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きょうの妖怪 Vol.3 北白川の仙人「白幽子」 富岡鉄斎 没後100年記念

2024.05.16

きょうの妖怪 Vol.3 北白川の仙人「白幽子」 富岡鉄斎 没後100年記念

『近世畸人伝』に描かれた白幽子。同書では、実在の人物か疑われた

京都に伝わる様々な妖怪(怪異)を取り上げる特集「きょうの妖怪」。第3弾の今回は、京大生も多く住む「北白川」の伝説的人物「白幽子(はくゆうし)」を紹介する。山中の岩穴で暮らし、200年生きたとも言われる白幽子は、今年没後100年を迎えた〈最後の文人画家〉富岡鉄斎による再興を経て、今も地域で生き続けている。ハイキングコースの途中にある岩穴跡を訪ねた。(扇)

目次

岩穴に住む200歳!?
石碑を建てた富岡鉄斎
墓石になって「とくしおった」

岩穴に住む200歳!?


京大に通う人間なら誰もが目にしたことがあるであろう市バス3号系統の終点「北白川仕伏町(きたしらかわしぶせちょう)」。そのそばのバプテスト病院の脇に、地域の方々が整備したハイキングコース「北白川史跡と自然の道」の案内がある。石がゴロゴロと落ちている小川に沿って、というよりも小川の流路の只中を進んでいく。ものの10分足らずで、苔むした神社に着く。道が二手に分かれ、左に進むと、その先は落ち葉が敷き詰められた急斜面だ。木に結ばれた赤や黄色のテープと地図を目印に、少し不安になりながらも進むと、20分ほどで、白幽子の住んでいたとされる岩穴跡に到着する。

岩穴跡への道中の小川


白幽子が住んだとされる岩穴の跡。中央の石碑は富岡鉄斎が建てたもの



* * *

白幽子の名を後世に知らしめたのが『夜船閑話(やせんかんな)』(1757年)という書物である。臨済宗中興の祖と名高い白隠(はくいん)禅師が72歳の時に書いたものだ。

このころ、白隠が住職を務める寺には方々から選りすぐりの修行僧が集まっていたが、日々激しい叱咤と痛棒(つうぼう)を受けて、内臓に痛みを抱えていた。これを心配した白隠は、自身が若かりし頃、医者が治せない病に苦しみ、すがる思いで白幽子を訪ねて全快した記憶とその治療法を書きのこすことにしたのだった。

当時の白隠の病状は深刻だった。修行を続けて2―3年。早くも悟りを開いたかのように思えたが、真の悟りではないと気づき、寝食を忘れて死ぬ気で修行に励んだ。それが心身に響き、肺の痛み、足冷え、耳鳴り、幻覚、多汗などに襲われた。名医を探したが、どの薬も効果がない。そんな時、とある隠者の噂を聞いた。

「ある人がいうには、山城国の白河の山の中に岩居(がんきょ)している人がいる。世間ではこの人を白幽先生と呼んでいる。年齢は百八十歳、ないしは二百四十歳であり、人里から三、四里離れたところに住んでいて、人に逢うことを好まない。人が訪ねていくと必ず急いで避けてしまう。賢人か愚人かまったく分らないが、村人たちは仙人だといっている。」(注①52頁)

そこで、1710年の1月中旬、東美濃から京都に向かった。荷物を茶店におろし、村人に白幽子の住まいを尋ねると、遥か遠くの渓流を指さす。渓流の水の音に従って1里ほど進んだが、渓流も道もなくなった。そのとき出会った老人は、遥か遠くの雲かすみの間を指さし、道を教えてくれた。

険しい岩の上、露に濡れた草の間を登っていくと、人里離れた心地がして、体も魂も震えた。呼吸を整え、恐る恐る簾(すだれ)のなかを覗くと、白幽子が目をつぶり座っているのが朧(おぼろ)げに見えた。

仙人といわれれば、真っ白な髪のイメージを持つかもしれない。しかし、白幽子は少し違っていた。膝まで届く白髪交じりの髪に、ナツメの実の如く赤い顔をしている。

白隠(手前)と白幽子(奥)の対面の様子(富岡鉄斎 画)
岡野廉平出版『夜船閑話』(1933)(大阪府立中之島図書館所蔵)



