企画

【総集編】京大新聞の百年 13の観点から考察する本紙の特徴

2025.04.01

編集部では創刊100年の歴史を振り返るべく、「京大新聞の百年」と題した紙面連載を2023年10月から21回にわたって掲載してきた。節目の今号は総集編と題し、これまでの掲載内容をふまえ、13個の観点から京大新聞の特徴を改めて整理する。なお、本稿は、連載を主導してきた(村)が京大文学研究科の大学院生として執筆した修士論文「『京都大学新聞』はいかにして100年続いてきたのか」(2025)の内容を一部再構成したものである。基本資料として『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』(1990・草思社)も参照している。(編集部)

目次

①媒体名 4つの名称が示す性格
②発行者 母体の変化と編集の独立
③媒体 紙で出すことへのこだわり
④頒布 頻度は増減、かつて週刊も
⑤全国性 マスコミかミニコミか
⑥一般紙 一般紙との距離感に変化
⑦指針 受け継がれる「アカンベエ」
⑧主張 「プロパガンダ紙」なのか
⑨他媒体 独自性を意識
⑩財政 副業で独立採算を死守
⑪人数 人不足を技術革新で打開
⑫拠点 居場所としてのボックス
⑬対大学 批判しつつも協力得る

①媒体名 4つの名称が示す性格


本紙は100年間で4つの名称を冠している。創刊当初は『京都帝国大学新聞』。1944年3月に紙不足に伴い休刊すると、同年7月からは東大新聞と合同で『大学新聞』に参画した。1946年4月からは分離して『学園新聞』を発行し、1959年11月から『京都大学新聞』に改題し現在に至る。

戦後、『学園新聞』と命名した背景には、用紙配給の申請で京大単独での新聞発行が許可されず、関西一円の大学を対象とすることが条件になったという経緯がある。東大の『大学新聞』との区別を念頭に『学園』と名付けたという。実際、関西の複数の大学で配布し、紙面には他大学のニュースも載った。しかし、しだいに「関西一円」の理念は有名無実化していく。1948年時点で、他大学で復刊が相次ぎ、新規の用紙割当を求める大学新聞が三十余紙に及んでいたという。このとき、東大新聞が割り当て総量の55%にあたる用紙を受け取っていたことから、GHQが是正を勧告し、学生数に比例した配当に変更された。こうして関西でも様々な大学で新聞が整備されていく。『学園新聞』はこの動きに呼応し、1959年の通算千号をもって『京都大学新聞』に改題した。卒業した先輩諸氏にアンケートをとったうえでの決断だった。一部からは「学園新聞の高き理想を忘れたのか」といった批判が出たものの、「改題やむなし」の声が大勢を占めたという。

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②発行者 母体の変化と編集の独立


発行主体は、創刊から44年3月の休刊までは「学友会新聞部」、1944年7月から1946年4月までは「大学新聞社」(関西支社)、1946年4月からは「京都大学新聞社」となっている。一貫して学生が主体となって発行しているが、学生以外の関与という点には変化が見られる。

◆全学組織の一部だった戦前


創刊時は学友会の雑誌部が改組されて発足した新聞部だった。当時の学友会は、学生代表に加えて各学部2人の教官が役員として参加したほか、会長として総長、幹事として現在の学生担当理事にあたる学生監も名を連ねていた。また、新聞部には法令上の責任者として元読売新聞社員の入山雄一氏が招かれたほか、法学部教授が新聞部長に就任した。入山氏はこのあと約半世紀にわたって京大新聞の存続に力を注ぐことになる。

◆戦時中の苦悩


戦局の悪化に伴い、43年10月以降、編集員も召集を受けるようになった。東大新聞との『大学新聞』には、徴兵の体格検査で不合格となった部員2名と入山氏が編集にあたったという。

◆京都の大学新聞から京都大学の新聞へ


終戦後の46年春、学友会時代の機関紙的な側面が拭えないもどかしさから脱却するべく、「京都大学新聞社」を発足させた。この時点で媒体名は『学園新聞』で、大学の名前は「京都帝国大学」だったが、「京都の大学新聞社」という意味合いでそう名付けた。47年10月に大学名が「京都大学」に変わり、紙面の内実も「京大新聞」になったことで、「京都大学新聞社」は名実ともに「京都大学の新聞社」となった。

59年までの『学園新聞』時代は、他大学に通信員を置くなど構成員に幅が見られたが、『京都大学新聞』への改題に伴って自然消滅的に通信員がいなくなった。

◆顧問と事務員


100年にわたる存続にとって、学生編集員以外の構成員の尽力も大きい。創刊当初の発行人として法令上の矢面に立った入山氏は、30年以上にわたって顧問として学生の新聞制作を見守った。言論統制への抗議のために部員が総退部した後や、長期休暇で学生が帰省する時期など、一時的に入山氏がひとりで編集する号もあった。「灯を消してはならない」という信念で新聞社を離れず、常任顧問を退く1955年まで毎日、部室を訪れたという。退任後も、部員の依頼を受けて銀行から数十万円借りるなど面倒を見続けた。

また、事務員の貢献も指摘すべきである。京大新聞の卒業生に団体存続の要因を聞くと、たびたびその存在の大きさが言及される。紙面編集には関与せず、郵送のための事務作業などを担っているほか、会食や部室での雑談を通して作業に没頭する編集員の気分を和らげたり、就職先を検討する編集員に卒業生を紹介したりと、実務面・精神面で編集部を支えている。紙面連載「京大新聞の百年」のために活用した京大新聞社の卒業生名簿が、単なる名前一覧と化すことなく、連絡先も含めて活用できる状態で保たれているのは、勤続する事務員の存在によるところが大きい。歴代在籍者にとって、京大新聞との心理的なつながりを維持させる一因となっており、それが団体の基盤を強固にしている。

