企画

【連載第十二回】京大新聞の百年 興味のまま取材、デジタル化にも着手

2024.07.16

2025年4月の創刊100周年に向け、京大新聞の歴史を振り返る連載の第十二回。時系列で振り返る「通史」は、次回以降で1990年代を扱う。今回はそれに先立ち、90年代の在籍者4名への聞き取り取材の様子を掲載する。また、「拾い読み」のコーナーでは94年の紙面内容を振り返る。連載で得た発見を紙面づくりに活かすとともに、各方面の歴史考察で活用されることを期待する。(編集部)

目次

聞き取り⑥ 文学賞やDTP化を実施 1990年代在籍者に聞く
拾い読み⑪ 性加害問題でスクープ 1994年の紙面の記述抜粋

聞き取り⑥ 文学賞やDTP化を実施 1990年代在籍者に聞く


前回に続き、90年代に在籍した2名に話を聞いた。94年から約2年活動した早川さんと、90年代後半の針本さんに当時の様子を振り返ってもらった。(村)

取材での縁から医者を志す


早川洋さん(94〜98)=7月13日、京大東京オフィス



議員にばったり会い取材

―入社のきっかけは。

同じ授業の同級生に誘われた。

―京大新聞の認識は。

知らなかった。市民運動との接点はなくて、思想的に右も左もない状態で入って、気に入ったから続けたんだろうね。社会・当局批判にもあまり関心がなくて、他の人とは少し違う姿勢だったと思う。社会経験がほしくて、インタビューや取材ばかりした。評論家の岩見隆夫さんや野球部の監督、毎日新聞人事部長の苗村隆太さん、タレントのピーコさんにも取材した。ピーコさんは、梶宏さん(卒業生、連載第五回で取材)の奥さんが一緒にコンサートをされていて、楽屋に行って話を聞いた。あとは当時アメフトが強かったから、東京ドームへライスボウル(社会人と大学の日本一チームの対戦)を取材しに行った。

―ライスボウルの取材でばったり鳩山由紀夫氏に会って取材したという記事がある。

僕が書いた。鳩山さんの他に前原誠司さんにも取材した。僕は思想性がなくて、単にひとりの議員として話を聞いた。そういう記事もあっていいだろうと。先輩から人選に苦言を呈されることもあったけど、バランスよく紙面構成しようという意識で、おもしろい話を聞けたら載せるという考えだった。

医師に取材、「これだ」

―印象的な記事は。

94年に京大病院に総合診療部という部署ができて、行ってこいと言われて取材した。そこの山本和利先生は、出世や権威に関心がなく、患者を治すのがなにより大事という考えの人で、気が合った。それ以来、週1回ほど訪ねるようになった。行くとコーヒーを入れて歓迎してくれた。白衣を着て一緒に病棟を回ったこともある。その出会いがきっかけで、僕は医者になった。もともと総合人間学部で、進路を考えていなかった。あるとき先生と一緒に末期がんの患者さんと会って、その方が先生の手を握って涙を流しながら感謝する姿を見て、「これだ」と思った。京大新聞が進路を決めてくれた。青春の集大成として、卒業論文は「学生新聞の歴史」をテーマに書いた。指導教官からは、「独断と偏見に満ちているが、貴重なものだからそのまま提出して構わない」というコメントをもらった。医者になってからも、話を聞くことが僕の軸で、医療とは結局なんだろうという問題意識から、インタビュー集の本を出した。

自分が知ればもう満足

京大新聞の活動で私が手がけた一番大きいものは、関西学生新聞共同企画。6つの大学新聞と共同で紙面を作った。団体としての横のつながりはなくて、僕が個人的に仲がよかった。ほぼ勝手に動いて実現した。せっかくだから新歓の時期に一緒に何か出そうよと。話が盛り上がって毎日新聞に企画を提案したら、実際に刷ってくれた。

―各大学で配った。

そう。無料で配ったけど、配り手が確保できず大量に余った。見通しが甘かった。当初は人を雇う予算を組んでいたけど、広告が集まらなくて、自分たちで配ることにした。結局この1回限りで終わった。自分の中でやりきった感はあって、これを出した3回生の春で実質的に引退した。これだけ人と会って、目指す道も決まったからいいかなと思って。そこから3回生でほぼ単位を取りきって、4回生では医学部受験に向けて勉強した。

