日本史で歩く京都 Season 3
2026.03.16
京都が新たに生活拠点となった新入生諸君。ご存知の通り、京都には歴史の授業で習ったような地名や施設が溢れている。三条大橋からホテルオークラまで歩いている間に、寺田屋事件で長州藩士が逃げおおせた動線を再現できてしまう。犬も歩けば歴史にあたるといった具合だ。歴史はとかく他人事だ。知っていた方が楽しいとは思うが、知らなくても生きていける場合がほとんどだ。
さて週末の行き先を決めよう。選択肢は多い。選択の根拠として、本質的な意義・目的よりも見た目や雰囲気が重視されがちな昨今において、改めて歴史を通して物事の位置付けを再確認する必要があるはずだ。本企画では先日実施された「日本史探究」の二次試験問題から京都の名所をピックアップした。先人が残した道標を辿って、京都を歩いてほしい。(編集部)
龍安寺を歩く
御霊神社を歩く
東福寺を歩く
バスを降りると、やわらかい静寂な空気が全身を包んだ。歩を進めると、雨が降ったりやんだりを繰り返す落ち着かない天気の中、大覚寺は山々に埋もれるようにひっそりと腰をおろしていた。ここを訪れたのは他でもない、嵯峨天皇の足跡を求めてだ。
809年、平安時代初期に嵯峨天皇は即位したが、翌年平城上皇と対立し平城太上天皇の変(薬子の変)が起こる。即位直後に混乱に直面しながらも、嵯峨天皇は様々な政治改革で安定した時代を築いた上、文化人としても優れた一面を持った。京大日本史大問2において、唐の影響を受けた弘仁・貞観文化を牽引した人物として「嵯峨天皇」を問う穴埋め問題が出題された。
嵯峨天皇は譲位した後、離宮嵯峨院で文化活動にいそしむ余生を過ごした。この嵯峨院がちょっとした経緯を経て後の大覚寺となる。初代門跡は嵯峨天皇の孫にあたる恒寂入道親王だが、「恒貞親王」と呼ぶ方が日本史学習者にはなじみ深いだろう。そう、承和の変で廃太子となった人物だ。藤原良房の陰謀に巻き込まれ命を危ぶまれた恒貞親王は、嵯峨院を寺院とし自身が住職となって身を守ることを選んだ。大覚寺創建のため上奏文を起草し、親王を助けたのが学問の神様として有名な菅原道真。大覚寺の敷地内、嵯峨天皇が造った風光明媚な景勝地・大沢池には天神島が浮かぶ。もちろん道真を祀ったものだ。経緯を知ると大覚寺に天神社が存在する理由にも頷ける。
政権争いに勝利した天皇の別荘が政争に敗れた皇太子の住処になるとは運命めいたものを感じるが、それから400年余り後、大覚寺は再び日本史に名を残す政争の舞台となった。南北朝時代である。13世紀半ば、後嵯峨上皇の子である亀山天皇と後深草天皇の間に皇位継承などをめぐる対立が生じた。後嵯峨・亀山・後宇多上皇が当時荒廃していた大覚寺に入寺して復興したため、亀山天皇の皇統は大覚寺統と呼ばれ、後深草天皇の持明院統と睨みあう時代が続いた。南北朝が統一された和解の地も大覚寺であるといわれる。
以後も荒廃と復興を繰り返したものの、嵯峨天皇の愛した大覚寺は今も変わらない場所にある。筆者が訪れた時間は人影が少なく、池のほとりの散歩を静かに楽しむことができた。ひやりとした山中の空気を感じながら「七分咲き」と説明された梅をゆっくり眺め、水鳥の羽ばたく音に耳を傾ける。蕾が入り混じる梅の枝は、しとしとと降り始めた雨にやわらかく濡れていた。(燈)
市バス204をわら天神前で降り、きぬかけの路を龍安寺へとテクテク登る。道中、クロワッサンの断面図のような地層が露出している。これは約2億年以上前に、プレート同士が押し合いひしゃげた跡、褶曲地層の断面だ。龍安寺にもまた、巨大な衝突を思わせる、日本史の褶曲地層を見出すことができる。ちなみに大問1・⑴の解答「応仁の乱」の東軍リーダーの細川勝元。彼が創建したのが龍安寺だ。