◆公認団体としての立場


京都大学新聞社は1950年に京都大学の公認団体となった。言い換えれば、46年に発足してから約4年間は完全に独立した団体だった。公認化のきっかけは、医学部附属病院での実習で労働搾取が行われているとするルポ記事だ。記事を見た学生らによる抗議行動が警官隊の入構に発展する騒動となり、一部の教官から「偏向報道」との批判が出たほか、大学の公認なく学内で活動することを疑問視する声が上がり、京大新聞社の解体論まで浮上した。これらをふまえ、大学当局との交渉の末、50年1月23日に大学の公認団体として認可を受けた。

ただし、「新聞の自由は絶対に守らなければいけません。でないと、独立採算制の新聞社をつくった意味がありません」という入山氏の助言のとおり、編集権の独立を堅持したうえで大学の公認を取り付けている。公認化の完了を報告する記事では、「学内団体になったからといって弾圧するものではない、編集権の自由は社規にも明確にされている」とする学生課長の談話を掲載している。監督権を握りたい大学側と幾度となく交渉を重ね、教員らが顧問団となることで折り合ったという。現在も他の公認団体と同様に顧問を置いているが、顧問は編集に関与せず、ときどき寄稿や会食を通して激励を受けるのみだ。

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③媒体 紙で出すことへのこだわり


紙で発行することは、100年間一貫している点として指摘できる。特に00年代以降、学内外でウェブメディアが登場し、一部の大学新聞ではウェブ媒体に絞った例もある。一方、京大新聞は頻度や印刷会社こそ変わっているものの、紙面発行を続けている。

在籍者への聞き取り取材では、団体存続の一因として紙面の見た目に着目する声もあった。入社の動機を尋ねると、入学当初に新入生向けに配られた新聞を見て「本格的」という印象を受けて興味を持ったと語る者が複数名いた。紙面の外見が、構成員や読者に伝統を感じさせ、途絶えさせてはならないと思わせる遠因として機能していることがうかがえる。

連載第14回で取材した日本印刷技術協会の藤井建人・シニアフェローは紙媒体について、「紙のいいところは信頼性と物体性。ひとたび発行してしまうと修正がきかないから、何回も校正して印刷される。それで出たものは信頼性が高いという認識を持たれているということは、各種の調査でも明らかになっている」とその利点を指摘している。このほかウェブ発信と並行してきた世代の在籍者は紙の利点について次のように述べている。▼08年入学の加藤氏「記録性や保存性で紙に勝るものは現状ないと思う。紙ならば図書館などに残る。「紙面を埋める」という意識を持つことで、一定量を定期発信する動機付けにもなる」▼12年入学の(築)氏「ウェブは検索した人しか見ないし、新歓で配ったりできる紙媒体は知ってもらう機会という観点で重要」「販売ボックスのように偶然知る可能性のある手段がなくなると、認知度がさらに下がると思う」▼15年入学の(鹿)氏「掃除中にたまたま見つけて読んだりする。寿命は紙のほうが長い」

一方で、同じく加藤氏は「近過去のことほど、本にはなっていなくて、かつ実際に経験した人が身近にいない場合がある」としたうえで、そういった情報を調べられるという観点から、「京大新聞のサイトは、00年代の記事から閲覧可能になっている点は素晴らしい」と述べるほか、(易)氏はアニメ評の記事がネット上で反響を得た事例にふれたうえで「ウェブのほうがたくさんの人に読んでもらえる」と指摘している。また、06年入学の中川氏は「ネットの活用で紙の新聞が読まれなくなる懸念よりも、京大新聞を知ってもらって存在感を高めることに重きを置いていた。それによって取材がスムーズになることも期待できる」との考えでウェブサイトを整備したと振り返っている。紙のメリットを活かしつつ、それだけに固執せずに時代に合わせてウェブ媒体を取り入れてきたことも、本紙の歴史において重要な側面だと言える。(=6面に関連記事)

◆紙媒体に未来はあるか


物価高や技術革新などにより、将来的に紙媒体の維持が難しくなる可能性は否定できない。紙面連載第14回での取材で、創業160年の印刷会社を営む中西印刷・中西秀彦社長は「情報媒体としての領域で紙の新聞を存続させるのは正直かなり難しいと思う」と述べている。

戦時中の紙不足に際しては、やはり入山氏の存在が大きかった。『アカンベエ!』では、終戦後の復刊に向け、入山氏が奔走して印刷所などと掛け合った旨が記されている。

戦時下で一時合併により命脈をつなぐことができたという意味で、東大の『帝国大学新聞』の存在も大きい。また、戦後から70年代にかけては、100を超える大学新聞が加盟する全日本学生新聞連盟(全学新)が存在し、その集会の様子はたびたび紙面に記された。そのような協力や交流をもたらし合える関係性も、団体にとって助けや励みになったと言える。

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④頒布 頻度は増減、かつて週刊も


学内の学生や教職員を主な読者とする点は一貫しているが、発行頻度や頒布方法は変わっている。

創刊当初は1部5銭で定期購読も受け付け、教官と学生には無料配布していた。戦時中の『大学新聞』時代は、出陣・動員学徒以外からは個人の直接購読を受け付けず、京大に2千部、神戸大に600部、大阪大に200部配布したという。戦後は独立採算制を志向し、学内の無人販売ボックスに設置したほか全国各地の書店で販売した。「関西一円」を理念とした『学園新聞』時代は、京阪神の女子専門学校に毎号数百部行き渡らせていた。その後、『京都大学新聞』に改題して学内中心の頒布が定着した。学部1回生が宇治分校(61年統合廃止)に通っていた時代は、特に重宝されたという。59年入学の祖田氏は「分校生のほとんどは、お金がなくて一般紙を取らないし、安価な学園新聞は唯一の情報源。宇治でよく売れた」と振り返っている。

学生運動が盛んだった1970年ごろには、運動の逮捕者らを支援する「救援連絡センター」に新聞を千部単位で納品しており、編集部に全国紙であるという意識をもたらしていたという。

