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きょうの妖怪 Vol.2 人喰い地蔵と三高地蔵 ー京大との不思議なつながりー

2023.05.16

きょうの妖怪 Vol.2  人喰い地蔵と三高地蔵 ー京大との不思議なつながりー

人喰い地蔵

京都に伝わる様々な妖怪を取り上げる連載「きょうの妖怪」。今回は、現在京大病院がある辺りに建立され、明治初期に近くのお寺に移された歴史をもつ「人喰い地蔵」を紹介する。また、同じお寺に祀られており、京大の前身、第三高等学校の名前を冠した「三高地蔵」も取り上げる。(扇)

目次

人喰い地蔵 京大病院との地理的つながり
三高地蔵 「学生が担ぎワッショイワッショイ」

人喰い地蔵 京大病院との地理的つながり


むかし、京大病院の辺りには森が広がっていた。鬱蒼とした森の中には、とある地蔵が佇む。人喰い地蔵――その恐ろしい名前とは裏腹に、とても穏やかな顔をしたお地蔵さんだ。

「人喰い」と呼ばれる理由


人喰い地蔵は正式には「崇徳院地蔵(すとくいんじぞう)」という。その名の通り、崇徳上皇を祀る石仏である。

崇徳上皇は、平安時代末期の権力争い(保元の乱)で敗れて讃岐に流され、非業の死を遂げた人物で、菅原道真、平将門と並んで、日本三大怨霊の一人に数えられている。というのも、死後、都では大火や流行病、飢饉や大地震が発生し、上皇の祟りだと恐れられたからだ。

崇徳上皇は、贖罪の意思を示すため自ら写経し都に送った経文が送り返されたことで、「経文は鬼神に捧げ自分も鬼となって恨みを晴らす」と自らの舌先を食い破り、その血で誓いをたてたともいう。

都の人々はその霊を慰めるため、森に地蔵をおいて祀ることにした。度重なる災厄で多くの人々が亡くなった恐ろしさのためか、「すとくいん」がいつしか訛って「ひとくい」に替わってしまったと伝えられている。

人喰い地蔵は、1880(明治13)年ごろ、現在の京大病院がある場所から積善院凖提堂(左京区聖護院中町)に移されたのだという。以下では、なぜ移されたのか、どこにあったのかを見ていく。

積善院凖提堂



なぜ移されたのか


京大病院の前身は1897年の勅令に基づき99年に開設されているから、人喰い地蔵が移されたとされる時期とは約20年のタイムラグがある。したがって、病院建設に伴って移されたとは考えにくい。

これは筆者の想像の域を出ないが、京都市の近代化に伴う道路・市街地整備の一環で移されたのではないかと思われる。

現に、京大病院のすぐそばにある熊野神社は、近代以前は現在の丸太町通りの東の突き当たりにあったが、市電の軌道敷設に伴い社域を狭められ、東山丸太町交差点の北西角に収まったという経緯がある。

熊野神社



どこに居たのか


京大病院は東京ドーム約3個分の敷地を誇る。人喰い地蔵はそのどこに「居た」のか。筆者は、古地図や史料の記述、京大病院の工事に伴う発掘調査記録、参考文献に掲げた論文などから、おおよその場所を推測した。その歴史を辿るため、まずは保元の乱まで時計の針を戻すことにしよう。

①保元の乱の勃発
1156(保元元)年、保元の乱が勃発した。これは、皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、関白家における武士らの権力争いがあいまって起こった内乱である。

崇徳上皇は、後白河天皇らに相当強い恨みを持っていたのだろう。というのも、その15年前、弟の近衛天皇に自身が泣く泣く譲位したという背景があるうえに、近衛天皇が17歳で崩御した後、またしても自身の弟である後白河天皇が即位して、自身の子を立てることもできなかったからである。

そんな折、実権を握っていた鳥羽上皇が亡くなり、チャンスだと考えたのかもしれない。天皇方から挑発も受けた崇徳上皇は、ついに後白河天皇らを討とうと決意し、拠点とした「白河北殿」に武士を集めた。

そこに後白河天皇方が急襲し、火を付け、白河北殿は焼失した。崇徳上皇方はわずか半日の戦乱で敗北を喫することになったのである。

白河北殿は、現在の京大熊野寮の辺りにあったと考えられていて、今でも熊野寮に石碑が置かれている。

白河北殿の石碑(熊野寮内)