龍安寺は1994年に世界遺産に認定され、「禅精神の具現」と称される石庭が有名だ。石庭は住職の居間である方丈に面している。方丈へは、寺務所をかねた台所である庫裡を通る。庫裡に入って驚いた。玄関正面に筆の大書が飾られているが、その題が「飲酒」。詩人・陶淵明の作で「俗心を捨てれば、人里でも辺鄙な場所に住むのと変わらない」という趣旨の歌だ。酒の書の横に祀られた仏様も、その通りと涎を垂らしてうなずいている。禅と欲望の矛盾が垣間見えるようで微笑ましい光景だ。
方丈の北東には、手や口を清める蹲踞が据えられている。「吾唯足知(われただ足るを知る)」と刻まれ、水戸光圀の寄進だという。光圀は彰考館を設けて『大日本史』の編纂を命じ、水戸学の基礎を築いた。水戸学はやがて尊王論へと発展し、幕末の倒幕運動の理論的支柱となった。高潔な思想は時に争いを招く。
石庭を後にして境内を歩いていると、突如2㍍程の真っ白で滑らかなベルが現れる。ビルマ派遣軍自動車廠戦没者を慰霊する、ミャンマー様式の仏塔「パゴダ」だ。太平洋戦争中、日本軍は中国への物資補給路である援蔣ルートの遮断を目的にビルマに侵攻し、全土を制圧した。現地では日本軍と連合国、ビルマ抗日軍の間で激しい戦闘が続き、多くの兵士と民間人が命を落とした。このパゴダは、その悲劇を今に伝えている。
歴史を振り返ると、人の営みはいつも不完全だ。石庭には15個の石が配されるが、どの角度からも全てを見ることはできないと言われ、「不完全の美」を象徴するという俗説がある。日本史が多くの人を惹きつけてやまないのは、その褶曲した構造に拠るのかもしれない。(雲)
烏丸通を北上すると、上京区を東西に貫く上御霊前通がある。この通りの東に進んでいくと見えてくるのは御霊神社(上御霊神社)だ。京大からは北西に約2・5㌔。散歩にはちょうど良い距離だ。
「鎮霊のお社」として知られる御霊神社。参拝者の不安や怒り、悩みを鎮めるご利益がある。もともとこの地には上出雲寺があり、794年の平安京遷都の際に桓武天皇が奈良・平安初期に非業の死をとげた八柱の神霊を寺の御霊堂で祀ったと言われる。いつから「御霊神社」と呼ばれるようになったのか、変遷は定かではない。
桓武天皇によって祀られた神霊の中には、早良親王、吉備真備、橘逸勢が含まれている。早良親王と言えば、長岡京遷都の翌年に起こった藤原種継暗殺の首謀者として処罰され、死後に怨霊となったと言われる人物。このような怨霊をなだめるための儀式が御霊会であり、平安時代は疫病の流行や天災の原因を怨霊のたたりに求め、これをしずめることで平穏を取り戻そうとする御霊信仰が盛んだった。
御霊神社は重要な歴史の舞台でもある。1467年と聞いて、思い浮かべる出来事は何だろうか。おそらく多くの人が浮かべるのは、京大日本史大問1・⑴でも出題された応仁の乱だろう。11年にも及ぶ内乱の最初の合戦は、御霊神社で起こった。畠山政長が境内に布陣し、家督争いのライバルであった畠山義就が攻撃した。義就方に朝倉孝景らが加勢して、政長方は合戦の結果退いた。その年の5月から、細川氏(東軍)と山名氏(西軍)の全面的な戦に入り、長引いた戦で京の都は疲弊することとなる。その荒廃ぶりは『応仁記』の中で「花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量らざりき応仁の兵乱に依て、今赤土と成りにけり」と表されている。
毎年5月には御霊祭りが行われ、多くの露店と観客でにぎわう。特に還幸祭は祭礼として最古の御霊会を伝えているとされ、3基の神輿が氏子に担がれ、街を練り歩く。3基のうち最も古い「南之御座」は安土桃山時代に後陽成天皇から賜ったものとされている。
境内は木陰が多く、静かな空気を吸うことができる。新生活に疲れたら、心をしずめに歩いてみることにしよう。(悠)
京都の観光地は京都駅よりも北側に多いが、南側にも魅力的なスポットがいくつか見受けられる。今回紹介するのは東福寺だ。京大からは京阪に乗って15分程度で着くアクセスの良さ。時の摂政・九条道家が奈良の大寺院である東大寺と興福寺から一字ずつ拝借したのが由来だ。
