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京大新聞と文士たち 過去に結んだ文壇との縁

2022.11.01

京大新聞と文士たち 過去に結んだ文壇との縁

京大新聞に寄稿した作家・詩人たち

京大新聞が発行を開始して98年。過去に記事を執筆した著名な作家として、5月号では井上靖、7月1日号では太宰治をとりあげた。左の一覧を見ればそのふたりはほんの一例で、さらに多くの文人たちが、京大新聞に作品を寄せていたことがわかる。

ではなぜ、京大新聞に著名な作家の記事が掲載されていたのだろうか。今となっては、職業作家が学生新聞に記事を掲載する事例は少ない。京大新聞と文壇との関係について、関係者の回想や他の大学新聞との比較をもとに探っていく。(凡)

目次

文壇との伝手を辿って
新聞小説の系譜
他大学の顔ぶれ
大学新聞研究の可能性

文壇との伝手を辿って


京大新聞の歴史は1925年4月、学生団体である「学友会」を発行母体に、『京都帝国大学新聞』を創刊したことに始まる。一覧に挙げた文人は、縮刷版に収録された79年度までの紙面に記事を掲載しており、その内容も評論や随筆、散文詩など多岐に渡る。

原稿を依頼する際はOBの伝手を頼った。例えば井上靖について、50年に卒業した編集員が、京大新聞の65年の歴史を綴った『権力にアカンベエ!』のなかで回想している。靖は京都帝大卒業後、毎日新聞の学芸部に所属していた。芥川賞受賞直後、その編集員が京大新聞OBである学芸部長を尋ねた際、靖を紹介され文芸時評の執筆を頼んだという。その際「詩を書かせてもらえませんか」と言われたがなぜか断ってしまい、靖は残念そうな顏をしていたらしい。

作家を直接訪ねることもあったようだ。詩誌『ユリイカ』を主宰し、現代詩の発展に貢献した編集者・伊達得夫(だてとくお)は、京大新聞に所属していた42年の春、太宰治に小説の掲載を依頼した。当時のことを「発禁の思い出」という随筆で語っている。「当時太宰は新進作家で、その敗北的姿勢が戦争の重圧下にあったぼくたちの心情にこの上なく密着していた」。編集員の中にもファンが多く、執筆の依頼を決定。「ぼくは上京して三鷹のかれの住居を尋ねた。かれは心易くぼくの依頼をひきうけた」。

なお、原稿料に注目すると、大学新聞のメディアとしての立ち位置が垣間見える。学友会から独立後、50年代前半は販売部数と広告収入の減少で経営が厳しく、原稿料の支払いが滞っていた。その全てを清算することは難しく、伝・牧谿(もっけい)の『柿図』の複製と詫び状を送ったという。原稿料の存在は一般紙と共通するが、このような対応は学生新聞だからこそ許されたのではないだろうか。

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新聞小説の系譜


大学新聞が新聞の一種である以上、一般紙と文壇の関係にも注目する必要がある。現在でも多くの一般紙で小説が連載されているが、その端緒は明治時代、犯罪や火事、ゴシップなどをとりあげた「雑報記事」にある。

当時の新聞は体裁や内容によって「大新聞」と「小新聞」に大別できた。前者は漢文体で政治経済の記事を重要視し、主に知識人を対象としたのに対し、後者は口語体かつ全ての字にルビを振り、雑報記事を多く載せ庶民を読者層とした。雑報記事を執筆したのが、江戸後期の通俗小説家である戯作者だった。人情本や草双紙において、日常生活をいきいきと描写するその技術が、雑報記事と良い相性を示したのである。やがてこの雑報を連載形式で報じる「続きもの」が成立、フィクションを交えながら新聞小説の原型をつくった。