②崇徳院廟の造営
前述した通り、崇徳上皇の死後、都には様々な災厄が降りかかった。そこで、崇徳上皇の死から13年後の1177(安元3)年、後白河法皇の意向で、崇徳上皇は崇徳院という号を贈られることになった。鴨長明が『方丈記』に書き記した「安元の大火」の約3か月後のことである。

そして、1184(寿永3)年には、保元の乱の主戦場である白河北殿の辺りに、崇徳上皇を祀る「崇徳院廟」が造営された。また、それとは別に、私的な礼拝施設として「崇徳院御影堂」が作られた。

ただ、人喰い地蔵がこれらの中で祀られていたのかは分からない。

③崇徳院廟から粟田宮へ
1191(建久2)年、後白河法皇は病に苦しみ始め、翌年に亡くなった。これも崇徳上皇の祟りと考えられたためか、同年、崇徳院廟が所在地の名前をとって「粟田宮」と呼ばれるようになることや、崇徳上皇の命日に祭祀を行うことが廟の前で報告された。「廟」を「宮」に改めたことに意味があったのだろう。

④廃絶と再建
粟田宮はその後、鴨川の洪水の被害に悩まされ、東に移転するなどした。そして、応仁の乱(1468)の戦火を受け、一時廃絶した。

ところが近世になって、粟田宮があったのとは別の場所において、その古跡が祀られることになった。

⑤お寺に移るまで
この地に住んでいた画家、富岡鉄斎(1837―1924)は、幕末の様子を描いた「聖護院村略図」において、「車道」という道のそばに「人食地蔵」と書き入れており、熊野神社や丸太町通りとの相対的な位置関係から、人喰い地蔵のおおよその所在地を知ることができる(※1)。

また、20世紀後半に行われた、京大病院の工事に伴う発掘調査によると、その付近でこの「車道」と思わしき遺構が見つかっている(※2)。

これらをもとに考えると、人喰い地蔵は積善院凖提堂に移されるまで、現在の京大病院の南のほう、地図中で示した辺りにあったと推測することができる。

【注釈】
※1浜崎一志・ 宮本一夫「第3章 京都大学病院構内AF19区の発掘調査」54頁(1987)に、富岡鉄斎「聖護院村略図」が掲載されている。
※2上原真人・岡田保良「第3章 病院内遺跡AE15の発掘調査」(1997)

【参考文献】
濱崎一志「都市空間の変遷に関する歴史的考察」90頁以下(1994)
原水民樹「崇徳院信仰史稿(一)」(1997)

積善院凖提堂の境内。左奥に人喰い地蔵がある。



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三高地蔵 「学生が担ぎワッショイワッショイ」

澄ましたお顔をした、背の高い地蔵が三高地蔵。



境内には、京大に縁のある地蔵がもう一つある。京大の前身である、第三高等学校に由来する名前がついたお地蔵さんで、「三高地蔵(さんこうじぞう)」という。積善院凖提堂の方によると、三高地蔵はもともと吉田二本松町(吉田寮のそば)で祀られていたが、地域の住民だけではお世話をするのが難しくなり、約10年前に移されることになったという。

三高地蔵の周りには、奉納された地蔵が並んでいる。



今回特別に、そのころ地域の方が制作した、三高地蔵の名前の由来などを書いた絵巻物を見せてもらった。カレンダーの裏に描かれた、手書きの温かみのある絵巻物。冒頭には、地蔵が「八十余年」鎮座していると書かれている。

[紙面には絵巻物の写真を掲載しています]

また、三高地蔵が地域で祀られるようになった経緯について、第三高等学校の学生が「学園祭で多くの地蔵を赤フンに裸で担ぎワッショイワッショイと円を描き踊り楽しんだ後、地蔵は運動場の片隅に放置」されていたので、「時の長老がこれは気の毒と相談の上、一体を町内の守りにとお祭りすることとなった」という、衝撃的なエピソードが語られている。

人喰い地蔵と三高地蔵。京大と縁がある2体のお地蔵さんが、1つのお寺に並んで祀られるようになったことは、とても興味深い。京大からも歩いて行けるので、足を運んでみてはいかがだろうか。

◆積善院凖提堂
京都市左京区聖護院中町14
神宮丸太町駅より徒歩10分、
「熊野神社前」バス停より徒歩5分
拝観時間は9時から16時
人喰い地蔵は北西の角に、三高地蔵は人喰い地蔵の右のほうにある。


周辺地図。人喰い地蔵と三高地蔵が積善院凖提堂にやってくるまでを図示した。



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