共同企画の紙面



―たくさん取材するなかで、自身のテーマは。学内の問題か、京大に関係なく社会問題か。

必ずしも京大とは関係ないかな。僕の関心事。主たるモチベーションはそこだった。真理を探求したいという願望。それがジャーナリズム精神なのかもね。ただ、僕は取材したら満足で、発信の意識は弱かった。書く意識は3割で、7割は「自分が知りたい」。だからいつもあまり取材の準備をしなかったよ。知り合いの紹介でフランス文学の先生に話を聞いたときは、著書を1冊も読まずに行った。呆れられつつ、イチから教えてもらった。恥はかくけど、正直そのほうが記事を書きやすい(笑)。だって、多くの読者も知らないだろうし。自分も好奇心旺盛な読者のつもりで取材に臨んでいた。

―編集部での校正は。

原稿を壁にぶら下げて、部室にいる誰かが見て書き込みを入れるという流れだったと思う。

フリージャーナリスト集団

―現役の編集部に一言。

東大新聞の編集長と話す機会があって、「うちはそんなに自由に動けない」と言われた。京大新聞の懐の広さはありがたい。関心はいろいろでいいと思う。大学当局の不正を斬る人もいれば、民族運動に関心を持つ人も、文芸批評をする人もいる。会社に勤めていると、辞令で関心のないところに行く場合もある。そうではなく主体的意思で動く。京大新聞という肩書きがあればそれができる。京大新聞という大枠の中にフリーのジャーナリストがたくさんいるイメージで僕は捉えていた。部員それぞれが自分のやりたいことをやる。そういう雰囲気は失わないでほしい。部内で喧々諤々の議論を交わすのもいい訓練になる。僕がいたとき、「その記事つまんなくね?」みたいなやりとりは普通にあった。建設的な批評。これから先、時代ごとにいる人の姿勢によって雰囲気が変わって当然だと思う。自分の関心のもと、真実へ徹底的に突っ込むようなジャーナリズム精神を持った人が育つゆりかごみたいな場であってほしい。

学部の卒業論文と卒業後の著書(『医者になるとは:対話構成 医学を学ぶ一人として』/ゆみる出版)



部員が2人に……「意地」で存続


針本毅さん(95〜01)=7月13日、京大東京オフィス



創造的かつ破壊的な提案

―入社のきっかけは。

知人に誘われた。おもしろい人がいるよと。物事を知らずに育ったから、いざ入ると内外でいろいろな知見を得られた。ジェンダー論や民族問題など、それまで自分が突き詰めて考えてこなかった分野に光を当てる研究や社会運動が行われていると知り、思考の基盤が心地よく崩れていく。それらを紙面にするのが新鮮だった。はじめのころに書いた記事では、朝鮮学校の人の話を扱った。京大を受けようとすると大学入学資格検定が必要という話。それは差別だと反対運動が起こっていて、関係者にインタビューした。

―編集部の雰囲気は。

社会運動や学生運動、文化的な動きが通底する雰囲気のなか、何を取り上げるか検討した。幅広い思想を持つ先輩がいて、それまでの京大新聞にはないポップな話題の記事化などが提案された。それらは創造的かつ破壊的で、お互いのミスマッチもありながら、紙面づくりを続けた。一方、大学のニュースも取り上げる。大学院重点化や大学法人化といった大学の形態に関する議論が動いていた時期だった。ただ、当時は大学人の間で危機感がそれほど強くなかった。今の大学の厳しい状況を聞くと、僕たちの時代にもっとしっかり向き合わなければならなかったなと思う。京大新聞としても、もっと取材できたのではと。「今思えば」で言うと、当時、報道機関向けのファックスがよく届いた。スターバックスが日本初出店のとき、取材の案内が来た。「なんだこれ」と思って行かなかった。まさかこんなこと(24年3月時点で国内1900店舗以上)になるとは……。

芥川賞作家が誕生

―1970年まで続いた懸賞小説以来となる新人文学賞を実施。

そう。モスバーガーでの雑談から、「文学賞を作ろう」、「昔やってたらしいし復活させよう」という話になった。原稿募集の社告で、賞金の「十万円」を誤って「百十万円」と書いてしまったのはよく覚えている。森毅さんや若島正さんに評者になってもらって公募ガイドに載せたら、222通届いた。ありがたくて、すべてに目を通した。「全部読まなきゃ」と思った。膨大な量で本当に大変で、つまらないエロ小説の7連作とかもあって、頭がおかしくなりそうだった。そんななか、吉村萬壱(浩一)さんの作品は光り輝いていた。「これしかない」と思った。それが大賞に決まった。その後、吉村さんは文學界新人賞、さらには芥川賞を受賞された。「他人のふんどし」なのに「おれたち、すげえな」ってみんなで喜んだ(笑)。学生新聞という場を活かして取り組んだことが形になってよかった。出版社から文庫化権の問い合わせを受けたとき、無償利用を快諾したことは少し後悔している。広告と抱き合わせで許可すればよかった。

