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【連載第十四回】京大新聞の百年 「素人のおもちゃ」が印刷屋の先入観を覆した

2024.09.16

25年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第十四回。今回は「拾い読み」のコーナーで99年〜2000年の紙面内容を振り返る。また、在籍者や専門家へのインタビューのほか、関係者の寄稿を通して90〜2000年代の京大新聞をとりまく状況を概観する。(編集部)

目次

本紙が組版を電子化した90年代の印刷事情 創業160年 中西印刷 社長に聞く
教員寄稿 國重裕教授/佐藤公美教授
聞き取り⑦ ニュースの受け止め様々 2000年代在籍者に聞く
拾い読み⑬ 文化記事が少なめ 1999〜2000年の紙面


本紙が組版を電子化した90年代の印刷事情 創業160年 中西印刷 社長に聞く


DTPに可能性を感じた 中西印刷8代目社長 中西秀彦氏


京大新聞は、90年代後半からコンピュータで紙面の割付作業を行うようになった。印刷所に原稿を持ち込んで組んでもらう従来のやり方から一変して、自分たちで組版する体制が定着し、現在にも引き継がれている。内部的には画期と言えるこの変化は、印刷業界の歴史においてどのように位置づけられるのか。1865年創業の中西印刷8代目社長・中西秀彦氏と、日本印刷技術協会シニアフェローでメディア経営に関する研究がある藤井建人氏に、90年代の印刷技術の普及状況などを尋ねた。(村)

写植導入「大きな変化」

―活版印刷以降の技術の変遷は。

活版は制約が多くて、写植という技術が発明され、そちらが普及した。小さい文字がずらっと並んだ文字版から一字ずつ探して写真を撮って文をつくって、歯車をずらして次の行へ、というしくみ。戦後、1970年代にかけて急速に発達した。この活版印刷から手動写植への変化は革命的で、活字の職人さんの多くは居場所を失っていく。その後、手動だった写植の電算化が実現した。ただ、電算写植の機械は高額で、そこに安価なコンピュ―タ組版(DTP)が登場し、一気に広まった。流れとしては、活版から手動写植、電算写植、そしてDTPへ移る。

―中西印刷での変化は。

うちは活版印刷の技術に自信を持っていて、親父(先々代社長)が断固として手動写植に手を出さなかったけど、私が入社した翌年の86年、時代の流れを見て「もうどうしようもないな」と思って写植に移行した。今さら手動写植をやっても仕方ないということで、活版からいきなり電算写植に変えた。かなり大きな変化だったけど、若かったのもあって一気に動かしたね。

―大転換に社内で反発は。

そこは大変だった。労働運動が盛んなころで。でも、あくまで条件闘争の姿勢だった。職人さんが協力的で、「絶対反対」ではなかった。というのも、うちは活版の職人さんに電算写植の機械を担当してもらうことにしていたから。ただそれは当時、絶対に成功しないと言われていた。業界の先輩から「活版の職人は活版で全うさせるしかない」と忠告された。「彼らにコンピューターを扱えるわけがない」という先入観がすごかった。でも、できると判断してやってもらって成功した。当時は「WYSIWYG」(「What You See Is What You Get」の略語。コンピューターでの編集画面の見た目どおり出力されること)ができる時代ではないから、印刷するにあたって、プログラミングのイメージで「1行目は上から何㌢、横から何㌢のところに文字を何ポイントで」などと指定する必要がある。そういう操作が大変だった。私の実感では活字の職人さんのうち、▼転換に成功▼製版などの部署に異動▼退職がそれぞれ3分の1ずつという印象になる。

活版印刷の職人の作業風景(写真は中西氏提供)



モリサワ社の戦略が成功

―DTP(コンピュータ組版)はまず業界から普及したのか。

いや、逆だね。業界はDTPをまったく信用していなかった。90年代前半ごろまでは、「DTPなんてプロの使いものにならない。素人のおもちゃだ」という見方が主流だった。取り入れたのはむしろアマチュアの人たち。これにはレーザープリンターの登場が大きい。ドットで表現する従来のプリンターと比べてきれいな見た目になるということで、素人さんたちが飛びついた。ワープロで打ってレーザープリンターで刷る。そういうDTPのやり方で自前の冊子などを刷る人がたくさんいたと思う。それでもDPI(1㌅あたりのドット数)という指標で言えばせいぜい300程度で、電算写植は1200以上だから、プロは「レーザープリンターなんか話にならない。やっぱり写植だ」と。

―プロの間でDTPが使えるという認識になった経緯は。

モリサワというメーカーの存在が大きかった。写植の業者にはモリサワと写研(写真植字機研究所)という2大巨頭があって、もともと後者の存在感が強かった。ところが、前者の戦略が成功して立場が逆転した。画期は、90年代前半にモリサワがアメリカのアドビ社と組んで、DTPの出力を写植でできるようにしたこと。これにより、手軽に美しい印刷物をつくれるようになった。一方、写研は頑なにそれをしなかった。写植の機械や自社製のフォントに誇りを持っていて、それらをDTPという素人の手段の出力に用いるのは絶対に避けたいという気持ちだったのだろう。結果的に、30年たってモリサワのほうが正解だった。当時は業界全体の雰囲気として、DTPでプロの仕事をすることは、印刷屋をないがしろにするようなものだという感覚があった。「なめるんじゃねえよ」「できるわけないだろ」と。かかるお金が全然違って、写植の機械は約1千万で、パソコンは一式買っても当時100万程度。「それでできてしまうなら、われわれ印刷屋の仕事がなくなってしまうのではないか」と恐れる空気感もあった。

