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きょうの妖怪 Vol.1 飴屋の子育て幽霊 「ゲゲゲの鬼太郎」誕生のきっかけに

2023.03.16

きょうの妖怪 Vol.1 飴屋の子育て幽霊 「ゲゲゲの鬼太郎」誕生のきっかけに

店頭に並ぶ幽霊子育飴(500円)

京都に伝わる様々な妖怪を取り上げる新連載「きょうの妖怪」。皆さんは「妖怪」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。コロナの流行初期に「アマビエ」が人気を博したことは記憶に新しい。感染状況が落ち着き、ふらっと散歩に出かけることができる今、身近なようでよく知らない「京都の妖怪」を見つめ直してみるのはいかがだろうか。初回の今回は「飴屋の子育て幽霊」を取り上げるとともに、平安京で生まれた代表的な妖怪を紹介する。(扇)

目次

飴屋の子育て幽霊
「ゲゲゲの鬼太郎」誕生のきっかけに
平安京と妖怪たち
【コラム】妖怪と幽霊のちがい


飴屋の子育て幽霊


あの世の入口へ

みなとや幽霊子育飴本舗の周辺地図


「京大正門前」からバスに揺られて約20分、「清水道」で下車すると、辺りは観光客でごった返している。ここから東に坂を上ると清水寺だが、反対に下っていくと何があるのか。そこには、あの世とこの世の分かれ目――「六道の辻」がある。

六道とは、仏教の教義における6つの冥界の総称である。この地が「六道の辻」と呼ばれるのは、平安京の東の葬送地、鳥辺野(鳥辺山を中心にして西方に広がる山麓一帯)に向かう道筋に位置していたためだ。

兼好法師は『徒然草』第七段において、「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」と記した。鳥辺野は、人生の無常を感じさせる場所であったのだ。

六道珍皇寺には、冥界に通じると伝えられる井戸がある。「わたの原 八十島かけて~」の歌が有名な、平安初期の官僚・小野篁は、昼間は朝廷に仕え、夜になるとこの井戸を使って冥界に行き、閻魔大王に仕えていたという。


「子育飴」伝説

六道の辻には他にも数々の伝説が存在する。今回紹介するのは、死後埋葬されてから子どもを出産し、飴を買って子どもに与えていたという、「子育て幽霊」の伝説だ。六道の辻には、「幽霊子育飴」を販売する、創業約500年の老舗「みなとや幽霊子育飴本舗」がある。似たような伝承は全国各地にみられるが、今なお飴を販売しているところは珍しいという。

◆六道の辻の子育て幽霊譚
慶長4(1599)年のこと、夜ごとに飴を買いにくる女がいた。
女が飴を買った翌朝に、代金を納めている銭箱をあらためると、木の葉が一枚入っていることが続いた。
不思議に思った当時の店主は、ある夜、女の後を追った。すると、女は墓地のある鳥辺山で姿を消し、土中から赤ん坊の泣き声が聞こえた。そこは身ごもったまま亡くなった女性を埋めた墓だった。寺に事情を話して掘り返してみると、墓の中には飴をしゃぶった赤ん坊がいた。
死後に生まれた赤ん坊のために、幽霊となった女が飴を買いにきていたのであり、飴の代金として渡されていた木の葉は、女の墓に供えられていたシキミの葉だったのだ。
生まれてきた赤ん坊は寺の住職のもとで育てられ、8歳のころに僧になった。修行を怠らず成長して高名な僧となり、寛文6(1666)年、68歳で亡くなった。
(みなとやのパンフレットなどより)


マンガを発見

店内には、幽霊子育飴に関する本や、雑誌・新聞の切り抜きなどが並んでいた。中でも印象的だったのは、京都精華大学の学生が描いたマンガだ。第20代店主の段塚きみ子さんによると、約10年前に描いてもらったとのこと。みなとやなどへの取材に基づき、非常に繊細なタッチで子育て幽霊譚を描いている。ぜひ作者の方にお話を伺いたかったが、お名前をネットで検索しても何もヒットしない。京都精華大学に問い合わせたところ、「そのような名前の卒業生はいない。ペンネームではないか」ということだった。このマンガを読んでみたい方は、ぜひとも、みなとやに足を運んでみてほしい。

店頭に並ぶ幽霊子育飴(500円)




