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【連載第二回】京大新聞の百年 報道規制に抗議で全員退部 「弾圧」下で執筆模索

2023.11.16

【連載第二回】京大新聞の百年 報道規制に抗議で全員退部 「弾圧」下で執筆模索

入山(左から3番目)の呼びかけでファシズムに「アカンベエ」をする編集員。『権力にアカンベエ!』の表紙にも使われている(1935年ごろ)

京大新聞は2025年4月に創刊100周年を迎える。節目に向け、その歴史を振り返る特集を今号から十数回にわたり連載する。時系列で振り返る「通史」は、1990年に出版された書籍『権力にアカンベエ!京都大学新聞の六五年』から大部分を転載して再構成する。このほか、実際の紙面から編集体制や紙面内容の変遷を書きとめ、コラムで視点を補う。各時代にどういう背景のもと何を大切にしてきたのかを見出すことで、今後の紙面づくりに活かすとともに、報道、出版、文芸、教育、学生運動など各方面の歴史を考える際の一助となることを期待する。連載第二回は、1930年ごろからの約10年間を振り返る。(編集部)

目次

通史:滝川事件と退部騒動(1930~1939)
拾い読み:事件報道にあらわれる濃淡 号外や部員の声明も
論考① 西田直二郎と京大新聞 入山洋子 同志社大学人文科学研究所嘱託研究員(社外)
コラム④ 一般紙記者との関わり 部室に来訪、突撃取材も
コラム⑤ 「学生の雑誌」創刊 退部組の奮闘

通史:滝川事件と退部騒動(1930~1939)


「大学は出たけれど」


学生の社会主義研究が規制され、学生運動の多くが非合法とされるなか、創刊から5年を経た京都帝国大学新聞の紙面は、学会などの行事のほか、校舎の新築、就職動向、スポーツ大会といったニュースで埋まった。1930年には、2月から5月にかけての学生共産党事件で京大生ら数十名が検挙された。

時代は暗くなる一方だった。国内では27年の金融恐慌以来、不況が続いていた。さらに、29年10月のニューヨークの株式市場暴落に端を発する世界恐慌が日本を襲う。生産制限による首切りや倒産で失業者が激増。大学卒業生の多くも職を得られず、「大学は出たけれど」という言葉がはやった。31年には、柳条湖事件をきっかけに関東軍が軍事行動を拡大し、戦時態勢に入った。これが満洲事変の発端となり、以後15年間にわたる大戦へ突入する。日本は33年3月に国際連盟を脱退し、華北、北京へと軍靴の音を響かせていく。共産党や社会主義の取り締まりが日増しに厳しくなるなか、言論統制の矛先が大学の教官にも向けられ、同年5月、「滝川事件」が起こる。

滝川思想の「取り締まり」


1932年末に始まった国会で、「赤化教授」の罷免を求める声が上がり、鳩山一郎文相が「出来るだけ取り締まる」と答弁した。このとき、滝川幸辰・京大教授が同年5月に執筆した『刑法読本』が引き合いに出された。滝川は同年10月に実施した講演で、犯罪の原因に通ずる社会の欠陥を十分に踏査すべきとの考えのもと、「刑罰や保安処分はほとんど空論」などと述べた。こうした考えが無政府主義を助長するとして司法当局から危険視された。

文部省は34年4月、滝川へ休職を命じるよう小西重直総長に求めた。総長はこれを拒否し、法学部教授会も抗議したが、文部省は休職処分に踏み切った。文官任用に関する勅令では、「官庁事務の都合」で休職を命じることができるとの規定があるものの、京大の教授人事に関する勅令では進退決定に総長の具状を必要とする旨が定められていた。さらに、1913年に起きた「沢柳事件」以降の合意として、教授の任免の際は教授会に諮って決める慣例が定着していた。こうした背景から、文部省による休職強行に対し、学問の自由や大学の自治への重大な侵害であるとして教官や学生らが猛反発した。抗議の波は他大学にも広がったが、最終的に滝川を含む7人の法学部教授が辞職し、さらには京大の新聞部員全員が退部する事態となる。

滝川の『刑法読本』の中で批判の対象となったのは、内乱罪と姦通罪、教育刑の説明だった。

内乱罪については、「幸福な社会の建設を目標として現実の社会の破壊を企てる」行為だとし、「もし内乱が成功すれば、行為者が支配者の地位にとって代る」ことから、「動機・行動が悪いから罰せられるだけ」と説明した。これらの記述が問題視され、のちに伏字となった。姦通罪は当時、妻のみ犯罪とされ、夫は不問だった。滝川は、夫妻平等にもとづいて姦通罪の廃止を主張したところ、「我国の良習を破る」との追及を受けた。教育刑については、現実社会と異なる監獄で教育された者は「社会復帰しようとしても駄目」との説明だった。滝川の著書『激流』によれば、鳩山文相が〈監獄が理想社会〉という趣旨だと「思いちがい」をしていたという。