白隠が自らの病気について話し頭を下げて助けを求めると、白幽子は手を取って診察し、険しい顔をした。節度を超える修行による重い禅病(一種のノイローゼ)との見立てだ。

そして、病因を詳しく解説した。火は上に昇ることを、水は下に流れることを好む。これを弁えずに過度な修行をすると、陽の臓器である心臓の気が燃え上がって肺が疲労する。体の上部は冷涼に、下部は温暖に保つことが大事だ、と。いわゆる頭寒足熱(ずかんそくねつ)である。

また、「軟酥(なんそ)の法」という健康法も教えた。これを実践するにはまず、頭の上にやわらかいバター(軟酥)がのっているのを想像する。それが段々と溶けて、肩、肘、胸、五臓六腑にしみわたり、足の土踏まずまで流れていくのを感じる。そうすると、あらゆる気の滞りが消え、どんな病気も治るのだ、と。

白幽子はあらかた治療法などを話した後、「もう何も言うことはない」といって目をつぶり黙ったので、白隠は涙ながらにお礼を言って岩穴を出た。ところが、夕日が沈む下り道を進んだその時、下駄の音が谷間に響いた。白幽子が見送りに来たのだ。白幽子は談笑しながら飄々(ひょうひょう)と山道を下り、渓流に行き着くと、流れに沿って下るように告げ、「悲しそうに別れた」(注①74頁)。人に会うことを好まないという噂もあったが、本当に人付き合いが嫌いなのか。

ところで、後述する墓石の発見などにより、現在では白幽子は実在したと考えられている。だが、未解決の問題がある。それは、寺の記録では白幽子の没年は1709年で、白隠がその翌年に訪ねるのは不可能だということだ。何かの間違いだと説明することもできるが、皆さんはどう考えるだろうか。

白幽子の特徴(『夜船閑話』より作成)
・年齢は百八十歳、ないしは二百四十歳(52頁)
・人に会うことを好まず、訪ねると必ず急いで避ける(52頁)
・人が礼をつくして教えを乞うと、少し話をする(53頁)
・天文や医道に詳しい(53頁)
・岩穴の入口には、葦で作った黄と白の簾が垂れ下がる(54頁)
・膝まで長く垂れ下がった白髪交じりの髪(54頁)
・ナツメの実のように赤い顔(54頁)
・大きな布の上着をかけ、草で作ったむしろに座す(54頁)
・住む岩穴の広さは5~6尺(約150~180cm)四方(55頁)
・衣食の道具はまったくない(55頁)
・机の上に中庸、老子、金剛般若経を置く(55頁)
・栗などの木の実を食べ、鹿などと一緒に眠りを貪る(55頁)
・指の爪が半寸(約1.5cm)も長い(55頁)
・幼少のとき多病も、妙術により自力で大半を治す(72頁)
・自分の歳を忘れた(73頁)
・中年の頃、わけあって若狭国の山中におよそ30年隠遁(73頁)
・白隠を見送る際、大きな駒下駄を履き、細い杖をつく(74頁)
※ページ数は、鎌田茂雄『禅の古典10 夜船閑話・薮柑子』の該当箇所

地域の方々が制作、配布している地図の一部(北白川愛郷会提供)。北白川愛郷会の西村さんは、「地域でも白幽子を知らない人が年々増えてきている。風化しないよう取り組んでいる」と話す


登山路にある地図置場。蓋の裏に白幽子が描かれているものも



①鎌田茂雄『禅の古典10 夜船閑話・薮柑子』(1982)

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石碑を建てた富岡鉄斎


「最後の文人画家」富岡鉄斎(とみおかてっさい)(1836―1924)。鉄斎というとやはり画が注目されがちだが、ここではその「白幽子愛好家」としての一面に光をあててみたい。京都に暮らした鉄斎は白幽子の墓碑を再建し、その住居とされる岩穴の前に石碑を立てた。なぜそこまで白幽子に熱を上げたのか。

富岡鉄斎(国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/)



その問いと向き合うにはまず、鉄斎の行動力の高さに注目しなければならないだろう。我々がよく目にする、長い杖を持ち長い髭をたくわえる晩年の肖像からは、あたかも山奥に籠もる仙人のような印象を受けるが、鉄斎は活動的な人物だったと思われる。それを象徴するのが、鉄斎の年表に記された「~に遊ぶ」という記載の多さだ。例えば、大阪から海路で鹿児島に赴き約2か月後に帰京、北海道・東北・関東を約5か月にわたり旅するなど、旅行好きの一面が窺(うかが)える。