―ご自身のDTPへの印象は。

私は当時、パソコン通信というネットワーク上で、印刷に関するフォーラムを立ち上げて情報交換していた。そのなかでDTPの写植出力はかなり可能性を持っているなと感じていた。

―京大新聞が導入した組版ソフト『エディカラー』(住友金属工業)はどういう存在だったか。

当時、世界で各社がいろいろな機械を出して切磋琢磨していて、そのひとつだった。DTPというより電算写植の一種と考えていた。安価に電算写植でWYSIWYGができるという印象。

―ある意味、プロに受け入れられやすかった。

そうだね。むしろ京大新聞さんのような素人さんのところで使う例はほとんどないと思う。なぜエディカラーにしたのかな。

―交渉して、広告掲載と引き換えに提供してもらったと聞いた。

なるほど。当時は「レーザー7」とか「大地」とか、ワープロと電算写植の間のようなソフトがいくつかあった。アルダスやアドビといった技術の高い外国製品に対して、縦書きの日本語への対応という点でメリットがあって、どこが覇権をとるかという状況。住友金属の新規事業として普及に力を入れたのだろう。縦書きの組版は、細かく位置を指定できる電算写植ならできたけど、初期のDTPソフトでは対応が難しく、それもあっておもちゃ呼ばわりされていた。見栄えと日本語組版、そのすべてをクリアしたのがアドビ社の『インデザイン』。

(※京大新聞では、エディカラーの生産終了を受け、17年からインデザインに移行した)

紙媒体「かなり難しい」

―紙媒体は今後どうなるか。

領域による。情報媒体としての領域で紙の新聞を存続させるのは正直かなり難しいと思う。ただ、保存という側面もある。紙のメリットは物理的であること。データよりもしっかりと残る。CD-ROMのようなものもあるが、結局、最も有効な保存方法は紙でつくってばらまくこと。そういう意味では新聞の可能性を見出せる。


◆中西秀彦(なかにし ひでひこ) 80年、京大文学部卒。マーケティング会社を経て85年に中西印刷入社、16年から8代目社長。日本出版学会の副会長も務める。博士(創造都市)。


【参考】
中西秀彦『活字が消えた日―コンピュータと印刷―』松香堂書店、2020年10月(初版は晶文社、94年6月)

今後のメディアは共感の共創がカギ 日本印刷技術協会 藤井建人氏


紙とウェブの二択ではない

―広告媒体やニュース媒体という観点で、学生新聞はどこに活路を見出せるか。

広告は全体的にネットに流れていて、紙媒体で獲得するのは難しく、広告媒体としての新聞はなかなか厳しい状況。広告以外に収入源を求める例として、協賛金が挙げられる。広告は、特定の号での宣伝効果を期待して出すものだが、協賛の場合は発行の理念への共感にもとづく定期的な支援。協力してくれる人たちと一緒に価値をつくっていくような媒体になれば、持続可能だと思う。ニュース媒体としては、速報性はネットにかなわないため、読み物や独自のコンテンツなど、ネットでは得にくい記事に活路を見出せる。取材された人や読んだ人が喜ぶような社会性のある媒体にシフトしていく方向性。媒体を起点にしてコミュニティが生まれていけば、さらに可能性が広がる。ニュース媒体としての側面で言えば、いくつかのネットニュース媒体が登場したが、一部を除いて伸び悩んでいて、デジタルならうまくいくというわけでもない。ネットか紙かという二者択一の話ではなく、何を扱い、どうやって共感を得ていくかが大事になる。紙のいいところは信頼性と物体性。ひとたび発行してしまうと修正がきかないから、何回も校正して印刷される。それで出たものは信頼性が高いという認識を持たれているということは、各種の調査でも明らかになっている。

課題解決型の紙面に活路

―これからの時代の広告は。

ソリューション型がありそうだ。従来、どの新聞社も「このスペースならいくら」という枠売りビジネスが中心だった。全盛期は営業をかけなくても「載せてください」と依頼が来て、新聞社には広告営業部ではなく広告審査部という部署があったほど。載せる価値や品格があるかを考慮して掲載を判断するというやり方だった。しだいに広告がとれなくなってきて、新聞社が頭を下げる側に回った。SNSの登場により、単なる速報以外に社会の役に立つような記事が求められるのと同じで、広告媒体としても、ただ枠を売るだけでなく、 提案型で広告主の課題解決に貢献していく必要がある。言論の頂点的な存在で殿様商売の時代が長かったのもあって、シフトチェンジはなかなか進んでいないが。