こうして、当時の学説からして必ずしも特異とは言えない主張が、追放の理由となった。

滝川攻撃の先頭に立ったのが、蓑田胸喜・慶應大学予科教授らだった。蓑田は事件に先立つ1929年6月、京大講演部に招かれて講演した。そのなかで、京大社会科学研究会の元指導教授である河上肇の研究態度を「全く学術的ではない」と批判したところ、聴衆の学生が痛烈なヤジを浴びせて控室まで追いかけるなどしたという。滝川は自著で、「講演部部長である私が学生をおだてて蓑田氏の講演を妨害させたと思いこんだらしい」と振り返り、のちの自身の休職問題に「蓑田氏が一役を買っていた」と述べている。実際には、「妨害」は京大社研の学生らが事前に企てていたもので、滝川はあずかり知らなかったという。

滝川幸辰・法学部教授(京都大学大学文書館所蔵)



大臣に直撃、緊迫の号外


京都帝国大学新聞の紙面に沿って事件の詳細を見ると、滝川への辞職要求直後の33年5月21日号に鳩山文相の一問一答記事が載っている。文相の乗る神戸行き列車に学生編集員が乗り込んで直撃したという。処分について文相は「時勢の力だ。止むを得ぬ」と回答した。同号では1面を割いて事件の経過を報道し、「研究の自由を唱へ、わが学園守り堅し」と記している。

鳩山文相とのやりとりを収めた紙面(33年5月21日号)



学生運動が下火になっていたなか、5月19日には法学部学生大会が開催され、教授会とともに抗議する方針で一致した。また、各学部にまたがる出身高校別学生代表者会議(高代会議)が開かれ、各地の大学へ同調を呼びかける動きが広がった。これらも紙面で追っている。

小西総長が上京して文部省へ出向き、辞職要求に応じない旨を伝えた直後には、号外を発行した(33年5月24日号)。滝川事件では、朝日や毎日などの一般紙がたびたび号外を出したが、学生新聞としては異例だった。「全学を挙げて総長を支持す!」の見出しに加え、末尾に「けふ正午鳩山文相と会見したが交渉遂に決裂す」との短文が大文字で差し込まれており、速報の緊迫感がにじむ。号外には新聞部員連名の声明も掲載している。「学園の神聖、講学の自由」に関わる「全学園の死活」の問題だと指摘し、「京都帝国大学総長の決意を支持せんとする」と訴えた。

法・教官一同、辞職願


滝川の休職が閣議決定された5月26日の動向を報じる号外も出している。この日、総長が急きょ部長会議を開き、「会議場の総長室の外は守衛がバリケードを築き、それを取りまいて各社の記者、写真班が灰色の沈黙でひかえる」など緊張が高まっていた。号外ではその後の様子を次のように描写している。

「赤自転車に乗った電報配達が本学正門に飛び込んだのは二十六日午後三時四十分、別項の通り滝川教授休職仰せつけられる旨の電報である。(中略)宮本法学部長はかねて手許に出揃っていた教授、助教授、講師、副手の辞表四十通と法学部大学院学生の退学届け六十九通を紫のふくさに包み、蒼白な顔を緊張させて総長室への階段を一歩一歩ふみしめて登った」

この日の夕方、法経第一教室に多くの学生がつめかけ、満場の拍手のなか、法学部全教官が姿をみせた。宮本部長が辞表の提出を報告し、文部省による措置を「甚しく不当」と批判する旨の教授一同名義の声明書を読み上げた。号外にはその全文が収められている。学生に向け宮本部長は、「光輝ある京都帝大の学生としてもっとも適当と信ずるところに従って善処してくれたまえ」と呼びかけた。

教官団が去ったあと、学生大会が行われた。大学院学生代表や経済学部代表、各出身高校別の代表が演説し、文部省への休職撤回要求と総退学を辞さないとの決意表明を法学部学生一同の名でまとめた。

「吹きすさぶ弾圧の嵐」


小西総長は学内の抗議を背景に文部省と交渉したが、合意に至らなかった。鳩山文相との間で妥協案を練ったものの、滝川の休職を前提としていたことから法学部教授会がこれを拒絶。ついに小西総長は辞職し、後任に松井元興氏が選ばれた。紙面では松井を「学問の自由については強い愛を持っている」、「果断の人」などと報じている。

