文化

〈日々の暮らし方〉 第11回 正しいビラの撒き方 〜なぜ、そしてどのように撒くのか〜

2009.05.16

現在では、もっぱらこの「ビラ」という名称が用いられてはいるものの、かつては「チラシ」と呼ばれたのであり、そして前衛的な一部の学生にあっては「フライヤー」と呼ばれているのである。ならば、今後はこの名称が一般的になり、「フライヤーの撒き方」といったほうが、後世にも残るのではないかとも思われるが、残念ながらこの「フライヤー」という名称は、いまだ市民権を得てはいない。国語審議委員会の調査では、これを「宣伝を目的にした紙片」であると理解できたものは、わずか6%しかいなかったのだ。33%は「飛ぶ人」と答えたのであり、25%は「揚げる人」と答えた。残りの36%は「FF9のキャラクター」「スペインの女優」などとおよそ的外れな雑多な回答をした。

しかしこの名称の設定に関してはもう少し根深い問題が存在している。同一のものの新旧の名称という単純な認識に、ここにきて国語審議委員会の連中が不満を漏らし始めたのだ。概してこのような組織にはひねくれた者が多いから、本来ならば黙殺してやればいいのだが、この委員会12人のうち、実に7人が京都大学名誉教授であることを考えると、その京都大学の教室でビラを撒く際、この不満を無視するわけにはいかないだろう。

委員会の主張のポイントは、その名称の差異は、撒かれるその瞬間に現れるということだ。まずもっともわかりやすいのが「チラシ」だろう。これは説明するまでもないから、「散らす」から「散らし」であり「チラシ」なのである。撒く際はできる限り乱雑に、5枚に1枚ぐらいは床に落とすのが望ましい(注)。そしてここまではわかりやすいのだが、ここからが少しばかり難しい。「ビラ」という呼称が何を由来としており、なぜ定着したかという問題である。ビラの由来としては二説ある。一つは英語の“bill(紙片)”、もう一つは撒く際に、「ビラッ」とするからというものだ。

一見すると後者は随分と幼稚で情けなく、前者のほうがスマートで自然に思える。しかしながら定着のしやすさという観点で見れば、幼稚で馬鹿らしいものほど強いのであり、むしろ「ビル」を「ビラ」と変化させることのほうが少々無理を感じざるを得ない。そして、これが何よりの根拠となるのだが、撒く際にたしかにそれは「ビラッ」とするのである。

ではフライヤーは何なのかという点については、いまだ国語審議会も態度を決めかねている。かなり思いがけない話だが、彼らはそれが「飛ばす」か「揚げる」かについて論争を続けているのである。「飛ばす」については理解できないことはない。フワッと机の真ん中に飛ばしてやるのだろうということは想像に難くないのだが、「揚げる」というのはかなり難しい。目下のところ、宣伝のための紙片を揚げた、という話は確認されていないため、揚げた場合どのようなことになるのか、またどのように、つまりコロモはどうにすればよいのか、油の温度はどのくらいが適切か、などわからないことが多い。

委員会の反対派はそのようなことは試す価値すらないという姿勢を崩さず、委員会としての「揚げる」実験は先送りにされ続けているが、「揚げる」派5人のうちの4人が前述の京都大学名誉教授であることを鑑みれば、もしかしたら我々には「揚げてみる」ことがもとめられているのかもしれない。そしてこの試みを乗り越えて、初めて「フライヤー」という名称が市民権を得ることになるのではないだろうか。

京都大学日々の暮らし方・編


注: 近頃では、新聞などにきれいに織り込まれているものをチラシと呼ぶ向きが強いが、国語審議委員会の面々は断固としてあれをチラシと呼ぶことはしない。

※※編集部注:本コラムは「京都大学日々の暮らしを考える会」の編集によるものであり、真偽のほどは保証できません。