―京大新聞もたくさん広告が集まった時代があった。今後さらに資金集めの工夫が必要になる。

事例として、たとえば前橋市で発行されているフリーペーパー「mebuku」は斬新な紙面レイアウトで読み物よりもビジュアル中心。まちづくりへの貢献という理念を掲げ、それへの共感としてたくさんの地域企業から協力を得ている。もうひとつは愛媛の教育系フリーペーパー「ココロエえひめ」。ページの最後に協賛企業一覧として約200社載っている。愛媛ならではの人材を育成したいという理念に共感した地域企業が出資している。これらは支えられてつくる新聞のモデルケースになりうる。

藤井氏(本人提供)


◆藤井建人(ふじい たけと) 92年、駒澤大経済学部卒業。中小企業診断士。法政大などの研究員のほか、日本印刷技術協会の研究調査部長を経て同協会シニアフェロー。修士(政策学)。

【参考】
日本出版学会『パブリッシング・スタディーズ』印刷学会出版部、2022年4月 ※1章の1・3を両氏が執筆
早稲田大学メディア文化研究所『「ニュース」は生き残るか―メディアビジネスの未来を探る』一藝社、2018年6月 ※第3章を藤井氏が執筆

「初めてと言っていい」 京大新聞の制作デジタル化の試み

―京大新聞のDTP導入(96年)は学生新聞で初めてと言えそうか。

中西 そもそもDTPは定義が難しい。電算写植をDTPと呼ぶ人もいる。WYSIWYGができるかどうかで違いを見出せるが、電算写植でWYSIWYGができるエディカラーのようなものもある。かといって、エディカラーはDTPとは違うとも思う。だから、「初」かどうか断言できない。ワープロコピーの例で言えば、私は京大SF研究会(三期)の創設者のひとりで、そこでは1982年から雑誌をつくっていた。

藤井 エディカラーのようなプロ向けのソフトを独自に導入し、自分たちで新聞の組版をはじめたとなると、そんな物好きな学生はおそらく他にいないと思う。

中西 いないだろうね。

藤井 当時、エディカラーの操作の習得だけでも簡単ではなかったはず。大学の新聞部が自らやるというのは想像がつかない。のちのインデザインはアマチュアでも使いやすいだろうけど。少なくとも今残っている新聞としては初めてでかなり先進的だったと言っていいのではないか。

中西 学生新聞と言えば、印刷所の職人さんに原稿をせかされて鉛の活字を投げつけられたという話を聞いたことがある。そのころのように活版が主流だった時代には発想すらなかったことが現実になった。うちの親父は、将来コンピューターで印刷する時代が来ると聞いて「そんなのいったい何十年先だ」と言っていたが、その約5年後に実現した。この先も全然読めない。

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教員寄稿 國重裕教授/佐藤公美教授


学生として90年代の京大を過ごし、在学中に寄稿などで本紙の紙面を彩った2名の教員から、当時を振り返る寄稿をもらった。國重裕氏は核反対運動の体験記や音楽に関する寄稿、佐藤公美氏はキャンパス・セクハラを考える学生団体の一員として座談会記事などで協力を得た。

ユーモアとおまじない 龍谷大学 國重裕教授


ウンコッテ・ウンコテビッチ・クサイスキー先生

京都大学新聞といえば(以下Q大と略す。詳細は武田泰淳「「愛」のかたち」参照)、校門近くに「定価100円」と記しただけの緑色の無人の販売ボックスを思い出す。学生時代のわたしは「だれが払うのだろうか」と他人事ながら心配に思ったものである。

しかしQ大新聞の存在を意識したのは、同社が編集する「Q大学受験案内(Q大サクセスブック)」なるムックである。定価は980円。この時代、消費税はまだない。

1987年入学のわたしの手元にあるのは88年版だが、「現役Q大生による大学紹介」「座談会=Q大生を語る『森毅×池田浩士×伊藤公雄』」ほか、「2年間のモラトリアム」と題した教養部の紹介もある。そこでは当時必修科目であったドイツ語、中国語、フランス語、ロシア語のガイドを教員が執筆している。なかでもウ・ウ・クサイスキーによる「フランス語をn倍楽しむ方法」に目が釘付けになった(「ウ・ウ」は「ウンコッテ・ウンコテビッチ」の略)。クサイ氏は、思想、文学、映画、料理などフランス文化に関心を持たなくてはフランス語も上達しないとした上で、次のように語る。

クサイ 第一に最近は研究室で雑談がなくなった。バカ話などせず、みなせっせと宿題の採点や、教材作りにはげんでおる。コンピューターやワープロの技術習得に眼の色を変えておる。むかしはフランス語の教師いうたら、大体においてズボラで授業はきらい、機械なんか振り向きもせなんだのに。

変(「編集部」の略) するとフランス語をおもしろく学ぶには、まず先生の人間改造から始めるべきだと……

クサイ さよう。ティーチング・マシン化しつつある教師の人間的救済の債務は、いつに学生諸君の双肩にかかっておるノダ!