松井総長は教官一同の辞表を申達したが、文部省は元新聞部長の佐々木ら6名分のみ受理して発令した。後に復帰する1名を除く5名と、追加で受理された2名の計7名が京大を去った。文部省は残りの教官団の慰留に努め、松井総長との間で「解決案」をまとめた。滝川の処分について「非常特別」との認識を示し、以降は「多年の先例に示す通り」総長の具状や教授会の意向を尊重して対応するとの旨を確認した。これを受け、「法学部の主張は認められた」として7教授が残留した一方、「非常特別」とみなせばいつでも総長や教授会の意向を無視できると指摘して反発した教授2名、助教授ら12名が辞職した。紙面では、双方の声明を載せつつ、「姦策的解決案」との見出しを打ち、大学の自由に関する教授の論考を複数載せるなど、退官組と同じ論調もみられた。

残留組からなる法学部教授会は、「問題は解決した」との認識のもと、7月に学生代表者会議の解散を命じた。また、法や文の学部当局が学生とその保護者に対し、「以後運動がましいことをして処分等の遺憾の処置なきように」との文書を送りつけた。さらには、文部当局への抗議を続けていた一部の学生が検挙された。京大新聞は「吹きすさぶ弾圧の嵐」、「法、文学生におどし文句」との見出しでこれらを報じている。

辞表提出を報じる号外(33年5月27日)



学生編集員、抗議の総退部


「弾圧」は京大新聞にも及んだ。9月に入り、新聞部長の西田直二郎が滝川事件に関する報道を控えるよう指示し、8人の学生編集員が抗議のため総退部した。この件は一般紙でも報道され、朝日新聞では、西田部長の談話として、〈不服として学生委員が辞任するのなら新聞が一時出なくなってもやむを得ない。これに対し自分が非難を受けてもそれは大学の最高方針だから甘受する〉との見解が示された。

新聞部には、発行人の入山雄一だけが残った。入山は後に「西田さんは学生の左傾に対してはあまりに厳しい態度をとった」と振り返っている。新しく編集員が募られて新聞発行は続いたが、活気のない紙面になった。総退部の後はじめて出した9月21日号では、1面トップに〈秋開く学術諸大会〉を置き、滝川事件関係の記事は、1面全体で報じた前号と打って変わって高代会議の〈前教授諸氏の復帰を懇望す〉などを小さく載せるにとどまった。

文部省は滝川事件を「非常特別」と例外視する認識を示していたが、これ以降、東大で教授の追放が相次いだ。2年後の1935年に美濃部達吉の天皇機関説が攻撃の的となり、1937年には矢内原忠雄が教壇を追われた。1938年には大内兵衛らが検挙される人民戦線事件が起こり、翌年には河合栄治郎も東大を去った。

1933年、滝川事件のころの入山(中央)と編集員



自由な表現の場を求めて


新たに加わった学生編集員のもとで命脈が保たれた新聞部は、1935年に創刊十周年を迎え、1929年の退部騒動から月2回に減っていた発行を月3回へ増やしたほか、同窓組織を結成した。他方、編集部内には、以前の溌溂とした新聞に戻りたいという考えがふくれあがっており、滝川事件で京大を去った佐々木惣一の論考が35年4月16日号に載るなど、その意向が紙面に反映されつつあった。こうしたなか、35年5月に第2回滝川事件記念講演会が行われ、その報道を試みたが、西田部長により差し止められた。編集部の中心を担っていた5人の2回生がこれに抗議して一斉に退部する事態に発展した。

記念講演会には、佐々木のほか末川、滝川ら退官組の諸教授が参加し、約300名の学生が詰めかけた。これを1行も記事にできず、5人が抗議声明を出して退部した。調停もまとまらず、残った編集員によって発行が続けられた。

脱退組はしばらく「無聯の日々」を過ごしていたという。それを知った入山が、毎日新聞にいた元新聞部の記者に相談したところ、京都版で週1回、学生が執筆するコーナーを設けてもらえることになった。京都支局の応接室を臨時編集室とし、退部組が毎週1頁10段の紙面をつくった。実現に一役買った支局長は、時折顔を出して「今晩は子供新聞の編集か」と冗談を飛ばしつつ、編集内容には干渉しなかったという。脱退組はこの「カレッジ・セクション」を編集しながら、大学新聞が批判精神を失うことを危惧し、代わりの媒体の発行を模索した。そして1936年5月、月刊誌『学生評論』の創刊にこぎつけた。

「書きたくないことを書かない」


1936年の「ニ・ニ六事件」以降、国内でファシズムの色が濃くなっていく。翌年には北京郊外で日本軍と中国軍の衝突が起こり、日中戦争が始まった。戦争に積極的協力を行わない者への圧力が強まり、37年6月には『学生評論』が停刊に追い込まれる。