琥珀のような飴

幽霊子育飴は、宝石のように透き通った琥珀色と、麦芽糖のやさしい素朴な味が特徴的な飴だ。現在では写真の通り固形の飴だが、伝説が生まれた当時は箸に巻いた水あめとして売られていた。

透き通った琥珀色が美しい幽霊子育飴


筆者が実家に飴を持って帰ったところ、祖母(73)は「子どものころに夜店で買った『たんきりあめ』に似ている。いまだに残ってたのね」と感慨深げに飴を味わっていた。


その他の伝承地

子育て幽霊の伝承は、六道の辻のほかにも、立本寺(京都市上京区)、大黒寺(京都市伏見区)、蓮台野(京都市北区)の市内3か所に伝わっている。

立本寺の伝説は、立本寺第二十世の日審上人(1599―1666)が、お墓の中で生まれた赤ん坊であると伝える。立本寺によると、上人の書き判(サイン)が壺の形に似ていることから「壺日審さま」との異名が付いていたところ、いつの頃からかこの名前がもとになって、「日審上人は立本寺の墓の壺の中で生まれた」とする伝説が生まれたとのことだ。現在は立本寺でもみなとやの幽霊子育飴が販売されている。


アクセス

◆みなとや幽霊子育飴本舗
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町80番地の1
「清水道」バス停より徒歩5分
清水五条駅より徒歩10分
営業時間10時~16時
定休日なし

◆立本寺
京都市上京区一番町107
「七本松仁和寺街道」バス停下車すぐ
北野白梅町駅下車徒歩15分


【参考文献】
京都の史跡を訪ねる会編『六道の辻をあるく』
村上健司『京都妖怪紀行――地図でめぐる不思議・伝説地案内』


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「ゲゲゲの鬼太郎」誕生のきっかけに

子育て幽霊譚は、大ヒット作品『ゲゲゲの鬼太郎』にも影響を与えた。

『ゲゲゲの鬼太郎』の作者・水木しげる氏(1922―2015)は、子育て幽霊を紹介した自著のなかで、「ぼくは『鬼太郎の誕生』にこの話を借用した」と書いている(『図説日本妖怪大鑑』)。

『鬼太郎の誕生』には、母親が赤ん坊のために飴を買って与える話こそ含まれないが、六道の辻に伝わる子育て幽霊譚と、埋葬された妊婦から赤ん坊が産まれることと、泣き声が聞こえたのをきっかけに赤ん坊を発見することなどが共通している。

水木さんは、みなとやの幽霊子育飴が好物だったという。雑誌の記事のなかで、「素直な甘さがいい。体にも良さそうだし、こういう飴は今時珍しいと思う」と述べ、「先日も五十袋取り寄せた」と明かしている(『週刊朝日』1997年1月31日号)。段塚さんによると、水木さんの事務所の職員がよくお店で飴を買っていたといい、水木さん本人が来店したこともあったそうだ。

今年の秋には『鬼太郎の誕生』を描く映画が公開される予定だ。映画のポスターには、鬼太郎のものと思わしき丸みを帯びた手が土の中から外に向かって突き出る場面が描かれている。

丸みを帯びた手が土の中から突き出る
©映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」製作委員会
https://corp.toei-anim.co.jp/ja/press/press988723006547032696.html


◆「鬼太郎」シリーズ
1953年ごろ、戦前の紙芝居「ハカバキタロー」をヒントに水木氏が創作した紙芝居が原点。現在の鬼太郎の基礎となるスタイルは、60年に貸本漫画『好奇伝』で描かれたもの。これが人気を呼び、貸本漫画『墓場鬼太郎』へと発展した。68年にはテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』が大ヒット。テレビアニメは、約10年おきに新たなシリーズが作られている。


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平安京と妖怪たち

「千年の都」とも呼ばれる京都の歴史は、今から約1200年前、桓武天皇が平安京に遷都したことにさかのぼる。平安京はその内外において数多くの妖怪が生まれた都市であった。