20歳前のわたしは、「さすがQ大学。ケッタイな先生がおるなぁ」と単純にうれしくなったのだが、自身も語学教師になったいま、すこし別の見方をしている。

ペンは剣より強し

この諺にもかかわらず、戦争の絶えない今、平和を訴える言葉はいかにも無力に見える。それどころか、敵への憎悪を煽る政治家の言葉は、無辜の民を殺傷する武器より凶暴・強力である。では言葉に力がないのかといえばそうではない。文学は、政治家が語る(騙る)言葉の虚構性を暴き、政治家をシャレのめすことで、権力者に煽られて集団狂気に陥った人びとの目を醒まさせることができる。右の引用から読者にも片鱗は感じていただけるだろうが、クサイスキー氏が本名で書いたと思しき『ごっこ』や『選ばれた一人』は、学園紛争のさなか、「正常化」に向けて画一化が進む大学の「滑稽さ」を描いた小説だ。

当該記事を投稿したクサイスキー氏は、たんにふざけていただけではないのだと、今では想像する。スカトロ的な陽気な嗤いの背後には、時代に対する「不機嫌」が合わせ鏡のように存在する。

国立大学の法人化が断行され、かつては「自由の学風」と謳われたQ大学も、言葉だけは威勢がよくても文部科学省にまんまと言いくるめられた前総長のために大学の自治もセトギワである。おまけに権威主義的で学生との約束を一方的に反故にした副学長(倫理学が専門だそうだ)のマキゾエを喰って、自分の大学の学生を裁判に訴えるという暴挙に出た。自治寮である吉田寮も風前の灯にもみえる。クサイスキー氏が教師の人間的救済を訴えた35年前より大学を囲む環境はいっそう厳しくなっている。

吉田寮の今昔

しかし、大層な語り(騙り)はやめて、話を「Q大学受験案内」に戻そう。いま88年版をあらためて手に取ると、巻頭のカラーの特集に「赤レンガ学生部と吉田寮」という記事を見つけた。長くなるが引用する。「Q大の校舎といえば赤レンガだ。なかでも現学生部の建物は、本学において現存する最古の建物で、1889年築の第三高等学校の物理学実験室に端を発する。1897年Q大開設とともに理学部が引き継ぎ、数学及び物理学教室がおかれた。湯川秀樹はここで学んだ。/一方、吉田寮は1913年に現在地に建てられ学生部にまけないくらい古い。元文部大臣の永井道雄氏や現・臨教審会長の岡本道雄氏は吉田寮出身である。/この学内でも古参の両者は、この20年来仲がわるい。水光熱費や管理権をめぐって事あるごとに対立し、今は、廃寮をめぐって係争中だ。(中略)吉田寮のうっそうと茂る中庭。この仲のわるい両者がともにカマを持って、毎年夏に中庭の草を刈ると言ったら信じるであろうか。学生部の職員と寮生が頭に手拭いをまいて、セッセと草を刈るのである。刈り終えるとビールで乾杯だ。他大学の廃寮に晒されている寮では考えられないことだ。これも『Q大らしさ』のひとつかもしれない。」

それ自身が「Q大らしさ」である大学新聞が創刊百周年を迎える。これからも末長く大学の木鐸でありつづけることを切に希望します(当該ムックにご関心の方は、9ページの「ダモクレスの剣、無機質の鉄骨が持つ『意志』」もぜひお読みいただきたい)。

◆くにしげ ゆたか
2000年に京大文学研究科博士後期課程指導認定退学。博士(文学)。


※國重氏は龍谷大学教養教育教授、画像は本人提供

紛れもない自分の頭で 京大人間・環境学研究科 佐藤公美教授


私が学生・院生として京大新聞を読んでいた当時に比べ、現在「自由な情報」の媒体は比較にならない量と規模に達しました。そのぶん量も刺激も容易に臨界点に達し「自分の頭で考える」キャパシティが失われるのも高速です。記者も、読者も、一人一人が、紛れもない自分の頭で考える。そういう場所を目指し続けてください。京大新聞でしか読めない情報がそこにあり続けることでしょう。

◆さとう ひとみ 98年に修士、08年に博士の学位を京大文学研究科で取得。22年から京大教授。



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聞き取り⑦ ニュースの受け止め様々 2000年代在籍者に聞く


2000年代に在籍した3名に話を聞いた。奇しくも3名とも、卒業後は中日新聞の記者となっている。在学中どのような思いで京大新聞の活動に取り組んでいたのか、振り返ってもらった。(聞き手:村)

激動期の自転車操業から安定発行へ


大島康介さん(01〜07)、松崎晃子さん(03〜09)、安藤孝憲さん(05〜09)
=8月24日、名古屋駅付近の喫茶店にて


驚くほど人が少ない

―入社のきっかけは。

安藤 新聞記者だった祖父の影響でマスコミ志望。どんなものか体験できればと思った。

松崎 私は合気道部に入っていて、全く違うこともやりたくて、ふらっと会議の見学に行った。

―ふらっと行くにしては独特な雰囲気だったのでは。

松崎 めっちゃ勇気がいる。当時はお化け屋敷みたいな建物で。いざ見学に行ったら、人が少なくて、本当にこれで発行しているのかと驚いた。

大島 僕は1回生の間は体育会サッカー部にいて、週6で練習。2回生前期に工学部必修の実験の単位を落として留年が確定してしまって、部活は無理だと思った。他を探して、それで興味を持った。昔から雑誌を読むのが好きで。スポーツ雑誌『Number』とか。