発行頻度は、創刊から1年間は月2回(1日・15日)、26年からは月3回(1日、11日、21日)だった。29年4月からは週刊に移行したが、部長の辞任などの混乱があり、ペースを保ったのは同年6月までで、同10月の紙面で「当分月二回発行の事とする」と宣言した。同欄で「第二段、第三段の発展として旬刊から週刊へ」と宣言しているとおり、その後は余力が生まれれば発行回数を増やし、厳しくなれば戻すという流れを繰り返している。35年4月からは月3回に増やし、36年4月からは月2回に戻した。44年3月をもって休刊したのち、44年7月から46年4月まで続いた『大学新聞』は月3回発行した。同月開始の『学園新聞』は月3回発行で出発したが、47年6月から週刊に増やした。ここから週刊時代が続き、75年5月19日号で休刊を宣言するまで維持した。再開後の75年9月からは月2回に変更し、現在まで続いている。

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⑤全国性 マスコミかミニコミか


『学園新聞』からの改題を経て京大中心の新聞になったあと、学生運動の全国化に伴って全国紙的な性格を帯びた。68年入学の吉澤氏は「編集部として、京大ではなくて全国の学生の新聞だと意識するようになった。1面に京大の話題は出すなと言われるほど」と述べ、67年入学の宮崎氏は「下手な記事を書いたら全国から批判が来るという緊張感があった」と振り返っている。

その後、75年に休刊から復活した際の紙面について72年入学の浪岡氏は「闘争全盛期の意味での全国性は落とした。学内新聞という原点をふまえつつ」と述べている。一方、75年入学の橋本氏は「直接的には京大に関係ないように見えるテーマでも、成田や伊方原発、水俣など全国の人たちが京大生とのネットワークを持っていて、学生が出向いたり現地の人が京大に来たりしていた。そこに、学生の正義感や、社会の関心を引きつけるものがある」と述べている。京大に限らず幅広く話題を求めて取材に出向く方向性は、集会記事などに反映されている。

また、88年入学の大畑氏は「社会問題を取り上げながらも、学内のネタとしてつながっていることを取り上げるというのは、学生新聞の伝統だ」と述べている。00年代に入ると、全国紙性の認識が弱まっていく。07年入学の峰村氏は連載用通史で、「マスコミとして網羅性や社会一般の重要度を考慮した編集を行うのか、あるいはミニコミ的に編集部員の興味をもとに深掘りした企画を目指すのか、その葛藤が紙面にも表れていくことになった」と描写したうえで、葛藤が功を奏した例としてiPS細胞の研究に関する取材を挙げ、世間で大々的に知られていく動きより前に、編集員の個人的な興味からインタビューなどを実施していたと説明している。

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⑥一般紙 一般紙との距離感に変化


一般紙との距離感にも年代ごとの差が見える。『学園新聞』は51年5月14日号で、「5月から新聞用紙に対する数量価格の統制撤廃が実施された」と切り出したうえで「大新聞が巨大な資本力を利して絶大の支配を行う」と指摘し、「地方紙や非日刊紙に脅威を与える」と危惧している。また、『京都大学新聞』78年10月16日号では朝日新聞などの新聞を「必ず規制権力に依存して報道するという逃げ道を持っている」と批判している。「69年の逆バリケードを天声人語で京大方式として賛美したことに典型的にみられるけれど、一見進歩派をきどっていながら、決定的な局面で大反動に回った」と述べ、京大当局が実力行使によって学生運動の制御を図った事案を持ち出して批判している。

戦前から戦後すぐにかけては、入山が記者クラブに出入りしていたこともあって、編集部と各紙の記者との関係性は良好だった。実際、学内の言論統制に抗って退部した学生が毎日新聞の枠をもらって紙面をつくったり、入山の紹介で各紙の就職先を紹介してもらったりしていたという。

一方、79年の1800号記念紙面では一般紙各紙から広告の出稿を得ている。これについて75年入学の橋本氏は「当時の一般紙は、60年安保のときに7社共同宣言を出したりと学生運動を批判する論調だったから、広告を見た同学会の人に『おまえら筋はないのか』と嫌みを言われた。でも、お金も大事」と述べている。ある意味で変化したと言えるマスコミへの姿勢が、編集員たちの就職状況にも現れており、60年代在籍者から新聞社に就職した者はほぼおらず、70年代中盤から徐々に増えている。

大学記者クラブには、長らく加盟しておらず、91年入学の(は)氏は「入れてもらおうとも思わなかった」と振り返る。「大本営発表ではなく、独自にネタを探そうという感覚があった」という。結局、その数年後に加盟した。その判断について00年入学の大島氏は「先輩方の感覚は、豊富な情報網があったからこそだと思う。僕らのころは、情報を得る選択肢として記者クラブと付き合ってもいいよねという感覚」と述べている。一方、00年代後半以降になると、編集員の意識がインターネットへと向いていく。進路にもそれが反映されていて、あくまで名簿から分かる範囲のデータだが、01~10年卒(90年代後半〜00年代前半ごろ入学)の32名のうち13名がテレビ局や新聞社などに就職したのに対し、11~20年卒(00年代後半〜10年代前半ごろ入学)の35名からそれらの業界に就職した者は1名のみとなっている。

かつてと比べて情報を得る手段が多様化していくなかで、他媒体、とりわけ一般紙との差別化が意識されるようになったことがうかがえる。たとえば13年入学の(通)氏は「ボックスで一般紙3紙を購読していて、それと同じ記事を書いても仕方ないという感覚があった」と語っている。その発言の意図を補足するとすれば、一般紙が取り上げるような地域全体あるいは日本全体に影響する話題を手広く追うことよりも、一般紙(さらに言えば無数のネット情報)では扱われなかったり扱いが小さかったりする身近な学内の話題を、意義があると判断すれば紙幅を惜しまず詳報するという方針が優先されてきたと言える。

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⑦指針 受け継がれる「アカンベエ」


◆戦前に育まれた土壌


「京大新聞」には明文化された編集方針や社訓はない。紙面内容を見ても、100年間を通して一貫しているとは言えない。一方、書籍『権力にアカンベエ!』や紙面連載での聞き取り取材の発言をふまえると、構成員の間で何らかの「京大新聞らしさ」が共有されていることがうかがえる。