九条道家は鎌倉時代の一級史料『玉葉』の作者である九条兼実の孫だが、母親が源頼朝の姪である関係で鎌倉幕府に協力的で、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されたのちには、子の三寅(後の藤原頼経)を4代将軍として鎌倉に送った。
さて東福寺だが、天龍寺や建仁寺などとともに京都五山に列せられる大寺院で、寺院内に塔頭と呼ばれる25の小寺院を持つ。京都五山に列せられている万寿寺もその中の1つだ。同じく塔頭の1つである芬陀院には雪舟作と伝わる庭園がある。芬陀院は九条家とともに五摂家に並ぶ一条家の菩提寺で、京大日本史大問1・⑺に出題があった一条兼良の墓も東福寺内に所在する。
東福寺で屈指の景観を持つのは通天橋だ。本堂から開山堂を結ぶ橋状の廊下で、下には渓谷・洗玉澗が地面を削るように流れる。夢窓疎石の弟子として活躍し足利義満も帰依した禅僧・春屋妙葩が架けたと伝わる通天橋からは、秋になると一面を紅で埋めるモミジが見渡せる。春屋妙葩は京大日本史大問1・⑵で出題があったように将軍家の氏寺・相国寺を開山したが、相国寺もまた京都五山に列せられている。
さて本記事では京都五山を5つ紹介したが、これらの上位に置かれた寺院がある。京都五山別格・南禅寺だ。京大から約3㌔という近場に鎮座する南禅寺。昨年国宝に指定された水路閣もさることながら、石川五右衛門が「絶景かな」と絶叫した伝説も残る三門や隣接する寺院・金地院など、見どころが目白押しだ。(燕)
百万遍→(市バス203)西大路四条→(市バス28)大覚寺→徒歩すぐ
・御霊神社
百万遍→(市バス201・203)烏丸今出川→徒歩15分
・龍安寺
百万遍→(市バス201・203)堀川今出川→(市バス12・51)立命館大学前→徒歩9分
・東福寺
出町柳→(京阪電車)東福寺→徒歩7分
さて週末の行き先を決めよう。選択肢は多い。選択の根拠として、本質的な意義・目的よりも見た目や雰囲気が重視されがちな昨今において、改めて歴史を通して物事の位置付けを再確認する必要があるはずだ。本企画では先日実施された「日本史探究」の二次試験問題から京都の名所をピックアップした。先人が残した道標を辿って、京都を歩いてほしい。(編集部)
目次
大覚寺を歩く龍安寺を歩く
御霊神社を歩く
東福寺を歩く
大覚寺を歩く
バスを降りると、やわらかい静寂な空気が全身を包んだ。歩を進めると、雨が降ったりやんだりを繰り返す落ち着かない天気の中、大覚寺は山々に埋もれるようにひっそりと腰をおろしていた。ここを訪れたのは他でもない、嵯峨天皇の足跡を求めてだ。
809年、平安時代初期に嵯峨天皇は即位したが、翌年平城上皇と対立し平城太上天皇の変(薬子の変)が起こる。即位直後に混乱に直面しながらも、嵯峨天皇は様々な政治改革で安定した時代を築いた上、文化人としても優れた一面を持った。京大日本史大問2において、唐の影響を受けた弘仁・貞観文化を牽引した人物として「嵯峨天皇」を問う穴埋め問題が出題された。
嵯峨天皇は譲位した後、離宮嵯峨院で文化活動にいそしむ余生を過ごした。この嵯峨院がちょっとした経緯を経て後の大覚寺となる。初代門跡は嵯峨天皇の孫にあたる恒寂入道親王だが、「恒貞親王」と呼ぶ方が日本史学習者にはなじみ深いだろう。そう、承和の変で廃太子となった人物だ。藤原良房の陰謀に巻き込まれ命を危ぶまれた恒貞親王は、嵯峨院を寺院とし自身が住職となって身を守ることを選んだ。大覚寺創建のため上奏文を起草し、親王を助けたのが学問の神様として有名な菅原道真。大覚寺の敷地内、嵯峨天皇が造った風光明媚な景勝地・大沢池には天神島が浮かぶ。もちろん道真を祀ったものだ。経緯を知ると大覚寺に天神社が存在する理由にも頷ける。