また鉄斎は非常に研究熱心だった。白幽子に関しても多くの自筆メモを残しており、「洛中洛外を丹念に歩いて踏査し、耳よりな話は細大洩らさず聞き逃すまいと、いつも聞き耳をたてていた」と分析されている (注②47頁)。

鉄斎の行動を追いかけてみよう。鉄斎は1903年、盗難の被害に遭った白幽子の墓碑を再建した。この墓碑は、京大吉田キャンパスの東の「神楽岡(かぐらおか)墓地(吉田芝の墓地)」にある。鉄斎は昔の人の墓を探して修理することを趣味にしており、何の縁故もない狩野探幽らの墓も修理していたという(注③72頁)。

盗難の被害に遭った元々の墓碑は高知を経て後に東京の青山霊園で発見され、1942年以降に京都の法輪寺(だるま寺)に移された。したがって現在、白幽子の墓碑は市内2か所にある。

墓碑に続いて鉄斎は、白幽子の住居と思しき岩穴の前に石碑を建てた。1906年11月のことで、場所を探し当てたのも鉄斎本人だ。鉄斎は石碑の裏側に碑文を彫っている。そこには、墓が盗まれた経験から、白幽子の岩穴や井戸もなくなることを心配し、「永久にこの場所がわかるように計画した」のだと記されている(「京都市いしぶみデータベース」より)。

また、鉄斎は岩が切り出されることを心配していたようだ (注④36頁)。北白川は白川石という花崗岩を産する土地である。鉄斎は、石の採掘のために岩穴が無くなることを、ひいては、白幽子の生きた証が無くなることを危惧したのだろうか。

石を切り出す人が描かれている、都名所図会「北白川」(初版1780年)(国際日本文化研究センター所蔵)



1908年10月には、石碑の前で鉄斎が茶会を開いている。参加したのは、鉄斎の一人息子で京都帝国大学文科大学=現在の京大文学部=の講師を務めていた謙三や、鉄斎とともに墓碑・石碑を建てたとされる相国寺の全信和尚ら約18人。鉄斎はその模様を画にしている。画の中央に描かれた石碑を囲むように鉄斎らが座っているが、心なしか石碑は実物より大きく、誇らしげに描かれているように見える(画は注②参照)。何とこの時にはまだ珍しかったであろう写真も撮られている(写真は注⑤巻頭参照)。

鉄斎は後年、自身の訪問客に対し次のように語っている。「この白隠と云うのは、そーーれは偉い坊主である。六十年この方白隠程の禅師はいない。今時の坊主には見る事は出来ん。(中略)白隠の著したものの中に『夜船閑話』と云う書物がある。その中に白隠が白幽子を訪うて教えを乞う記事が出ている。私はそれを読んで、その岩窟を探して碑を建てた。書物を見ると天下の事は皆分かる。そこへ何日(いつ)か案内してあげてもよいのだが」(注⑥3頁)。

この訪問客というのは、洋画家の正宗得三郎(まさむねとくさぶろう)。訪問したのは、1919年の「晩秋やや寒い日」だった。かねてより鉄斎の作品に憧憬し、数年前に依頼した作品を受け取りに行ったのだが、鉄斎本人に会えるとは思ってもいなかった。喜び、渡された紙包みを開けると、青い木の葉の上にのる蝸牛(からつむり)の画があった。「身をいるるわずかばかりの家ながら住めば事足るかたつむりみよ」。画には歌が添えられていた。

鉄斎はやや笑顔で、「この歌は蝸牛によつて世の戒めに作つたものぢや――私の書室も小さなものだが、それでも用は足りる」と語った。その話の流れで、先ほどの白隠と白幽子の話がされた。

蝸牛の比喩は、小さな岩穴で暮らしたとされる白幽子にも通じるところがある。他にも理由はあろうが、鉄斎は少なくともこのような観点で白幽子を敬愛していたと言えるのではないだろうか。


②伊藤和男 「続・白幽子と鉄斎」日本美術工芸(289)(1962)
③小高根太郎『富岡鉄斎』(1985)
④伊藤和男「白幽子と鉄斎」日本美術工芸(278)(1961)
⑤伊藤和男『白幽子 :史実の新探究』(1960)
⑥正宗得三郎『富岡鉄斎』(1942)※仮名遣いを改めた