創刊当初は「不偏不党」「大学の関係者間に連絡を保つ」との方針のもと、スポーツや学内行事の記事や教官のエッセイなどが載っていた。その後、1926年1月にかけて社会科学研究会の集会をめぐり治安維持法がはじめて適用され、数十名の学生が検挙されるという「京都学連事件」が発生した際に、それまで学生編集員の意見を載せることさえなかった紙面で主張を掲載した。「わけのわからぬ本学学生不当検束事件」との見出しをつけ、「可なり突き進んだ研究がなされて居るが、これは研究機関たる大学として当然」と指摘している。これ以降、徐々に紙面で編集部としての見解を打ち出すようになり、新聞紙法への抵触を危惧する大学当局から釘を刺されることもしばしばあったという。特に教官が就任していた新聞部長は、一部の事案に対して報道差し止めを命じたり部員の学生を辞めさせたりと、ときに強硬的とも言える権限を振るうことがあった。一方、法令上の責任者であり顧問として新聞制作を見守った入山氏は、編集方針に口を出すことはなかったという。特に戦前は特高警察が監視の目を光らせており、各号の発行に際して事前検閲があったとされている。それらの言論統制のたびに入山氏が盾となっていた。『権力にアカンベエ!』に次のような記述があり、その雰囲気を物語っている。

特高警察は発行・編集人である入山に以前(引用者注:1933年の滝川事件以前)に増して頻繁に接触を求め、府警に呼びつけた。事前検閲をするたびに、「あの執筆者は好ましくない」「こんな記事を載せるなら発禁だ」などと、脅しをかけられる。入山は苦々しく思いながらも、持ち前のソフトな微笑で頭を下げた。しかし、そのじつ屈することなく、左翼とマークされている人にも、ひそかに稿料前渡しで原稿を頼んだりした。(文・長沼節夫)

明文化された方針ではないものの、書籍のタイトルになっている「権力にアカンベエ」という感覚は、京大新聞の雰囲気を表す言葉のひとつとして挙げられる。由来は、1930年ごろに編集部で集合写真を撮った際に入山氏が「ファシズムを笑い飛ばせ」と呼びかけ、部員が舌を出して写真に収まったというエピソードだ。権力に迎合せず公正な報道を志すという意味合いが反映されている。

◆戦時下でゆらぐ軸


その後、「権力にアカンベエ」にそぐわない内容が紙面に載る時期もあった。特に『大学新聞』時代は、「戦争の鼓舞」の名目で用紙配給を得ており、それが編集方針に影響していた。たとえば1944〜45年の紙面で、「強化さる学徒勤労動員」という記事に「全てを捧げ生産船に挺身せよ」という見出しをつけているほか、東大教官の「先ず自己の生命にも優れる尊きものを求めなければならぬ。(中略)皇国を愛護し、国体を擁護するというがごときがそれであろう」といったコラムを掲載。社説では「我々は断じてこの大御戦に勝ち抜かねばならぬ」などと訴えている。

こうした雰囲気は『大学新聞』に合流する前の『京都帝国大学新聞』でも見られる。『権力にアカンベエ!』では「論文などに出てくる顔ぶれは(中略)比較的リベラルな人たちが連なり、当時の学生編集員たちの心意気がうかがえる」と記しているものの、43年の紙面では「入隊の真義を自覚せよ」という記事や学生課長の「国家の要請に応えよ」という談話を載せている。また、『アカンベエ!』によれば当時、編集部に「軍部や特高の思想や口調をまねる者」もいたという。編集員のコラムに「戦わんとする意欲がうちに深く根ざしている」といった記述があることなどもふまえると、一定数の構成員が主体的に「戦争の鼓舞」に参画していたことがうかがえる。「アカンベエ」の矛先が敵国に向いていたとも言えるかもしれない。

◆受け継がれる批判精神


『学園新聞』時代はどうだったのか。53年入学の芦田氏は、文化的な運動が盛んになっていく時期だったと振り返ったうえで「『権力にアカンベエ』は戦前の感覚で、それとは少し違ったかもしれない」と述べている。一方、59年入学の緒林氏は「過度な一般化はよくないけど、僕らの世代の人生観として一本貫かれているものだと思う」と述べている。その後も、「アカンベエ」的な感覚は受け継がれる。75年入学の篠田氏は「受け継がれてきた批判精神は絶対に捨ててはいけないという意識があった」と述べ、87年入学の森氏は「無批判に大学の言うことを受け入れるあり方には疑問を持つ」、06年入学の中川氏は「権力を批判的に捉えることが大事という認識があった」などと述べている。

一方、75年入学の篠田氏は「闘争ネタばかりでは立ち行かないし、ソフトな方向にブランディングした」とも述べており、87年入学の森氏は「政治的にどうこう言う人が少なかった」、88年入学の大畑氏は「政治運動の色が濃すぎるのは私は抵抗があって、そうならないようにしていた」と述べている。00年代以降では、03年入学の典略氏が「学生自治を重視する立場と強硬な反対運動に疑問を持って折り合いをつけるべきという立場とで主張がぶつかった」と振り返っている。

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⑧主張 「プロパガンダ紙」なのか


京都大学の『百二十五年史』の編纂に携わった西山伸教授は、連載第13回に寄稿し、史書編纂の作業で「京大新聞」を活用したと述べたうえで、次のように記した。

[1960年代半ば]以後は「京大新聞」をみても大学でどんな出来事があったのかはほぼ分からず、党派色の強い記事がどんどん目立つようになる。よくいえばオピニオン紙、悪くいえばプロパガンダ紙にみえる(後略)。いつの頃からか、また変化しているように感じられる。筆者のように「辺境」の部局にいる者には、大学で何が起こっているのかよく分からない。それを知ることができるのが最近の「京大新聞」である。