同年末から翌年にかけて、前述のとおり「左翼」とされた東大の教官らが次々と検挙された。1939年1月には東大の平賀総長が、経済学部内で二派を成して対立していた教授2名の休職を独断で文部相に上申した。これに抗議した教授ら13名も辞表を出す事態となった。一連の「平賀粛学」は京大でも関心を持たれ、京都帝国大学新聞では前年10月から5回にわたって報じた。

39年9月、英仏両国がドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の開戦となった。38年4月には国家総動員法が公布され、学園での軍事教練が必修となるなど、戦時体制の整備が学内にも及んだ。新聞部では滝川事件以降、入山が発行人としてたびたび特高警察に呼ばれてくぎを刺され、編集会議で学生の提案に「それはいけない」と言うようになったほか、一部の部員が軍部の思想に同調することもあったという。一方、「書けない」内容が増えるなかで「書きたくないことを書かない」というかわし方で抵抗したり、比較的リベラルとされていた教官の原稿を載せたりして、難局での発行を続けた。

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拾い読み:事件報道にあらわれる濃淡 号外や部員の声明も


初回に引き続き、実際の紙面を見ていく。ただし、通史で取り上げた1939年までの10年間のうち、今回は1930~34年を対象とし、それ以降は別回に掲載する。この5年間は、1部5銭・年1円の購読料および月2回の発行頻度を維持した。

内容としては、就職状況、創立記念行事、東大との交流戦などのスポーツ、学会情報、学友会委員の選挙や予算、政府からの科学研究費の内訳、卒業・入学者の名簿などが恒例で載っている。そのうえで、通史で見たとおり様々な事件が起きるなか、編集部の見解を紙面で表明することもあれば、「当たり障りない」記事に終始する時期もあり、濃淡が出ている。満洲にまつわる話題など、徐々に「時局」の影響がにじむ記事が増える一方、スポーツや文化の記事が継続して載っている。学内のできごとにとどまらず、国内外の政治・経済の状況を現在以上に扱っている点も指摘できる。

広告は、創刊当初の10年と比べて、それぞれの大きさこそ小さくなっているものの、毎号数十個程度載っており、内容も多岐にわたる。よく載っているものを挙げると、書籍、文具、病院、鉄道、酒、飲食店、衣服、百貨店などがある。

以下、5年間の計102号(うち号外5回)から記述を抜粋する。紙面での表記を保持しつつ、仮名づかいなどを適宜改めた。


1930年


新聞部▼学生課の移動で部室を厚生課あとへ移転▼懸賞映画小説を募集→「各氏の選考の結果、傑作は遺憾ながら見出すことを得なかった」▼本紙主催・旅の座談会▼投稿歓迎:題は不景気の影響(薄謝進呈) 時事▼外交界展望▼陸軍を改革縮小せよ▼米買政策と農家経済との矛盾▼テロリズムの政治的意義▼卒業生の職業紹介 教育研究▼農・初の博士号授与▼イタリア語が文学部副科目に▼工文理農の学生にも「学生票」(学生証)公布▼新聞学講義始まる▼ドイツ学生交換の計画成立▼ハワイ大学生と交流▼文部省の留学生、今年は中止:緊縮財政の影響▼退官軍人向け社会教育講習会始まる▼中将の講演 運営▼完全な設備を誇る学内電話、加入者400に及ぶ(構築は1920年)▼学生課の陣容成る▼京大、節約宣誓の標語募集▼帝大学生主事会議▼政府の歳入減は本学予算にも影響▼学生健康相談所、実費診療に▼法学部で2室を打ち抜き500名を容れる▼経済研究所設置計画▼東方文化学院完成▼中央実験所の機能を民間に開放▼考古学教室に珍品届く▼図書館にフィンランドの学術書 学生▼バレー部誕生▼テニス部満洲遠征▼本学主催の高専諸大会▼緊縮で運動会中止▼学友会費未納2100名▼学友会代議員候補者の所信を本紙で発表:財政行き詰まりで学友会の意義が問われるなかで「進んで学生大衆に訴えよ」 文化▼最近のソビエト映画▼文壇動向▼明治期の暗殺物語▼「支那文学」研究手法▼『大学風景』創刊へ