アップルからパソコン提供

―広告営業の手応えは。

「貝」という居酒屋は、僕が営業で開拓した。飛び込みで交渉に行ったら、食事とお酒を振る舞ってくれて、そのうえお代はいらないって。それで広告を出してくれた。意味がわからないよね(笑)。恩返ししなければと思って、文学賞の選評会の会場にした。他には、アップル社から広告を得て、現物でマッキントッシュのパソコンをもらった。住友金属工業とも交渉して、エディカラーというレイアウトソフトを提供してもらった。それらは特殊な例で、財政的には潤っていなかった。

―ネット環境の整備は。

私がグーグルを知ったのは大学生のころだった。京大新聞のホームページをつくったけど、更新が大変。片手間でできないし、機能しなくなった。

―当時の人数は。

入ったときは数人いたけど、ここでは書けないできごとがいろいろあって、僕と長沢さんという先輩の2人になってしまった。めっちゃ辛かった。でも、消したくないと思って。自分がいなくなった後のことは仕方ないと思えるけど、自分のときにつぶれてしまうのはどうしてもイヤ。意地というか、絶対に残してやるという気持ち。その後、長沢さんが主導してDTP(パソコンでの印刷物作成)を取り入れた。印刷代を抑えられて、修正のために大阪の印刷所に通う必要もなくなった。レイアウトの自由度も上がった。当時は珍しかったから、かなり早い導入事例だと思う。技術を習得するのは大変だった。

―操作は独学で。

そう。さわって慣れていった。作業時間がずいぶん短縮された。

学生視点の発信基地へ

―印象的な記事は。

前提として、大学全体にお互いを尊重する雰囲気があったと思う。研究したい人はするし、そうでない人は好きにしたらいいと。そこには何かおもしろいことをやるんだろうという信頼があった。だから大学がそういう緩さを強行的に壊していくと、普段は政治に関心を示さない人でも懐疑的な反応を見せていた。寛容さを大事にする雰囲気のなかで京大新聞は、社会活動に限らず漫画評のようなポップカルチャーにも軸足を置いていた。私はその路線に乗って、京大新聞の名前を借りて興味のある人にインタビューした。阿部謹也さん(西洋史)や網野義彦さん(日本中世史)とか。あとは、藤岡信勝さんという東大の教育学の先生の本を読んで書評を書いたのを覚えている。しばらくして、その先生が一員となって「新しい教科書をつくる会」という歴史修正主義的な運動が盛り上がったから、「あの書評は潮流をつかまえていたね」と褒められた。

―誰から褒められた。

当時、書評委員会というものを組織していた。京大新聞に所属していない学生を月に1回集めて、本を紹介しあって記事を書いてもらう試み。いそがしい人が多くてなかなか原稿が集まらず解散してしまったけど、石原俊さんや箱田徹さん、菊池夏野さんとか、のちに研究者になる人も書いてくれた。学生視点で本を紹介する発信基地のような場を目指していた。その集まりで褒められたからうれしかった。

―読者からの反響は。

受験生特集号の「寺原物語」は反響があった。「いか京(「いかにも京大生」という蔑称の略)」の編集員・寺原くんがどうすればかっこよくなるか探るという記事。これもモスバーガーで考えた。髪型を変えたり寺に修行に行ったり。寺原くんは、その記事を読んだ学生と構内で会って握手を求められたこともあったらしい。書評委員会の人たちからの評判は悪かった(笑)。もっと真面目な記事を載せてと。

―現役の編集部に一言。

今も学生が書く媒体として続いているのはうれしい。大学で隣人が何をしているかを気にする人は少ないし、新聞を通していろいろな人とつながれるのはよいこと。教員が事務仕事に追われているというSNSでの発信を見ると、昔はそこまでではなかったなと思う。自分が京大新聞に携わっていた間にどれほど発信できただろうかという思いがあり、大学改革に関する本が出るといまだに買ってしまう。いろいろな立場の人が抱えている苦悩を、社会で、せめて大学の中だけでも共有してほしいし、京大新聞がその一助になれば素敵なことだと思う。

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拾い読み⑪ 性加害問題でスクープ 1994年の紙面の記述抜粋


今回は1994年の1年間の紙面から、一部要約して記述を抜粋する。年間で22号を発行した。また、定期購読料の改定により、現在と同じ3千円/年となった。


1994年


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