文を執筆し、ドイツで出版した。
帰国後に神学を研究する夫と結婚。教会での説教を準備する夫の声に耳を傾ける中で、田川建三の『新約聖書 本文の訳』(作品社)に出会った。ギリシア語で書かれた原書に含まれる時制の不一致やぎこちない箇所が忠実に日本語に訳されていて、「正確に読んだ方が正確に分かる」と読んでいて面白かった。また、最初にマルコによる福音書を持ってくるなど、伝統的な並び方に従っていない点も興味深かった。
今でもよく本を読んでいる。現在注目するのは、スワヒリ語の訳者・小野田風子。『翻訳文学紀行Ⅴ』(ことばのたび社)に収録された「バレンズィ」という短編小説で知った。原書は、タンザニアの作家であるE・ケジラハビが、ヨーロッパの様々な文学的手法を取り入れながら、スワヒリ語で書いた作品だ。戦争時に息子の遺体が飛行機で運ばれてきて以来、飛行機を見ると叫んで走るようになったおばあさんの姿によって、戦争のトラウマが鮮明に描かれている。「原書が持っている力を損なわない」訳であると感じつつ、自分の知らなかった国の問題が分かって、思わず「ぞわっと」した。
「世界を知りたい」。自分は見ることのできない現実の世界で何が起き、どんな心の叫びがあるのか。それを教えてくれたのが、本だった。知らない世界を求めて、今後も本を読み続ける。(郷)