1931年


新聞部▼主催座談会:欧米から帰ってきた教官を招いて 時事▼国民経済の難関と活路▼欧米の財界▼最近ソビエトの真相▼無産政党の一年▼社会民主主義の行方▼憂国の至情に燃えて聴衆は常に溢れる:満洲問題講演会▼就職問題座談会 教育研究▼法学部の規程改正:植民政策、会計学は廃止▼西田幾多郎博士の講演▼清野博士「北海紀聞」▼講演:日本人と西洋人の体質上の優劣▼メキシコ学生団来る▼フランス政府の負債で留学生6名を派遣▼経済学会の創立と雑誌発刊▼緊縮で夏休みの実験中止▼ある日の名誉教授「散歩が毎日の仕事」 運営▼5銭の学生食堂開業▼「定食には汁をつけ」:うどんそば値下げ▼大繁盛の共済部食堂▼3千人を賄う大食堂ができる:設計既に成り近く工事に着手▼節約標語決定「無駄遣いお断り」▼妙齢の婦人が又も学生課へ120円:苦学生のため寄附▼大野学生主事が結婚の周旋:続々申し込みあり▼園遊会復活▼創立記念の学内一部開放に押し寄せた人の群れ「グロ味たっぷり医学部の諸陳列」▼決議書を総長に提出して学生消費組合の公認を要求▼共済部の内職紹介:昨年より良好▼炭は共済部へ:恒例の廉売▼臨海研究所の水族館完成す▼健康相談所を新築 学生▼教練査閲実施▼「麻雀付属品一切おわけ致します」▼規則改正と新予算案を審議し学友会は更生せん▼再生の学友会へ新入生の過半数が入会:この分では赤字問題も起るまい▼京大短歌会詠草▼新組織第一回の音楽部大演奏会▼下宿選び助言:衛生学教授談 文化▼プロレタリヤ文化戦線素描▼ソビエト映画の進出とトーキー芸術の進歩▼『芸文』遂に廃刊

1932年


新聞部▼次号は歳末帰省の便宜を計り、繰り上げて印刷する▼満洲國写真展覧会を主催:視察に同行した大佐から資料提供があり一般観覧を実施 時事▼国際連盟の将来:「日本は大変好境遇」「脱退は馬鹿をみる」▼日本にとっての満洲国の価値:まだ正式に認められていないが事実として成立しており、日本人が支持している。日本の一部とする考えがあるが、賛成しない。独立国として日本が指導者となるべき▼ムソリーニは語る:黒シャツ宰相会見記▼インフレーションは大学にどう響く? 会計課長と一問一答 教育研究▼日本初の外国女性の理学博士誕生▼試験制度是非:大学の試験「甚だ漠然としている」▼和辻哲郎教授の学位論文、教授会を通過す▼珍魚「山の神」から新寄生虫発見▼作り物かと疑われるほど珍しい昆虫を発見▼金本位制の研究▼瀧川幸辰教授の「刑法読本」を紹介す:佐伯千仭▼学術協会第8回講演会、電波にのって全国津々浦々に▼満州より帰りて:大野久磨夫メキシコ学生4人、本学農学部へ入学▼学生が満洲視察へ▼満洲国で地球の重力と磁気を測定▼教授と記者に欧米の現状を聞く:「学生新聞が学外で読まれているか」との問いに「そんなことはない」「日本では学生は特権階級だが、外国では社会的地位が低い 運営▼物価高を尻目に学生食堂頑張る▼病院にも不景気の風寒し▼健康相談所の患者増える▼新装成れる法経学生控所▼化学企業社長が出資して貧困学生を救済▼制服と制帽の値段決まる▼胸襟を開け! ノーネクタイ・白シャツ運動:瀧川幸辰諸教授も賛同▼連載「ミス大学」:電話交換嬢など 学生▼愛国運動者を招く満洲国! われこそと思ふ人々はすぐ大野主事へ申し込め:自治訓練所学生の追加募集▼ビラ撒き左翼学生の処分決定▼下宿・食堂・プリント屋から覗いた試験間近の学生の様子▼〈コラム・風車〉:「ワツシヨワツシヨと押しかけてもフアツシヨでなくては満洲へ行けぬ」▼「満洲問題」をかかげ活躍する国連京大学生支部▼京大満洲会成る:関心を持つ学生が講演、座談会、研究会を開催▼ない袖は振れぬ:学友会は前年度予算を踏襲か▼学友会代議員の改選:多少の番狂わせ▼大学の歌募集開始:一等賞金50円 文化▼「日本文化史序説」執筆事情:西田直二郎▼チャップリンについて▼詩「明るい空」「居留地風景」▼京の紅葉案内記▼琉球だより 広告▼『現代独裁政治史総説』