政権争いに勝利した天皇の別荘が政争に敗れた皇太子の住処になるとは運命めいたものを感じるが、それから400年余り後、大覚寺は再び日本史に名を残す政争の舞台となった。南北朝時代である。13世紀半ば、後嵯峨上皇の子である亀山天皇と後深草天皇の間に皇位継承などをめぐる対立が生じた。後嵯峨・亀山・後宇多上皇が当時荒廃していた大覚寺に入寺して復興したため、亀山天皇の皇統は大覚寺統と呼ばれ、後深草天皇の持明院統と睨みあう時代が続いた。南北朝が統一された和解の地も大覚寺であるといわれる。
以後も荒廃と復興を繰り返したものの、嵯峨天皇の愛した大覚寺は今も変わらない場所にある。筆者が訪れた時間は人影が少なく、池のほとりの散歩を静かに楽しむことができた。ひやりとした山中の空気を感じながら「七分咲き」と説明された梅をゆっくり眺め、水鳥の羽ばたく音に耳を傾ける。蕾が入り混じる梅の枝は、しとしとと降り始めた雨にやわらかく濡れていた。(燈)
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龍安寺を歩く
市バス204をわら天神前で降り、きぬかけの路を龍安寺へとテクテク登る。道中、クロワッサンの断面図のような地層が露出している。これは約2億年以上前に、プレート同士が押し合いひしゃげた跡、褶曲地層の断面だ。龍安寺にもまた、巨大な衝突を思わせる、日本史の褶曲地層を見出すことができる。ちなみに大問1・⑴の解答「応仁の乱」の東軍リーダーの細川勝元。彼が創建したのが龍安寺だ。
龍安寺は1994年に世界遺産に認定され、「禅精神の具現」と称される石庭が有名だ。石庭は住職の居間である方丈に面している。方丈へは、寺務所をかねた台所である庫裡を通る。庫裡に入って驚いた。玄関正面に筆の大書が飾られているが、その題が「飲酒」。詩人・陶淵明の作で「俗心を捨てれば、人里でも辺鄙な場所に住むのと変わらない」という趣旨の歌だ。酒の書の横に祀られた仏様も、その通りと涎を垂らしてうなずいている。禅と欲望の矛盾が垣間見えるようで微笑ましい光景だ。
方丈の北東には、手や口を清める蹲踞が据えられている。「吾唯足知(われただ足るを知る)」と刻まれ、水戸光圀の寄進だという。光圀は彰考館を設けて『大日本史』の編纂を命じ、水戸学の基礎を築いた。水戸学はやがて尊王論へと発展し、幕末の倒幕運動の理論的支柱となった。高潔な思想は時に争いを招く。
石庭を後にして境内を歩いていると、突如2㍍程の真っ白で滑らかなベルが現れる。ビルマ派遣軍自動車廠戦没者を慰霊する、ミャンマー様式の仏塔「パゴダ」だ。太平洋戦争中、日本軍は中国への物資補給路である援蔣ルートの遮断を目的にビルマに侵攻し、全土を制圧した。現地では日本軍と連合国、ビルマ抗日軍の間で激しい戦闘が続き、多くの兵士と民間人が命を落とした。このパゴダは、その悲劇を今に伝えている。
歴史を振り返ると、人の営みはいつも不完全だ。石庭には15個の石が配されるが、どの角度からも全てを見ることはできないと言われ、「不完全の美」を象徴するという俗説がある。日本史が多くの人を惹きつけてやまないのは、その褶曲した構造に拠るのかもしれない。(雲)
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御霊神社を歩く
烏丸通を北上すると、上京区を東西に貫く上御霊前通がある。この通りの東に進んでいくと見えてくるのは御霊神社(上御霊神社)だ。京大からは北西に約2・5㌔。散歩にはちょうど良い距離だ。
「鎮霊のお社」として知られる御霊神社。参拝者の不安や怒り、悩みを鎮めるご利益がある。もともとこの地には上出雲寺があり、794年の平安京遷都の際に桓武天皇が奈良・平安初期に非業の死をとげた八柱の神霊を寺の御霊堂で祀ったと言われる。いつから「御霊神社」と呼ばれるようになったのか、変遷は定かではない。