長岡京で不吉な出来事が相次いで起こり、ほんの10年ほどで都を遷すことにした桓武天皇は、新しい都を造るにあたり、都が「四神相応の地」にあることを重視したと言われる。「四神相応の地」とは中国からもたらされた考え方で、北に山が、東に川が、南に湖や池が、西に大きな道がある都市は栄えるというものである。四方の地形はそれぞれ、玄武、青龍、朱雀、白虎という聖獣になぞらえられて、それらが都を守ることで繫栄すると信じられていた。平安京の周りには、北に船岡山、東に鴨川、南に巨椋池、西に山陰道があり、「四神相応の地」として都に適した場所だと考えられた。

しかし、そのような防御のシステムもむなしく、都の内部・周縁においては、数多くの妖怪が生まれ、人々を怖がらせていた。

平安京の代表的な妖怪(地理院地図より作成)



上図は、京都市街地の代表的な妖怪を地図にまとめたものだ。かつての都では、どんな妖怪たちが跋扈していたのだろうか。なお、紙面の都合上、一握りの妖怪しか取り上げることができないこと、それぞれ諸説あることにご留意いただきたい。

①百鬼夜行 
都で捨てられた古道具は「付喪神」という妖怪に変化し、夜、列をなして練り歩いたという。これを「百鬼夜行」と呼び、都の北端をなす、現在の一条通で目撃されていた。ちなみに現在の一条通に所在する大将軍商店街は「妖怪ストリート」の別名を持ち、年に一度、仮装行列のイベントを行うなど、妖怪を利用した町おこしを行っている。

練り歩く古道具たち
(『付喪神絵巻 2巻』(京都大学附属図書館所蔵) 部分)



②③土蜘蛛 
武士・源頼光が熱病にうなされ寝ていた時、彼を襲った者がいた。その者は頼光に斬りつけられて逃げ出したが、周りの者が点々と続く血痕をたよりに後を追うと、北野天満宮の近くの塚にたどり着いた。その塚を暴くと、四尺(約1・2メートル)の大きな蜘蛛が現れ、これを退治したところ頼光の熱病は快復したという。この塚は、現在の上品蓮台寺または東向観音寺にあったとされる。

④鵺 
平安時代の末期、連日真夜中に御所の上空を黒雲が覆い、不気味な鳴き声が聞こえ、天皇がうなされるという騒動が起きた。ここで黒雲に向かって矢を放ったのが頼光の子孫、頼政である。彼の矢は黒雲に命中し、頭が猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇の化け物が落ちてきた。一説にはこの化け物が鵺であり、落ちてきた場所が「鵺大明神」、頼政が血の付いた矢じりを洗った場所が「鵺池」として遺されている。

⑤宴の松原の鬼 
宴の松原とは平安京の「大内裏」の中にあった森のこと。ある月夜の晩、3人の女房が宴の松原の辺りを歩いていると、美しい男が現れ、1人を森に誘い込んだ。しばらくして女房たちが探しに行くと、血の海が広がり、女の手足がバラバラに転がっていたという。

⑥朱雀門の鬼 
朱雀門は平安宮の正門にあたる。ある月夜の晩、笛の名人・源博雅が朱雀門の前で笛を吹いていると、同じように笛を吹く男が現れた。それから月夜の晩ごとに2人は一緒に笛を吹いていたが、後に男が鬼であると分かった。

⑦羅城門の鬼 
羅城門は大内裏の正門にあたる。ある月夜の晩、文章博士の都良香が羅城門の前で漢詩を詠じると、門の楼上から「あぁー」と深く感じ入る声が聞こえたという。

【参考文献】
村上健司『京都妖怪紀行――地図でめぐる不思議・伝説地案内』
藤田敏明『京都・魔界への招待』
黒沢賢一『京都街角の伝説』


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【コラム】妖怪と幽霊のちがい

日本民俗学の父と称される柳田國男(1875―1962)は、「オバケ(妖怪、化け物)」と幽霊の区別を強調し、オバケは「出現する場所がたいていは定まっていた」が、幽霊は特定の相手を目指して「てくてくと向うからやって来た」などと説明した(『妖怪談義』)。

しかし、現代妖怪研究の第一人者・小松和彦(1947―)は、幽霊は柳田国男の説明より「もっと多様な出現の仕方をしている」として、「祀られぬ霊的存在」全般を妖怪と考え、幽霊を「妖怪」の一種とみなした(『妖怪学新考』)。

本稿ではこの理解に従い、「子育て幽霊」を妖怪として扱った。


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