1933年


新聞部▼愛読者へ:今までは遅く登校したり発行日に休んだりすると手に入らなかったが、次号からは方式を改めて誰でも勝手に取れないようにする。学友会員には会費納入と同時に引換券を渡す 時事▼満洲国中央銀行から10名の求人:月収200円▼日本銀行京都支店の庶務課長の採用に関する談話▼ますます言論の貧困化が進んでいる。大隈内閣は山縣に毒殺され、民主主義的な加藤内閣が退けられて軍人政治家寺内が内閣を横取りした▼「内外時事」:満洲国をめぐる諸問題→日本は国連理事会でみじめな失敗をした。アジア諸国においても味方がいない▼「大学で軍教を受けねば幹部候補生になれぬ」:改正された制度の要旨を配属将校に聞く▼フランスにおけるファシスト運動▼連載「ヒトラーは何をする」▼アメリカの金融恐慌と為替対策▼フランス前文相講演 教育研究▼1頁割いて滝川事件を報道▼列車中での鳩山文相の一問一答▼自由自治の確認は瀧川教授復職による:具体的目標を明確にして抗争はますます高まる「奸索的解決案一蹴」▼社会科学に於ての常識の危険性▼大学の自由▼秋開く学術諸大会▼仏像に表現された日本人種の特徴▼織田信長について:西田直二郎 運営▼小西新総長の顔:スポーツは剣道、好物はニシン、教科書も買えぬ逆境に育つ▼職員録に載らぬ総長、事件解決に腐心して在任100日:本紙を通じて学生諸君に送る挨拶▼製本業の直営:理学部事務室の地階で▼寄附でできる動物学研究室▼ヒュッテ修繕▼附属病院、屍体室新築▼苦学生へ福音:新しく給費生をつのる 学生▼生計調査速報:愛読雑誌は改造と中央公論、新聞では大阪毎日▼古本の交換会の案内▼吉田神社のご利益で賑わった節分大学▼校内を通る学生にインタビュー▼学友会で募集した「大学の歌」発表▼天然痘の患者5名発生▼結束を固め毎日の情勢を知らせるべく、法・経・文の各学部で「ガリ版ニュース」が発行されている▼学の生命線確保に戦線全帝大へ拡大▼事件をよそに高専大会決行▼京大学生運動新聞、既に2回発行:「全学中央部新聞班」が機関紙を出していた▼学生運動に俄然、解散を命令:残留教授会から▼活動を始めた京大満蒙研究会:入会者相次ぐ▼京大劇研の初ラジオ放送で童話劇▼文学部学友会旅行 文化▼ロシア戯曲と日本の新劇運動▼論壇月評:小林多喜二の死▼文化の不安、芸術の不安▼今年見たトーキーで最も傑れたもの▼京の秋(イラスト)

1934年


新聞部▼室戸台風罹災に伴う義援金・物資の募集:新聞部室受付/毎月学生課と協議して最善の措置をなす→600円を突破▼投稿募集:題は「収穫を語る」▼座談会主催「帝展を語る」 時事▼議会に何を望むか、諸家の意見:選挙法を徹底的に改正せよ! ▼日露不侵略条約について▼満洲土産話「満洲は運命線」「日満経済統制を」▼インフレの波に乗り工学部は朗らか、中にも恵まれた機械・工化のほほんで卒論執筆中▼国家試験委員に聞く受験の注意 教育研究▼今年の文学部の卒業論文に現れた時代相は? 史学「国史殊に時代精神の再批判が多い」▼哲学を減らして史学を増やす:文学部の募集定員変更▼大学構内で相次ぐ発掘:考古学研究の新資料▼吾が國最初の完全なる乾漆製寝棺:本学地震研究室敷地内で発見▼豊臣秀吉自筆の書状を寄託される▼珍しいタコブネの化石を発見す▼結核の撲滅へ医学部学生乗り出す▼遺伝学の材料としての日本人▼夏期講演盛況▼演習林の木炭売り出し▼農場の売り上げ、風害甚大▼皆既日食観測の一行、南洋へ▼ドイツ大学における心理学の再認運動▼大野熊雄の満鮮遠征 運営▼学部卒業生が2万円を寄附▼続々実現する京大学士クラブの地方部:香川、大阪、広島、神戸、京都に▼内職斡旋は84%の好績▼わが図書館の蔵書、100万を突破す:東洋一の大文庫▼落成した耳鼻咽喉科▼最新の設備を誇る医学部薬物学教室完成▼教授自宅電話開通:数名のリスト▼天災被害者に授業料免除の恩典 学生▼学友会役員会、会費値上げを決議→増収約4600円:これを財源に学友会やテニスコートの移転、合宿所と弓道場の修理へ▼学生道場の建設へ▼勇躍、征途へ! 極東大会へ出場の三君:陸上部、サッカー部から日本代表選手が出た▼陸上部員が三段跳び世界記録▼サッカー部関西リーグ3連覇▼野球部遂に優勝▼学友会が懸賞で応募した「大学風景」の写真当選決定▼混声合唱団発表会 文化▼中世ドイツ演劇史▼京の桜▼映画の黎明▼雑誌『数学』発刊▼学友が寄せた便りと称して紀行文を1頁使って掲載▼『公法雑誌』と『民商法雑誌』創刊▼軍事査閲:全学生は農大運動場に整列すべし 広告▼立命館出版部▼丸善:海外新聞雑誌予約期▼改造社の創業50年記念セールの全面広告▼講義プリント謄写印刷

