文化

〈映画評〉『サバイバルファミリー』

2017.03.16

ある日電気が使えなくなったら

目覚まし時計の音で起床し、テレビを見ながら冷蔵庫から取り出した食品を電子レンジで温めて食べる。電車での通勤通学時間にはスマホで時間を潰し、仕事やレポートにはパソコンが欠かせない……。こんな現代日本で、ある日突然電気が使えなくなったらどうなってしまうのか。それを描いたのが、映画「サバイバルファミリー」だ。

主人公の鈴木一家は東京に住むごく普通の家族だ。能力はないのに偉そうな父親、生意気でスマートフォンを手放せない大学生の長男と高校生の長女、全く手伝おうとしない家族に手を焼く母親の4人は、一緒に暮らしてはいても気持ちもすることもいつもバラバラ。ある日突然電気が使えなくなり物流が止まったことをきっかけに、食糧確保のために九州で家庭菜園を営む祖父の家を目指すことになるのだが……。

都会育ちの一家が食料不足や頼る者のない不安の中で少しずつ逞しく成長していく姿もさることながら、本作品では電気のなくなった世界の姿が巧みに描かれている。作中ではただ停電するのとは違い、電池や車のバッテリーも機能を停止する。テレビもラジオも使えず、停電の規模もわからないなかで、鈴木家の人々がまずしたのは「とりあえず職場・学校へ向かう」こと。電気がないので会社入り口のオートロックのドアは開かず、電話もパソコンも使えないため仕事もほとんど何もできない。初日は教師が来られないことで自習になって喜んでいた高校生たちも、数日もすればいつまで続くともわからない状況への不安とどんどん減っていく人のせいで沈んでいき、長女も学校へ行くのをやめてしまう。家での暮らしも同様で、初日は明かりの消えた街の上に輝く星にしばし見とれる余裕があったが、冷蔵庫が使えない中でどんどん食べ物がなくなり、遂には水と食べ物の確保できる場所へ移動することを決意するのである。この「困るけれど少し楽しい非日常」から、「いつまでも続くかもしれない緊急事態」へとだんだん移り変わっていく過程が、実に人間的で見ていて面白い。

原作は当作品監督である矢口史靖が書いた同名の小説。作品製作にあたり、「電気で動くものが全てなくなったらどうするか」というアンケートを実施したり、飲食物を保存食やバッテリー補充液でまかなう東京―鹿児島間移動に挑戦したりと、人の感覚を目一杯取り込んだからこそ描き出せるリアルな表現に注目だ。(鹿)

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