―印象に残っている記事は。

安藤 研究室に行って先生に話を聞く記事は、他の学部の様子を知れて楽しかった。あとは教員の本棚を見せてもらう企画とか、いろいろ書いた。

大島 イランに行って旅行記を書いた。コーナーとして後に何人か続いてくれた。在日コリアンの編集員が自分の来歴を絡めて書いてくれて、すごくよかった。

松崎 私はあまり書いていなくて、割付やアルバム中心。合気道部も部員が少なくて、そちらに力を割いた。

04年5月16日号
「旅する学生」 初回



06年5月1日号
自転車旅行記



05年7月1日号



大きな会見に出て興奮

安藤 入った年にアメフト部の事件(※1)があった。たしか折衝して大学の記者会見に入れてもらった。会見場には一般紙やテレビ局の人たちが並ぶ。そういう仕事をしたいと思っていたから、体験できて興奮したのを覚えている。それから、山中伸弥さんがiPS細胞を発表した会見にも出席した。全国的に扱われるようなニュースに絡めるのはおもしろいなと思った。

松崎 会見に出るために折衝することはよくあった。

―今は大学記者クラブから会見の案内が来る。90年代の在籍者は、ネタは自分たちでつかむものだという考えで、記者クラブに入ろうとも思わなかったと言っていた。加入した経緯は。

大島 国立大学の法人化(04年4月〜)の関係で、取材するにあたって入れてほしいとお願いしたんじゃなかったかな。

―記者クラブへの意識は。

大島 クラブ費を払わずに入らせてくれて、それで会見に出られるならいいだろうという話になった。入るまでもないという先輩方の感覚は、豊富な情報網があったからこそだと思う。僕らのころは、情報を得る選択肢として記者クラブと付き合ってもいいよねという感覚。

松崎 当局主催の会見に折衝なく出入りできるのは便利だし。

―どんなネタを扱うかの議論は。

安藤 会議はしたけど、どこに何を置くかとかは、そんなに議論しなかったと思う。基本的に「書きます」と言ったものが通らないことはなかった気がする。

松崎 デスクが紙面構成表を出してきて、よほどのことがなければ「これでいこう」という報告程度で終わる。

硬派な記事以外にも

安藤 私はノンポリだから、当時盛り上がっていた石垣問題(※2)はあまり関心がなかった。もっとライトな話でいいという考えで、学生の取り組みや七大戦(※3)を取材した。正直、誰に向けて書いてるんだろうとずっと思っていた。寮の話とかは一部の人に関心を持たれるだろうけど、この新聞をいったい誰が手に取って読むのかと。あるとき調べたら、在学生の親や卒業生が読んでいることが分かって、そういう方々に学生生活の様子を知らせる記事があってもいいと思った。学生運動が盛んなころの政治色の強い紙面には抵抗があって、5月病特集とか、軟派なものも載せた。

松崎 受験生号や教習所特集号には、くだけた記事も載せた。自由に書く一方、就職先一覧のような記事で学生の関心に応えていたんだなと思い出す。

安藤 地味な記事の方が反応があったりする。うちが就職先を集計して載せて、それを週刊紙に提供して活用された。つまらないと思う人もいるだろうけど、僕は楽しかった。こういうものも一緒に載せないと情報って世に出ないんだと実感した。

「収益の柱」維持に奔走

安藤 アルバム事業が収益の柱だから、力を入れた。一時期、ある会社が独自に学内で営業をかけるようになって、乗っ取られないよう奔走した。

松崎 取材先で「あちらは偽物です」と言って回った。

大島 ケリがついたのは僕がいたころ。もともと提携していた会社の下請け会社が、しだいに本営を乗っ取った。しばらく京大新聞はその下請け会社と組んで制作したけど、営業活動を過剰に前倒ししたりと意向が噛み合わず。卒業生の弁護士に代理人になってもらって訴訟で契約解除に至った。その後は別の会社と組んで、式典に旧会社が立ち入らないよう戦った。学生部と話をつけて〈学内団体の京大新聞が卒アル用の撮影を行うのは認めるが、外部の営利団体が独自に式場に入るのは認めない〉という言質を取って、会場前で僕や学生部の人が立ちはだかって、あちらのカメラマンが来たら「帰って」と追い払った。

ニュースをどう書くか

安藤 正直、新聞の売り上げはほぼ金にならない。出費を見直したり、販売ボックスのペンキを塗り直したり、新聞発送用の名簿をエクセルで整理したり、いろいろ取り組んだ。

松崎 発送用の帯封の業者も変わった。それまでは個人でやっておられる方に巻いてもらっていたけど、アテナ商事に移行したのはそのころだろう。

―販売ボックスの売れ行きは。

安藤 しっかり管理できていなかったな。入試のときは学習塾の営業と並んで一生懸命配った。

松崎 けっこうもらってくれた。

安藤 僕としては、そういう子たちに石垣問題のような話を読ませるのはどうなのかという意識で、大学生活を伝える記事を重視した。先輩方の考えとは少し違ったと思う。

大島 僕は、ニュースは読んでいておもしろければいいという考え。石垣の件も、きちんと書けば目立たせてもいい。考え方は様々だけど、1面にニュースを載せることは決まっていた。