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論考① 西田直二郎と京大新聞 入山洋子 同志社大学人文科学研究所嘱託研究員(社外)


新聞部部長として滝川事件の報道差し止めを指示するなど、強硬姿勢の感もある西田直二郎。その腹にはいかなる思いを抱えていたのか。入山洋子氏に解説してもらった。

報道制止の一方、部員とピクニックも


新史料の発見

1929年のいわゆる「新聞部事件」は、一般に次のように説明される。

この年5月に新聞部部長の辞意を固めた佐々木惣一法学部教授は、自ら後任を探すが果たせず、学友会会長(新城新蔵総長)も数人の教授に交渉を試みたが、時事性を強める新聞部との関わりが敬遠され、引き受け手が見つからないまま、9月14日に佐々木は辞任。後任が見つかるまで大野熊雄学生主事が代行、部内に見え始めた左翼色の一掃を図った。そして、週刊から月2回発行への縮小や大多数の部員の退部を迫った。これに反発した部員らが全学的な抗議行動を展開するも、次第に下火に。11月の学友会臨時役員会で大野の方針が承認され、後任部長に文学部教授の西田直二郎が就任した、というものである。

つまるところ、西田の部長就任のいきさつは、長らく不明であった。その間の事情や、就任後の西田と新聞部との関係をうかがうことのできる史料が、このほど見つかった。

部長就任前夜

1929年の9月前半と思われる西田の手書きメモがある。ポケットタイプの手帳見開き4頁に、鉛筆で構想が書き留められている。主なものを見てみよう。(漢字や仮名づかいは適宜改めた)。

「学生課に話すこと」として、「部員はやめること〔中略〕部長更迭と共に一新すること、形式的方面としてよし〔中略〕新部員は新部長の名にて公募すること」と記す。「新聞発行に関する件」には、「1 第一回九月十六日の件休刊やむなきか。Supplementを出すこと困難か。2 九月二十三日は是非出すこと」とある。「佐々木博士に話す件」は、「新聞部のため尽して頂きたる主義、努力の要点を話し願いたきこと」、「旧部員はいたずらに排除する意なきこと〔中略〕反動的運動にてなきことの諒解を得たきこと〔中略〕留任を願うことの許されないことと御迷惑とを察したこと」をあげた。

要するに、佐々木退任の9月14日以前に、すでに西田は新部長として俎上にあがり、自ら方針を立て新たな体制づくりに取りかかっているのである。佐々木への敬意を表し(一応慰留の意思を示し)、「反動的運動」ではない、つまりこれまでの新聞部を否定する意はないことに、理解を求めている。その上で、部員はすべて一旦退部させ、新たに新部長の方針に賛同する者を公募する、との方針を立てた。新聞発行については、9月16日に「第一回」、すなわち新体制のもとでの最初の発行ができるかどうかを憂慮し、せめて簡易の別刷のようなものを出すことを模索している。(実際に発行された9月16日付『京都帝国大学新聞』第110号は2頁の簡易版であった。)

この構想をもとに、佐々木の退任までに、新城総長や佐々木、大野学生主事と会合を行ったと思われる。ただ、西田が正式に部長に就任するのは11月20日付である。このタイムラグの事情まで明らかにすることはできないが、部長不在の宙ぶらりんな状態は、部員たちに部存続の危機感を募らせるのに十分であっただろう。

新聞部との関わり

ともあれ新部長となった西田は、周知の通り1933年の滝川事件、さらに滝川事件二周年の35年に報道規制を敷き、これに抗議した主要部員が総退部するという事態を招いた。35年の西田の日記には、「新聞部少しく騒ぐ」、「村井〔満次〕委員罷めさせること決定」などの記載が見える。

一方で、しばしば編集会議に顔を出し、よく面倒をみた。ときには部員たちと、ピクニックや大阪名物カキ船料理屋での会食、有馬温泉への慰安旅行など、親交を深める様子も記される。1934年9月に京阪神地方を襲った室戸台風の罹災学生に対して新聞部が義援金を募集した際には、これを難じる教授もいたが、「目下悩める人々のため〔中略〕菩薩の行」として行うものだ、との思いから、理解を求める場面もあった。