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墓石になって「とくしおった」


戦後の白幽子伝承を語るうえで欠かせないのが、『北白川こども風土記』(1959年)だ。これは、京都市立北白川小学校の子どもたちが郷土学習の一環として自分たちの「目で見、耳で聞き、足でたしかめた」(当時の書籍帯)、北白川の歴史を記した本である。そこに、「仙人になった白幽子」と題する10頁のレポートが掲載されている。

同書は国立国会図書館のウェブサイトで公開されており、利用者登録を行えば、無料で読むことができる。

『北白川こども風土記』の直筆原稿(京都大学人文科学研究所 菊地暁先生提供)



【紹介】伊藤寛「仙人になった白幽子」


(京都市立北白川小学校編『北白川こども風土記』所載)

本文は、「一 西村さんのお話」「二 白幽子のどうくつ」「三 白幽子のお墓」の三部構成となっている。

「一 西村さんのお話」では、白幽子を知った経緯を読者と共有したのち、生まれた時から北白川に住み、郷土の歴史を調べているという「西村さんのおじさん」から聞いた白幽子の話を、聞き書きの形式で伝える。

「いつか、北白川の郷土について勉強した時に、先生から、むかし、北白川の山奥に、『白幽子』という仙人が住んでいたということを話してもらった。ぼくは、それを聞いて、『へえ、ほんまやろか?』と思った。」(174頁)

伊藤少年は、「西村さん」の家を訪ね、『夜船閑話』を皮切りに、おじさん自身の推測も入り交ざった言い伝えを教えてもらう。おじさんの口からは、白幽子と村人の交流の様子も語られ、人との交流を避ける面が強調された『夜船閑話』の記述とは対照的だ。

「そやな、時々、白川村におりた時は、村人たちからごはんなどごちそうになって、また山のどうくつへ帰っていったのやろうな。そういう時には、おもしろい話などして聞かせたり、時には、村人たちがお祭だからきてくださいというと、白幽子は、きげんのよいときにはきてくれたそうやな。」(179頁)

そして、話を聞く伊藤少年自身の感想もしっかり記録されている。なかでも面白いのは、白幽子の墓石があちこちに運ばれたと聞いた後の感想である。

「ぼくは、白幽子は死んでから、おはかの石になって、四国や、東京に行き、とくしおったと思った。まだぼくのいっていないところばかりだ。ぼくも、白幽子よりもっとえらい有名な人になり、日本国中の人達によくよく知られるようになって、山の上で死んでやろうかな。そして、ぼくも白幽子のおはかのように、日本中どころか、世界中つれていってもらいたいものだ。」(179―180頁)

いろいろなところに行って「とくしおった(得した)」、自分も山の中で死んで世界中に連れて行ってもらいたい、という発想はなかなか持ちえない。子どもながらの柔軟な感性というほかない。

「二 白幽子のどうくつ」では、話を聞いた翌日、おじさんに、白幽子が住んでいたという洞窟へと連れて行ってもらった思い出が記されている。

「ぼくは、まわりを見て、しずかできもちがよいし、白幽子っていいところに住んでいたなと思った。」(180頁)

特筆すべきは、鉄斎の建てた石碑がある岩穴とは別の「白幽子の第二のどうくつ」にも行っていることである。ただし、おじさんは、白幽子が住んでいたかは「はっきりどちらとも、いえへん」と言っている。

一日の最後におじさんは、白幽子の人物像を語った。

「白幽子は、世の中がきらいになって、わざわざこの白川の川奥へにげてきたのではないし、また、ものずきで仙人みたいなくらしをしたんでもないし、ただ修養して、世の中のほんとうの道をさとりたかったわけや。そやから、おじさんは、自分の信念に生きた白幽子は、えらい人物やと思っとる。」(182頁)

しかし、伊藤少年は「さあ……わからへんわ。」といったので、全員大笑いというかたちで一日が終わる。物語の起承転結がしっかり作りこまれている。

「三 白幽子のお墓」は、短く1頁にも満たない。

「白幽子のお墓へは、だれも連れていってくれないので、本岡君と二人でさがしながらいくことにした。」(182頁)

もしかすると、子どもたちの成長を促すため、周囲の大人はあえて手助けしなかったのかもしれない。伊藤少年たちが無事「しばのぼち」で白幽子の墓を見つけ、隣のお墓からお花を少し拝借してお参りしたところで、物語はおわりを迎える。

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