松崎 そこは揺るぎない部分だった。当時、ネタに困らないほどいろいろなことが起きた印象。法人化以外にも、後期入試廃止とか、大きなことが頻発する激動期だったと言えるかも。身近な話で言うと、法人化に伴って授業料減免の枠が減って支払いに困る人が出て、のちに枠が復活した。私も弾かれたから大変だった。窓口に行って、納入期限後いつまでなら待ってもらえるか相談したこともあった。綱渡りで学部時代を過ごして、修士に入ったころに基準が緩和されて減免されて、だいぶ楽になった。そういう意味で法人化には恨みがある(笑)。

大島 法人化関連の説明会や団交を見てつくづく思ったのは、大学のことは結局、教員や職員が決めるんだなと。学生に発言権はないと実感した。学費を払う立場で意思決定に関われないのはおかしいという問題意識で、コラムを書いた。

安藤 僕はあまり関心がなくて、ちゃらんぽらんな紀行文を書いた。自転車で中山道を走ったとか、ダム建設に伴い消滅した岐阜の徳山村に行ったとか。

―今の仕事につながる部分は。

安藤 アポをとって話を聞きに行くことの大変さと楽しさを経験できたことは活きている。

松崎 私はもっとやりたいなと思って記者になった。

少ないなりにやりくり

―02年の紙面には「発行が遅れて申し訳ない」と書いているが、翌年には「定期的に発行できている」「稀に見る事態」とある。

大島 少ない人数なりに回せるノウハウがついてきた。

松崎 それと「遅れるのはやっぱりダメ」という意識の部分も大きい。毎週の編集会議で、合併号にするかを議論して嫌悪な雰囲気になっていたイメージ。デスクが「これらの記事が出なければ厳しい」と言って、「じゃあどうするの」みたいな。

安藤 「4面にするは厳しいから2面でいいか」「いや、だめだ」というやりとりもよくあった。

大島 自転車操業だね。

松崎 他にも、割付作業する人を確保できるか、誰が出力所に持っていくかとかを調整した。

―出力所では何をする。

松崎 MOディスクと筒を背負って出力所に行って版下を出してもらって、それを背負って戻ってきて校正する。

安藤 出力が終わったら大阪・福島の印刷所に車で行く。今思えば冒険。社用車の古いデリカで阪神高速に乗る。エンストして買い替えたこともあった。一連の活動で新聞づくりを学べた。

松崎 分担がうまくいって4面発行が定着したのは安藤くんたちの世代からかな。

大島 そのころにはかなり人が増えた。02年は実働が約3人。

―なかなか定着しなかった。

松崎 最初はやっぱりなじみにくい。独特の空気ができているところに加わるわけだし、紙面は基本的に硬派な雰囲気だし、会議でバリバリ発言してガンガン記事を書けないと参加資格がないのかなと思うこともあった。

―ピリピリしていた。

松崎 それはあったかも。今思うと、もっと気楽に取材すればよかったな。レイアウトは楽しかった。全然できなかったけど。

―少し上の世代でDTP化し、それが定着していく時期か。

松崎 私が入ったころにはボックス(部室)にパソコンが置いてあった。日常的に触れる環境だったのは個人的にはよかった。

―原稿はパソコンで書く?

松崎 パソコンで書いて紙で出して校正する。

大島 指定の字数を超過する人が何人かいて、「紙で出さずにデータでよこせ」と言って、僕が直接削ったこともあった。

松崎 怖い(笑)。でも言い返すからね。ただ、「このネタにはこの字数」という格みたいなものがあるとは思う。

大島 00年代はどのように位置付けられる?

―紙面的にも技術的にも、今につながる過渡期の時代かなと。

松崎 たしかに技術革新はいくつかあった。

大島 スマホはないけどガラケーがほぼ行き渡るころ。

松崎 メールはきちんとした環境でパソコンを開かないと見られなかった。

大島 メーリングリストはすごく便利だなと思った。

―京大新聞で使っていた。

松崎 うん。おそらく私たちのころから使いはじめた。

大島 無駄話を投稿する人がいて、運用ルールをつくった。

松崎 今から思えば、半分便利で半分不便な時代。Amazonが普及したのもそのころ。入学当初は洋書を買うサイトというイメージだった。そのうち普段の買い物もできるようになった。

大島 画期的だったね。

―ニュースを見る手段は。

大島 パソコンを立ち上げるとヤフーニュースが出てくるから、それを読む人が増えた。ただ、画像ですら読み込み中に止まってしまうこともあった。

松崎 動画はほぼ見られなくて、テレビの優位性があった。あと、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)も普及した。今のように自分で撮って発信する段階の手前。

大島 今の京大新聞は?