9年ほど部長をつとめ、公務多端となった1939年初めごろに退任したようである。

1920年代後半から30年代にかけて、社会状況は大きく変化した。身近に迫る強権的な圧力と、学内外のすぐ足下で起こる騒擾の中で、事なかれ主義に徹する教授陣も少なくなかった。大学教員として使命感を持ち、現実的に取り得る対応を重ねた、というのが、西田新聞部長の姿勢ではなかろうか。文化統制の元凶と評されてきた西田であるが、今後はより丁寧に検証していくことが求められる。

参考「西田直二郎関係資料」Ⅱ-26、Ⅱ-38、Ⅱ-45(京都大学大学文書館)/『京都帝国大学新聞』第111号1929・10・5/京大新聞史編集委員会『権力にアカンベエ!』草思社、1990年/京都大学百年史編集委員会『京都大学百年史総説編』1998年/入山洋子「資料紹介 西田直二郎日記(3)」(『京都大学大学文書館研究紀要』20号、2022年)

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コラム④ 一般紙記者との関わり 部室に来訪、突撃取材も


1937年卒の関原利夫氏と嶌信正氏、35年卒の堀川直義氏が『権力にアカンベエ』に寄せたコラムには、一般紙記者との関わりが記されている。

◉「ハコ乗り」でとる「車中談」

堀川によると、当時、「時の人が列車で旅行するとき、『ハコ乗り』といって、新聞記者が同乗し、いわゆる『車中談』をとることが一般的に行われていた」。通史でふれた鳩山文相への直撃取材は、堀川が一般紙記者と並んで敢行したという。

◉一般紙記者が毎日部室に

京大には当時から、一般紙の記者が常駐する記者クラブがあった。関原によると、「一般紙の京大記者クラブのメンバーたちは、毎日一度は新聞部に顔を見せ、入山さんや、ときにはわれわれにも学内ニュースを取材することが多かった」という。親交を深めた記者は、滝川事件2周年記念講演会をめぐる退部騒動の際、「好意的な記事を書いてくれた」という。こうした縁から新聞社に就職する新聞部員も一定数みられた。

◉「評判がよかった」学生版

通史でふれた「カレッジセクション」について嶌は、「自由と文化の擁護を基調とした紙面づくりは当時京都の学生層の人気と関心を集めて評判がよかった」と述べている。

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コラム⑤ 「学生の雑誌」創刊 退部組の奮闘


1936年5月創刊の『学生評論』は、前年の滝川事件2周年記念講演会をめぐる報道差し止めに抗議して新聞部を退部した学生が立ち上げた雑誌である。創刊の経緯やその後の状況について、関係者が『アカンベエ』などに手記を寄せている。

それによれば、脱退騒動後、旧新聞部員は学内の出身高校別学生代表会議の委員らと話し合った。「大学新聞が学校当局の御用機関となり、学生大衆の声を反映しなくなった」との結論に至り、「学生自身による学生雑誌」の創刊に向けた準備委員会を組織したという。

編集方針について会議を重ねつつ、新聞部の入山の協力を得て、印刷所の選定や資金調達、編集発行人の確保などの見通しを立てることができた。このほか、同窓会や研究会に根回ししたり、滝川事件で京大を去った教授らを訪ねて寄稿を集めたりと準備を進め、脱退から1年、ようやく創刊にこぎつけた。数百部刷り、頼んで回った書店に数冊ずつ置いてもらった。

「学問・思想の自由を擁護し、滔々たるファシズムの浸透をくいとめようとする」ことを主目的とした。警察から目をつけられ、編集会議をしていた個人宅に警官が来たこともあったという。また、京大のみにとどまらず、「全関西、全日本の学生の自主的総合雑誌」を志向した。創刊号では大学の垣根を越えた学生の座談会を載せたほか、立命館や同志社、関西大などの学生からニュースを投稿してもらっていたという。

結局、財政難などにより37年6月で停刊した。再刊を図ったが、発行人や学生数人が検挙され、挫折したという。

中心となって創刊に携わった嶌信正氏(1937年卒)は、「時代的苦悩のなかで、牙をむいて押し寄せてくるファシズムの波に抗する特異な学生運動雑誌」と振り返る。

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お詫びと訂正
連載第二回(11月16日号)通史で、「38年9月、英仏両国がドイツに宣戦布告」とありますが、正しくは39年9月です。次の文の「同年4月」は「38年4月」の誤りです。お詫びして訂正いたします。

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