桓武天皇によって祀られた神霊の中には、早良親王、吉備真備、橘逸勢が含まれている。早良親王と言えば、長岡京遷都の翌年に起こった藤原種継暗殺の首謀者として処罰され、死後に怨霊となったと言われる人物。このような怨霊をなだめるための儀式が御霊会であり、平安時代は疫病の流行や天災の原因を怨霊のたたりに求め、これをしずめることで平穏を取り戻そうとする御霊信仰が盛んだった。
御霊神社は重要な歴史の舞台でもある。1467年と聞いて、思い浮かべる出来事は何だろうか。おそらく多くの人が浮かべるのは、京大日本史大問1・⑴でも出題された応仁の乱だろう。11年にも及ぶ内乱の最初の合戦は、御霊神社で起こった。畠山政長が境内に布陣し、家督争いのライバルであった畠山義就が攻撃した。義就方に朝倉孝景らが加勢して、政長方は合戦の結果退いた。その年の5月から、細川氏(東軍)と山名氏(西軍)の全面的な戦に入り、長引いた戦で京の都は疲弊することとなる。その荒廃ぶりは『応仁記』の中で「花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量らざりき応仁の兵乱に依て、今赤土と成りにけり」と表されている。
毎年5月には御霊祭りが行われ、多くの露店と観客でにぎわう。特に還幸祭は祭礼として最古の御霊会を伝えているとされ、3基の神輿が氏子に担がれ、街を練り歩く。3基のうち最も古い「南之御座」は安土桃山時代に後陽成天皇から賜ったものとされている。
境内は木陰が多く、静かな空気を吸うことができる。新生活に疲れたら、心をしずめに歩いてみることにしよう。(悠)
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東福寺を歩く
京都の観光地は京都駅よりも北側に多いが、南側にも魅力的なスポットがいくつか見受けられる。今回紹介するのは東福寺だ。京大からは京阪に乗って15分程度で着くアクセスの良さ。時の摂政・九条道家が奈良の大寺院である東大寺と興福寺から一字ずつ拝借したのが由来だ。
九条道家は鎌倉時代の一級史料『玉葉』の作者である九条兼実の孫だが、母親が源頼朝の姪である関係で鎌倉幕府に協力的で、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されたのちには、子の三寅(後の藤原頼経)を4代将軍として鎌倉に送った。
さて東福寺だが、天龍寺や建仁寺などとともに京都五山に列せられる大寺院で、寺院内に塔頭と呼ばれる25の小寺院を持つ。京都五山に列せられている万寿寺もその中の1つだ。同じく塔頭の1つである芬陀院には雪舟作と伝わる庭園がある。芬陀院は九条家とともに五摂家に並ぶ一条家の菩提寺で、京大日本史大問1・⑺に出題があった一条兼良の墓も東福寺内に所在する。
東福寺で屈指の景観を持つのは通天橋だ。本堂から開山堂を結ぶ橋状の廊下で、下には渓谷・洗玉澗が地面を削るように流れる。夢窓疎石の弟子として活躍し足利義満も帰依した禅僧・春屋妙葩が架けたと伝わる通天橋からは、秋になると一面を紅で埋めるモミジが見渡せる。春屋妙葩は京大日本史大問1・⑵で出題があったように将軍家の氏寺・相国寺を開山したが、相国寺もまた京都五山に列せられている。
さて本記事では京都五山を5つ紹介したが、これらの上位に置かれた寺院がある。京都五山別格・南禅寺だ。京大から約3㌔という近場に鎮座する南禅寺。昨年国宝に指定された水路閣もさることながら、石川五右衛門が「絶景かな」と絶叫した伝説も残る三門や隣接する寺院・金地院など、見どころが目白押しだ。(燕)
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アクセス
・大覚寺百万遍→(市バス203)西大路四条→(市バス28)大覚寺→徒歩すぐ
・御霊神社
百万遍→(市バス201・203)烏丸今出川→徒歩15分
・龍安寺
百万遍→(市バス201・203)堀川今出川→(市バス12・51)立命館大学前→徒歩9分
・東福寺
出町柳→(京阪電車)東福寺→徒歩7分