この続きものを小説欄として独立させたのが『読売新聞』である。86年1月に小説欄を新設。87年には、早稲田大学の前身・東京専門学校創設に関わった高田早苗(たかださなえ)が主筆となる。文芸色を強めていく読売は、幸田露伴(*1)や尾崎紅葉(*2)らを社員として迎えた。以後、紅葉の『金色夜叉』や夏目漱石の『虞美人草』(『朝日新聞』に掲載)など、文学史に残る数々の名作が新聞連載で誕生することとなる。新聞と文壇との関係は非常に近しいものだった。

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他大学の顔ぶれ


他の大学新聞にも目を向けてみよう。東京帝大で1920年に創刊した『帝国大学新聞』では、一覧に見える通り、京大新聞よりさらに多彩な作家が寄稿している。1週間ごとの発行で記事数が多いこと、近代文学史上に名を残した作家の多くが、東京を拠点に活動していたことが関係しているだろう。

東大新聞に寄稿した作家・詩人たち

東大新聞に寄稿した作家・詩人たち



一方、九州帝大で27年から発行された『九州大学新聞』(のち『九州帝国大学新聞』)の顔ぶれは地域色が強い。第6回芥川賞を受賞した火野葦平(*3)を始め、38年以来現在も続く文芸誌『九州文学』の作家が名を連ねている。福岡高校と広島高校の学生が中心となった同人雑誌『こをろ』のメンバーの名も見える。内容は詩や随筆、九州の文壇について語った評論が多い。九州を拠点とする文人にとって、九大新聞は作品発表の場のひとつだったことがわかる。

九大新聞に寄稿した作家・詩人たち

九大新聞に寄稿した作家・詩人たち



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大学新聞研究の可能性


現代の大学新聞が作品発表の場としての性格を失ったわけではない。京大新聞では97年、2008年、15年に文学賞を開催した。これは1959年、創刊1000号を記念し募集を始めた懸賞小説を復活させたもので、最初の選考委員は伊藤整(*4)と野間宏(*5)だった。97年の「京都大学新聞社新人文学賞」を受賞した吉村萬壱(よしむらまんいち)氏は、6年後に「ハリガネムシ」で芥川賞を受賞している。東大新聞主催の「五月祭賞」受賞が大江健三郎(*6)のデビューの契機となったように、大学新聞が文壇登場の足掛かりとなることもあった。

本稿の学生新聞と文芸の関係に関する検討は不十分なものだ。京大新聞と帝大新聞については、縮刷版に掲載された紙面のみの参照に留まっている。私立大学を含めたさらに多くの大学新聞の記事との比較、その成立過程や編集方針の違いなど、考慮するべき要素は挙げればきりがない。

学生新聞は一般紙と連関しながらも、異なる特性をもつメディアとして存続してきた。その文学との関わりを考察すれば、新聞と文学、メディアと文学の関係をより多角的に捉えられるだろう。大学新聞研究の意義の認知、その発展が望まれる。

*1
幸田露伴(1867~1947)
『五重塔』で紅葉と並ぶ名声を得、のち寄稿文や随筆、考証でも活躍した。

*2
尾崎紅葉(1867~1903)
85年に硯友社を結成、明治20年代の文壇を制覇した。代表作に『伽羅枕』『金色夜叉』など。

*3
火野葦平(1907~60)
『糞尿譚』で芥川賞を受賞。太平洋戦争で中国大陸に転戦しながら『麦と兵隊』などを執筆した。

*4
伊藤整(1905~69)
詩集『雪明りの路』を自費出版、のち小説や評論に転身。ジョイスの『ユリシーズ』翻訳でも有名。

*5
野間宏(1915~91)
戦時下の学生活動家たちの姿を描いた『暗い絵』で、戦後文学の代表作家となる。ほかに『真空地帯』など。

*6
大江健三郎(1935~)
東大在学中に『飼育』で芥川賞受賞。94年に日本人で2人目のノーベル文学賞を受賞した。


*紙面では「京大新聞と三島由紀夫」と題し、三島由紀夫『美しき時代』(1948年7月12日掲載)の全文と書評を掲載しています。

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