ある時期から「党派色の強い記事」が減り、「プロパガンダ紙」的ではなくなったとすれば、それはいつからだろうか。

政党色もありつつ


54年入学の梶氏は「(編集部に)政治団体が人を送り込もうとする動きもあった」と振り返っている。「党派色」を政党色と捉えれば、たとえば共産主義の村を「天国」と表現するルポ(53年10月12日号)や、共産党員の文責の寄稿(50年2月20日号)などがそれにあたるだろう。一方、梶氏は続けて「そういう思想に関係なく自由な雰囲気でやっていた」とも述べているほか、53年入学の吉田氏は「どこにも属さないという『学園イズム』が確立したのが僕らのころ」と振り返っている。実際、たとえば52年の紙面で「5大政党」の代表者に質問を送って回答を掲載するなど、特定の見解を強調する「プロパガンダ紙」ではなく複数の意見を並べる「オピニオン紙」的であろうとする姿勢がうかがえる。同号の社説では体制批判的な視線もにじませつつ、「選挙へ行こう」と呼びかけている。この例で断じるべきではないが、主張を抱えつつ多角的に報じようとする姿勢があったと言えるだろう。

学生運動に呼応


60年4月18日号には、安保法案の改定に際し、ストライキを提起する社説を掲載した。これは、意見の割れる事象に明確な主張を示した「プロパガンダ紙」的な例と言える。ただし、主張表明をめぐって編集部で激しい議論が繰り広げられたという。『アカンベエ!』では、57年にもあったストライキ提起をめぐる編集部でのやりとりとして、「意思表示を避けるのか」「みんなが悩んでいる。われわれの討論結果を知らさねば」といった発言が記されている。このときはストライキ回避を紙面で主張するが、スト実施派に理解を示す記述もあり、双方の考えを盛り込もうとしていると言える。

一方、60年代後半になると、学生運動の盛り上がりに呼応するように、関連の話題が紙面を埋めるようになる。69年には、大半の記事の見出しに「学園闘争」や「反安保」といった言葉が含まれる。

この時期の編集方針と読者の感覚を示す記事として、66年7月25日号の「本紙に対する意見に答えて」がある。まず、読者アンケートで「中立、公正であれ」といった声が寄せられていると明かし、「学内で唯一つのマス・メディアとしての役割と、あくまで、学生自身の立場から、学生の利益代表としての見解を率直に主張しつづけてきた」、「可能な限り中立、客観的であれというならば、我々は行動者、思索者としての意味を失うであろう」と釈明している。また、「一部の左翼の機関紙」との批判に対し、「現実の社会における矛盾や虚偽または法則性などを媒介とすることから必然的なこと」、「学生団体の活動としては、やもう得ない(原文ママ)」とも述べ、一部の意見のみに加担する側面があることを認めている。

総括の行き詰まり


学生運動が峠を越えると、京大新聞社として総括を試みるようになった。その過程で70年には、編集部で続いてきた編集長制を廃止している。理由として67年入学の宮崎氏は「大学や教授の権威、そしてそれらがつくる構造の権威。そういうものをつぶそうとして大学闘争をやっている自分たちが、権威主義的な体制を抱えているというのはいかがなものかと議論になった」と振り返る。

このように運動の総括を団体運営に反映することを試みたものの、他方で「取材と言って新入生をいきなり闘争の現場へ連れ回す」、「一緒にデモをやりながら記事を書く」(72年入学の浪岡氏)といった雰囲気は残っており、新編集員がなかなか定着しなかった。また、紙面で主張を展開する側面も維持された。「反軍闘争の展開を、帝国主義ブルジョワジーの心臓部に打ち込んでいかねばならない」といった表現は、この時期の紙面にいくつも見つかる。

休刊を経て色が変化


人員確保や資金繰りで行き詰まり、75年5月に「ここらでギブアップ」(浪岡氏)と判断して休刊を宣言した。3か月の充電期間を経て復刊するにあたって75年入学の篠田氏は、「それ以前のやり方が行き詰まっていたから、学生に受け入れられるあり方を模索した」と回顧する。72年入学の岸根氏はその一例として社説を控えたと述べ、その他の記事でも「なかには思想的に偏向している編集員もいて、党派に取材してきたと言って運動の記事を書こうとするんだけど、私がボツにしたね。そんなの京大新聞に載せるのはおかしいやろって」と振り返っている。70年代を京大新聞社外で過ごしたのち80年に入社した蜷川氏は、休刊前に「確かにレッテルがあった」としつつ、「休刊後はノンセクト的な色」とその印象の変化を語り、「100年近く続いているのは、あそこでなんとか踏みとどまって色が変わったことも影響したんじゃないかな」と考察した。浪岡氏はこれに呼応し、「全体としては『権力にアカンベエ』という思考の人が集まるんだけど、新左翼的な政治性からは脱却した」と述べた。実際、70年代半ば以降は、「闘争」などの見出しが躍ることは減った。一方、75年入学の阿形氏が印象に残る記事として「三里塚開港阻止闘争」を挙げるなど、名残はみられる。

復刊後の手応えについて橋本氏は、「紙面を見て、特に親御さんがびっくりしていたのではないか。こんなに学生運動をフォローするのかと。69年以前よりもソフトになっていたのに」と語り、読者との認識に乖離があったことをうかがわせ、篠田氏が「世間はもっとソフトに、ということだったんだろうね」と応じた。それでも、橋本氏の「学生運動(中略)だけではなくて、学内にとどまらず地域に出よう」との言葉どおり、70年代後半以降、話題の幅が広がったことも確かで、その後の数十年来で社会問題となる原理研究会に関する注意喚起、原発問題の解説、公害問題をめぐる抗議行動などを取り上げている。