―ホームページに記事を載せてXで宣伝している。

大島 SNSは、目的が定まらないならやらなくていいと思う。無益な競争に巻き込まれる。

松崎 Xで見出しを流すだけでも、読む人はそれを見て買える。

大島 俺は京大新聞は雑誌の一種だと思う。速報性はないし。

松崎 ニュースも含め、特集的な書き方をせざるを得ない。

―最後に一言。

大島 中日新聞、就職先におすすめです。〈了〉

※1 05年12月、京大アメフト部員3名が酒に酔った女子大生に性的暴行を加えたとして逮捕・起訴され、3名とも有罪・放学処分となった。

※2 04年、百万遍に面した石垣を「バリアフリーや交通安全」のために撤去するという大学の計画に対し、立て看板を置けなくなるとして学生有志が反発。石垣の上でカフェを「営業」した。折衝を経て工事計画が修正され、今も残る小道が完成した。

※3 62年から実施されている7大学(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)対抗の運動部の大会。

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拾い読み⑬ 文化記事が少なめ 1999〜2000年の紙面


今回は99年1月から2000年12月までの紙面から、一部要約しつつ記述を抜粋する。この2年間は合併や欠号を挟みながら38号を発行した。書評や映画評などの文化系の記事は少なく、ニュースやインタビューが中心となっている。


1999年


新聞社▼京大新聞入って嬉しいな:先輩たちの冷たい視線▼自社ホームページ公開→晴耕雨眠(編集員コラム):構想2年、実働3日でホームページ作成が出来上がった/これからの更新の手間を考えるとぞっとしなくもない▼編集部より:発行が諸般の事情で遅れている▼社告:口笛と軍靴 時事▼和歌山カレー毒物混入事件と報道:弁護士批判から見えるもの→肖像権侵害、偏った報道姿勢を指摘▼追い詰められる弁護士業:安田氏逮捕に見られる翼賛体制▼湾岸ストーキング:中川喜与志氏/いくつかの報道されなかったことの意味▼複眼時評(教員コラム):廃棄物と環境保全/真島敏行 教育研究▼性差別防止のガイドライン:総人・人環が共同作成▼児童問題シンポ:虐待防止ネットワークへ▼京大に負けない選択肢:アメリカの一流大▼退官教授インタビュー:河野昭一氏▼合格者名簿▼書評:非西欧的視点から読むハンチントン▼法・セメスター導入か▼生命科学研究科誕生▼同床異夢:国民国家の概念は克服されうるのか▼京大病院で初の脳死移植:全国で3例目▼京大病院、世界初のドミノ・分割肝移植▼これからの男性問題:伊藤公雄氏に聞く▼反原発学習会、原子炉研と総長に申し入れ書▼理・教授会が声明:独法化に募る危機感 大学運営▼特集・大学改革って何?:教員インタビュー▼西部構内放置車両を撤去:見えない解決策▼文・旧館取り壊しへ▼授業料スライド制へ→慣例では2年おきに授業料改定、在学生も値上げへ▼副学長との団交へ:桂に工学研究科移転計画→解説:迅速だが拙速、不十分な合意形成▼桂移転、白紙に:臨時評議会が中止→両副学長が辞表▼総人A号館一部取り壊しか▼新副学長に聞く:将来構想計画の行方「早急の決定が必要」▼情報学研究科も移転か▼独立行政法人問題:設置形態検討会を設置▼桂キャンパス取得:評議会決定、不十分な情報公開▼同床異夢:国立大学の法人化問題→迫られた外からの改革、効率重視/大学教員には、少しは政治的空間に身を置いていることを自覚してほしい▼吉田寮団交:副学長、情報公開を約束▼この一冊:『科学』独立行政法人化を「読む」→数少ない大学からの発言▼新キャンパス、化学系・電気系研究棟、管理棟を建設:政府補正予算に126億円→具体的な移設計画、新委員会で審議▼入試合格者、氏名発表を中止へ:プライバシーに配慮▼桂キャンパス「説明会」、代替地売却を示唆:ワーキンググループは解散▼京大と盗聴法、総合情報メディアセンターへ質問状:「現段階では回答できず」 学生▼編集職バイト体験記▼特集:院生の苦悩→相談機関に訴え急増/常に教官の顔色をうかがう▼寺原物語:「いか京」脱出プロジェクト▼吉田寮物語第1回→寮の百周年記念、1年にわたり連載へ▼学部自治会有志の大学点検ツアー:本当にバリアフリー?▼サークルスポット:吉音/将棋部▼編集員座談会:超氷河期でさむいさむい▼A号館使用問題で学生有志が会議→深夜使用禁止の張り紙めぐり▼七大戦、京大優勝▼不況でバイト不足、相変わらず▼西部ぶらぶら:劇団魚人帝国▼アジア太平洋学生フォーラムビラ配り:東ティモールの現状を報告▼NF企画紹介→対談:フェミニズムを半分だけ離れて(加藤秀一×岡真理)/映画上映「映像の力1999」/講演会:2000年問題→福山哲郎ほか▼NF企画紹介→模擬裁判「巨額融資、ある頭取の決断」/講演会「ユーロと国際通貨システム」▼体験ルポ・ゴミから見る11月祭→環境対策委員会の活動に参加/ゴミを6種類に分別 文化▼複眼時評:朝日昇とプロレス的世界▼吉村浩一氏寄稿:文学賞受賞者▼チャイナに行っチャイナ▼書評:くたばれ!チープなウェブサイト/メディアを使った市民的実践▼音楽・批評:京大交響楽団定期演奏会を聴いて/國重裕・博士学生▼こくばん:アリが嫌い▼書評:性同一障害はオモシロイ/顔学への招待/新京都文学散歩『占星術殺人事件』/「家族が自殺に追い込まれるとき」「一人の男が飛行機から飛び降りる」▼こくばん:喫茶店で喫煙、隣席から「煙い」と言われた 広告▼センターリサーチ→代々木42万人、河合40万人、駿台進研41万人▼テレホンイン山城屋→電話加入権が安く手に入る!▼下宿情報センター▼通産省認定・情報処理技術者試験▼平安会館