機関紙的な自覚も


80年代に入ると、また人員不足に陥った。寮に関する集会で1面を埋めた全2面の82年1月16日号に対し、「淋しい」、「自己(編集部)の主張をのせるだけであってほしいとは思わない」、「集会以外にだって、学内外のいろんな動きがあるだろう」と批判の手紙が読者から寄せられた。これを紙面上で公表したうえで、「偏ってしまったことは否めない」と応じるなど、寮の機関紙のような雰囲気になっていた。これは当事者も認めているところであり、86年入学の森氏は「会議で吉田寮の話題が出ても、僕らは反対しないけど、かといって自ら突っ込んだ意見を言うわけでもない。それぞれ好きに取材していた」と振り返っている。

多様な価値観が共存


90年代後半から00年代前半にかけても慢性的な人手不足となっていた。その後、03年に人数が増えた。00年入学の中川氏は自身の入社後の人数について、「いろいろあってだんだん抜けて、結果的に、学生自治や大学に関連するストレートニュースを重視するメンバーが残った」と説明した。03年に入学した典略氏は「それを聞いていたから、多様な感覚を尊重するのが一番いいだろうという意識があった」と明かし、「ニュースより書評や旅行記を書きたいという人も、ストレートニュースをバリバリやる人も、共存できるようになったのが僕らのころ」と述べた。その雰囲気がうかがえる発言として、05年入学の安藤氏は「在学生の親や卒業生に学生生活の様子を知らせる記事があってもいいと思った。学生運動が盛んなころの政治色の強い紙面には抵抗があって、5月病特集とか、軟派なものも載せた」と述べている。

さらに、08年入学の(如)氏は学生自治にシンパシーを持てないと吐露した。「そういうネタを扱うことは使命だと考えていた」とも語り、12年入学の(狭)氏も「自分自身が積極的に取材に行くことはなかったけど、興味は持っていたし、報じる意義はあると考えていた」と同調する。

このように、学生自治に関する話題を熱心に取材する者も、その意義を認めつつ遠くから見守って文化記事を中心に書く者も共存するという雰囲気が徐々に形成されていったことがうかがえる。

人数の増減が影響か


興味深いのは、「軟派なものを載せた」という00年代後半の安藤氏も、先述の「それぞれ好きに取材していた」という80年代後半の森氏も、いずれも入社人数が少ない時期から人数的に盛り返した期間の在籍者という点である。70年代以降、幾度かの人員不足の危機を経て、許容される価値観の幅が広がっていったという流れを見出すことができる。奇しくも08年入学の(如)氏は、部屋の壁に「京大新聞は斗うぞ」と書かれた木造の旧ボックス棟から、2010年にかけて建てられたコンクリート造の新ボックス棟への引っ越しを経験した世代であり、編集部の雰囲気の変化が拠点の移転に投影されているかのようだ。

世代間の違いを許容


その後の紙面を見ると、アニメを大々的に取り上げたり大胆なドライブ旅の紀行を載せたりする一方、大学運営に関して動きがあればそれも特集している。75年入学の篠田氏が「捨ててはいけない」と表現した批判精神が通底していることを感じさせつつ、時代の変化に伴って身につけた柔軟さも表れているように見受けられる。

そのため、上の世代が後輩の作る紙面を見て違和感を抱くこともあるだろう。実際、91年入学の永野氏は学生時代、約40歳上の卒業生から「自分たちは学内の事件を扱ったけど、最近は社会時評みたい」と苦言を呈されたという。一方、09年入学の橋本氏が「OP(卒業生)が口を出さないのが京大新聞だと思う」と述べるように、京大新聞の卒業生が現役編集部の活動を寛容に受け入れる土壌もある。

複数の理念を維持


聞き取り取材を通して興味深いのは、「プロパガンダ紙」的と指摘された年代も含め、各世代の在籍者が編集方針として「あらゆる団体から独立していた」という認識を持っていることである。しかし、実際の紙面では、一部の立場に肩入れしていると受け取られかねない内容の記事が散見される。

なぜこのギャップが生まれるのか。それは、報道機関としての独立性以外にも軸があるからだと考えられる。たとえば01年入学の中川氏は記事の書きぶりについて、「基本的に学生の立場から。教員や大学当局との力関係をふまえて、学生自治を守っていくために、学生の動きを報じるのが京大新聞の役割だという共通認識があった」と述べている。先に述べた66年の読者アンケートに対する釈明にもあるように、学生の立場で書くという使命感を重視する雰囲気は、各年代に見出すことができる。ときにその方向性が強く紙面に出ることで、報道機関としての「不偏不党」の方針と矛盾があるように見える場合がある、という構図を見出すことができる。

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⑨他媒体 独自性を意識


◆原理研究会の存在


京大新聞の編集員にとって、類似媒体は気になる存在だ。そのひとつに、原理研究会系の団体が出していた『京大学生新聞』が挙げられる。原理研は統一協会の下部組織で、同紙をめぐっては高額な新聞購読料の請求や執拗な勧誘行為による被害が出ていた。学内で紙面発行が確認されていたのは08年ごろまでだが、近年でも勧誘行為は確認されているという。

88年入学の大畑氏が「京大新聞が存続することは、反原理の取り組みの歴史を残すことでもある」と述べるように、本紙では70年代以来、約50年にわたって紙面で注意喚起を続けてきた。紙面以外にも80年代には就職雑誌の制作に力を入れ、原理研が資金源としていた就職雑誌『雄飛』を廃刊に追い込んだという。2022年には、元首相銃撃事件を機に教団の存在が改めて注視されると、著名な弁護士のSNSやテレビ番組で本紙のこれまでの報道が紹介された。

◆他媒体との差別化


原理研以外の媒体としては、複数の大学の学生からなるUNN関西学生報道連盟が出していた新聞『京大CLOCK』(20年廃刊)やフリーペーパー『Chot★Better』(21年ごろまで発行)、生協系の「らいふすてーじ」などがある。00年代以降は学内ウェブメディアも登場し、06年入学の中川氏は学内向けネット掲示板「kyoto-u.com」がよく見られていたと語っている。

これらの存在を意識するなかで、15年入学の(鹿)氏は「練り不足」が原因で特集記事の提案が採用されないことがしばしばあったと振り返る。14年入学の(奥)氏は、ボツになる記事の特徴として「どこかの情報誌でもやっているようなネタになりがちで、京大新聞独自の位置付けを考えないといけないという話になって、結局そのまま消える」と述べている。こうした検討を経て、09年入学の山口氏の言う「真面目と不真面目がいいバランスで同居する数少ない媒体」が形成されてきたと捉えることができる。一方、08年入学の加藤氏は「かなり属人的に、どうにか回っていた」と述べており、紙面内容の維持は個々人の趣向や意欲に依存してきたと言える。

また、加藤氏は「当時感じたのは、大学当局と同じ内容を発信しても量・質ともに勝てないということ。でも、当局の広報が扱わない情報や言説はあるし、それを拾って記事にすることは、京大新聞のような独立したメディアでないとできない。そういう問題意識で、くびくびカフェ(時間雇用職員組合による座り込み運動)やアカハラ、09年から再燃した吉田寮の問題を取材した」と述べている。メディアが多様化するなかで、様々な記事が載る「懐の深さ」(13年入学(易)氏)を持ちながら、「京大新聞に載せる記事はこういうものだ」という感覚が共有されていることがうかがえる。

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⑩財政 副業で独立採算を死守


資金面の観点では、戦前は大学に依存しており、戦後は独立採算制を志向してきた。戦前の主な収入は、広告収入に加え、新聞部として大学から割り当てられる学友会補助金だった。1929年にはその予算増額を申し入れたものの認められず、定期購読料の値上げによる資金確保を図っている。

終戦直後の『学園新聞』は広告収入を基本としつつ、49年からは遠方の受験生に電報で合否を伝えるサービスを開始し、収入を得た。さらに、52年からは受験ガイドブック『京大を受ける人のために』を毎年刊行するようになった。「受験産業のハシリ」とされる取り組みで、受験ビジネスが一大産業化していく流れのなかで、最終的に出版社に権利を売り渡すまで約20年にわたって収入源となった。75年には卒業アルバムの制作窓口をはじめ、追って開始した入学アルバム制作とともに新聞社の資金面を下支えすることになる。80年代から90年代にかけては、受験生向け冊子を復活させ、就職情報誌も発行した。

戦後、独立採算体制を維持できた要因として「副業」の成功は大きい。実際、収入の柱が受験ガイドブックからアルバムに切り替わる境目にあたる1975年には、資金不足に人手不足も相まって3か月の休刊を決断しており、財政基盤がもたらす影響の大きさがうかがえる。

広告収入に関しては、時代の好不況の煽りを受けて多寡が変遷している。80年代には広告だけで紙面が埋まる号もあった。一方、当時の在籍者への聞き取り取材では広告営業が「しんどかった」との声も聞かれ、88年入学の岩本氏は就職情報誌用の広告営業で企業を回った際に相手方の担当者から「『こんな薄っぺらい情報誌、誰が読むんだ』と言われた」と振り返っている。世の中が好況でもすんなりと広告を得られるとは限らず、個々人の編集員の苦心の上に経営が成り立ってきたと言える。

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⑪人数 人不足を技術革新で打開


◆苦境にDTP導入


「京大新聞社」は、たびたび人手不足に陥っている。休刊した75年の他にも、90年代には実働2名となったという。このときは、パソコンでレイアウトデータを制作するDTP体制を導入することで作業効率の向上や経費削減を実現して乗り越えた。00年代前半まで慢性的な人手不足は続き、その後は安定したものの、12年入学の(狭)氏は「年によって波がある。少ないとバタバタして、しばらくして増えて持ち直して、また減って誰かに負担が偏る」と振り返る。

◆休刊後の最多面数を更新


人数の変化は紙面のボリュームとある程度対応している。図1では、入社人数と年間合計面数を示した。入社人数は名簿にもとづくため、全員を記載できているとは限らず、何をもって入社とみなすか(=名簿に名前を載せるか)の基準が曖昧なため、目安にすぎない。そのうえで見ていくと、50年代後半の人数の増加に伴い60年代にかけて面数の棒グラフが右肩上がりになり、60年代後半の増員を経て面数の最盛期を迎えている。90年代から人数の少ない時期が続き、02年には面数で言えばピーク時の約6分の1の規模になっている。(あくまで面数の話であり、その指標だけをもってこの時期の紙面が劣っているとするものではない)。03年以降、人数的に盛り返し、面数も増える。2010年と17・18年にかけてやや落ちたものの、21年以降は増加傾向にあり、23年度には75年の休刊以降では最多となる面数を記録。さらに直近24年度はそれをも上回った。それでも最も多い年の3分の1程度であり、1970年度のボリュームが傑出していることがわかる。

◆意地で続けた


発行が大幅に遅れるなど苦しい時期もしばしばあるなか、代々の在籍者はどういう考えで危機に際して踏みとどまってきたのか。実働2人の時期を経験した95年入学の針本氏は「めっちゃ辛かった」と振り返ったうえで、「自分のときにつぶれてしまうのはどうしてもイヤ。意地というか、絶対に残してやるという気持ち」と吐露している。75年入学の篠田氏は、「枠をなくしたら終わり。続ければいいことがある」という思いで「存続にすべてを費やした」と語る。このような苦心の積み重ねを経て、現在に至っていると言える。

【図1】入社人数と面数の推移(人数は名簿にもとづく目安)



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⑫拠点 居場所としてのボックス


◆コロナ禍を乗り切る


100年の歴史の中でも、新型コロナウイルス感染症の流行が世界を覆った2020年からの数年間は異質だったと言える。対面活動による接触を減らすよう余儀なくされるなど、あらゆる社会活動に影響が出たのは20年4月から23年5月までの約3年間だ。

京大新聞ではまず20年4月から紙面発行を停止した。大学が課外活動団体に対して「自粛要請」を発出したことをふまえた判断だったが、その背景として、人がいない構内に新聞を置く意味や編集員の安全を考慮したことに加え、対面活動の規制下では新聞頒布のために学内郵便システムを使うことが認められず、制限緩和を待つしかなかったという側面もある。