99年9月16日号



2000年


新聞社▼京大新聞主催講演会「移植医療が死をつくる~狙われるあなたの臓器~」 時事▼TOPIC:東山通で電線地中化▼インタビュー・吉岡斉氏:民主的な科学技術政策→「外に開かれた政策論争を」▼記憶か、最終解決か:ドイツ強制労働補償基金/文3回生寄稿▼新連載・京大のゴミはどこへいく:自家処理の意義と困難→環境保全センター教授インタビュー▼大川興業総裁インタビュー→「バカ」のできるやつになれ▼卒業者就職先一覧 教育研究▼ネットで休講情報、全学共通科目のみ運用▼医・入試改革、生物が必修へ▼京大病院、3例目のドミノ肝移植:慶応大学病院と協力▼工・院試にTOEIC:導入課程に疑問▼新入生歓迎教官インタビュー:高月紘教授→「学生は環境にやさしくない」/新宮一成教授→「病んだ精神も統合した人間像を」▼人文研改組へ:5大部門制へ再編▼生態研で死亡事故:求められる安全対策→メキシコで9名を載せたボートが転覆、2教授が死亡、1助教授が行方不明▼全学共通科目、朝鮮語講座を開講:5学部で卒業単位算入▼総合人間学部が見解:独法化への懸念強く→「よりよい姿探る出発点に」▼総人、教官が学生宅を訪問:保護者から学部宛に子の安否尋ねる手紙→授業出ず単位ほぼ未取得が判明▼退官教員インタビュー:生態学研・田端英雄助教授→林業で里山を取り戻したい/柴田光蔵教授→ローマ法から現代を斬る▼複眼時評:フィールドワークの醍醐味/山極壽一氏→満喫するには、自己管理能力・観察能力・記録能力・考える能力・語る能力が不可欠▼インタビュー・小田実さん:戦争主義から平和主義の世界へ 大学運営▼時計台2階に「日の丸」揚がる:学生は監視継続→皇太后崩御に際して通知、宮崎副学長「(政府・文部省と)いらんけんかはしたくない」▼ホントに木を切る気?:総人のメタセコイア、伐採の危機▼医・職員、寄付など3千万横領で逮捕▼運営諮問会議が発足▼学生スペース削減か・経済地下に法・演習室:経・同好会、学生無視の計画を批判→学部長、図面開示を拒否▼京大助手が中学生へのわいせつで逮捕→警察入構の際は全学自治会同学会が立ち会うが、今回は連絡が直前で同行せず▼京大病院、医療ミスで患者死亡:問われる管理体制→人工呼吸の加温加湿器に誤って消毒用エタノール▼工・教授が出張費を二重受給:5年で35万円▼桂キャンパス03年移転開始:来年より建設着工、他分野との交流重視→赤岡副学長に課題を問う/地元の反応「全面的に歓迎」も環境・騒音に不安▼事務局移転問題、新管理棟計画浮上:学生立入を大幅制限▼大学コンソーシアム京都、京大も加盟へ:他大学との単位互換や社会人向け講座は行わず▼民族学校出身受験資格、学部受験認めず:公開質問状・総長、事実上回答を拒否 学生▼NF講演会特集→本格ミステリの魅惑(綾辻行人氏)/動物行動学の現在/実名報道/正義とケア▼インタビュー・京大医学部卒のプロボクサー「若いうちの苦労は買ってでもしろ」▼サークル特集→相撲部/フェンシング部/ESS/環境ネットワーク4Rの会/アニメーション同好会ほか▼京大におけるセクハラ防止パンフ→あいまいな責任の所在▼新入生アンケート:入学理由「学風が合いそう」30%▼大学生入門→競馬:お金をスッてなんぼ/家庭教師:勉強3割に子守りが7割?▼同棲白書:カップルの1日に編集員が密着/「一緒にいるのが自然」「結婚しか考えられない」▼ここでしか学べなかったもの→元寮生の京都市職員が語る▼山仕事サークル・杉良太郎▼祭りを学生の手に:北部祭 文化▼展覧会・京大俳句の光芒:困難な時代に自由求めて▼本紹介「キャンパス・セクハラ」▼免許を取ったらアウトレットへ!:ミレニアム教習所体験▼書評:『戦闘美少女の精神分析』『世俗宗教としてのナチズム』

2000年6月16日号



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