紙面発行を停止していた期間は代替として、通常は1か月遅らせるウェブサイトへの記事掲載を紙面発行に相当する日程で行うことにより、情報発信の断絶を避けた。そして、「自粛要請」が緩和された2020年9月から紙面発行を再開した。このときウェブ配信済みの記事も紙面化した。

これを機にウェブ媒体に完全移行するという選択肢もなくはないなか、事後的に紙面化するという対応をとっており、紙媒体を発行することへのこだわりが表れていると言える。

このとき、紙媒体を完全に廃止するという選択肢は、その発想さえない雰囲気だった。このころ入社した編集員の中には、SNSを中心に情報が錯綜するなかで紙媒体や新聞という存在に信頼感や温もりを感じて京大新聞に興味を持ったという者もおり、紙媒体を保持したことが結果的に人員の確保という観点で団体の助けとなったと言える。

紙面発行を再開するにあたって実務面では、オンラインツールの活用が進んで編集作業が効率化されたことも追い風となった。各編集員の自宅で作業する体制を整えたことで、半年間のウェブ記事をまとめて紙面化するという変則的な作業を短期間で完遂することが可能となった。この期間に在籍した(森)氏は「徐々にリモート作業の体制が整って、『こういうやり方もあるんだな』と慣れていった」と振り返っている。

◆あくまで学生サークル


一方で、物理的な拠点の重要性が損なわれたわけではない。京大新聞社は公認団体としてボックス(課外活動団体が部室として使える部屋)を利用しており、感染症下で一時的に利用を制限せざるを得なくなったものの、制限緩和後はボックスに集まって作業する体制に戻している。作業以外も含む空間としての居心地について、聞き取り取材で複数人が言及している。12年入学の(狭)氏は「本や漫画がたくさん置いてあるあの雰囲気は心地よかった」、03年入学の典略氏は「入社理由はボックスの居心地がよかったから。棚に本がずらっと並んでいて、古びたオーディオがあって、雑然としている」、15年入学の(鹿)氏は「遠くから通う自宅生にとっては、空き時間に立ち寄れる拠点があるのも大きい」と述べている。団体として、報道機関であるとともに、あくまで学生サークルでもあり、代々の構成員にとっての居場所であり続けてきたという点も、存続の一因として指摘できる。

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⑬対大学 批判しつつも協力得る


◆戦前の言論統制


戦前は少なくとも2度、編集部の人員がほぼいない状況に陥っている。3代目の新聞部長・西田直二郎氏による「左翼色一掃」の一環で下級生を罷免したときと、滝川事件への報道規制に対する抗議で部員が総退部したときである。これらの危機において、発行人かつ顧問として入山氏が最後の砦となった。その貢献の大きさは想像に難くない。

一方、連載第2回で寄稿を得た入山洋子氏は、西田氏の手帳に「旧部員はいたずらに排除する意なきこと〔中略〕反動的運動にてなきことの諒解を得たきこと」と記載されていることを指摘し、罷免騒動について「『反動的運動』ではない、つまりこれまでの新聞部を否定する意はないことに、理解を求めている」と考察した。また、日記には部員とピクニックに行ったことが記されるなど、面倒を見ていた側面もあると紹介している。

◆「実は当局とべったり」?


このように、「敵」にも見える大学関係者との絶妙な関係性が団体の存続につながってきた側面がある。たとえば75年入学の橋本氏は、「定期購読案内に総長の推薦文を載せた。当時、竹本処分をめぐって紙面で激しく批判していたのに、『今年も推薦を』とお願いして。バランスをとってほしいという一言こそ添えてあったけど、書いてもらえた」とその関係性を懐かしんでいる。87年入学の山内氏は、就職情報誌などの事業で大学当局の協力を得ていたことに言及したうえで、「京大新聞は表では仲悪い顔をして実は当局とべったりじゃないかと。そう言われればそれまでだけど、京大の新聞であって党派の新聞ではないから、そういう側面もあっていいかなと」と振り返った。一方、10年入学の三木氏は「学生との対話姿勢は徐々に硬化した印象」と語り、「学生課の担当職員が代わるたびに(中略)花束を渡したりして関係づくりに努めた」と述べた。

◆年々管理強化強まる?


この点について、聞き取り取材を通して印象的なのは、各世代の在籍者が口を揃えるように、自分の在籍中に大学当局の管理強化が強まったと述べることである。何をもって強化とみなすかは判断の分かれるところだが、それぞれが具体例を出して語っており、単なる印象論とも言えない。そう考えると、今日でも、大学当局が京大新聞社に対していつ規制の目を向けてもおかしくない危うさがあると言える。一方、戦前のような報道規制は、ある意味で京大新聞が影響力を持っていたことの証左と考えることもできる。現在の京大新聞が、権力の監視機関として大学当局に緊張感を与える存在になっているかと問われると、そうは言い難いのが現状だ。

大学当局にとっても学生にとっても、情報発信・受信の手段が充実した環境にある昨今、京大新聞は不要だという見方に反論するのは簡単ではない。双方向性のあるSNSが主流の現代社会において手をこまねいていれば、読者の維持・増加は困難だろう。

近年の取り組みとして、読者から短歌を集めたり読者アンケートを募ったり、ウェブサイトの整備およびSNSの運用によってネット上で読者からの反応を得たりしているが、このような手法の面での双方向性に加えて、紙面内容の面でも、独りよがりな記事にならないように心がけるというアプローチで、読者との「対話」を図ることは可能だろう。

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京大新聞の今日に至る道のりは、存続が必然と言えるほど順風満帆ではなく、綱渡りに近い。それでも、綱を渡り続けられてきた要因は確かに存在し、偶然や幸運のみでは片付けられない。おそらく今後も綱渡りが続くと思われるが、着実に歩みが積み重ねられることを祈る。〈了〉

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