企画

日本史で歩く京都

2024.01.16

平安遷都以来、京都は日本の政治・文化・経済の中心であり、町を歩けば辻々で学校で習った歴史にまつわる旧跡に出会うことができる。今回は共通テスト前ということで、高校日本史に絡めながら、市内にある8世紀~19世紀の旧跡を5つ紹介する。関連する歴史事項にも触れているから、日本史を選択する受験生の学習の足がかりになれば幸いである。(汐・唐)

目次

金戒光明寺(黒谷)
羅城門遺址
聚楽第址
高瀬川一之船入
蹴上インクライン

金戒光明寺(黒谷)


高さ23メートルの山門は、幕末1860年の再建。松平容保の京都守護職時代、藩士が見張りにこの門を使ったと言われている


京大から吉田山を挟んだ東側、左京区岡崎地区の北東に黒谷町という町がある。一帯は「くろ谷さん」の名で親しまれる金戒光明寺の寺域で、小院が建ち並ぶ風情ある佇まいである。この場所は鎌倉時代に浄土宗をひらいた法然が初めて草庵を結んだ地で、浄土宗の大本山となっている。

平安末期から鎌倉時代中期にかけて、末法思想を背景とする社会不安が広がる中、簡単な仏行(易行)を「選択」し、一つだけ修める(専修)ことを特徴とする鎌倉仏教が、比叡山延暦寺出身の僧侶によって開かれていった。浄土宗は従来の浄土教の流れを汲み、阿弥陀仏の「他力」に身を委ね「南無阿弥陀仏」と一心に唱えれば必ず救われるという専修念仏の教えを広め、日記『玉葉』の著者・九条兼実などの信仰を得た。

時代は下って幕末、江戸幕府14代将軍・徳川家茂から悪化した京の治安を維持する京都守護職に任命された会津藩主・松平容保とその家臣の本陣が金戒光明寺におかれた。京都盆地を一望する立地や防衛に適した構造から、この場所が選ばれたと言われている。1863年に薩摩・会津などの公武合体派が、長州藩などの尊攘派や三条実美ら急進派の公家を京都から追放した「八月十八日の政変」の日、近藤勇・土方歳三ら浪士からなる武力組織「新選組」が京都守護の下で市中取締の命を受けた。こうした経緯から、金戒光明寺は会津藩や新選組とのかかわりが深く、境内には長州藩と公武合体派の武力衝突である「禁門の変(蛤御門の変)」などで殉職した会津藩士らの墓が建っている。

◆アクセス
京都市左京区黒谷町
京都市バス「岡崎道」下車、北へ徒歩5分
京都大学より南東へ徒歩20分

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羅城門遺址


何の変哲もない児童公園に、羅城門の名残を伝える石碑がポツンと建っている。建立から130年近く経つ石碑はもはや歴史遺産だ


東寺から九条通を西に向かうバスに乗ると、「次は、羅城門」とのアナウンス。 794年桓武天皇による平安遷都に際し、都の中央を南北に貫く朱雀大路の南端に建てられた城門だ。バスを降りてもそれらしい遺構は見当たらず、九条通から少し入った公園に、「羅城門遺址」と書かれた石碑が建っている。

現地の案内板によると、羅城門は970年までに2度倒壊し、その後再建されることはなかった。門そのものの遺構は出土していないが、藤原実資の日記『小右記』では、道長が法成寺建設のためこの地から礎石を持ち帰ったとしており、平安時代の11世紀前半には既に礎石だけの状態になっていたと考えられている。

羅城門の名前を聞いて、この門を舞台とする小説『羅生門』を思い浮かべる人も多いだろう。作者の芥川龍之介は、島崎藤村や田山花袋らに代表される、現実をありのままに描写することを目指す自然主義に対し、明快に主題を設定し、技巧的に処理する立場をとる新思潮派の文学者の1人であり、同作は荒廃した都で生活に行き詰まった下人の、生活と倫理との間で葛藤する心理を緻密に描いている。

「羅城門遺址」の碑は1895年、平安遷都千百年を記念して建立されたが、当時は周辺に田畑が広がるのどかな場所だった。戦後の1955年、碑周辺が児童公園として整備されることになった。「羅城門」の名が地名や停留所名に現れるのはこのころとみられる。憶測の域をでないが、現存しない門の名前を採用した背景には、50年に映画化された黒澤明監督の映画「羅生門」の流行もあったのかもしれない。

◆アクセス
京都市南区唐橋羅城門町(唐橋羅城門公園内)
京都市バス「羅城門」下車すぐ
近鉄「東寺」より西へ徒歩12分

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聚楽第址



聚楽第の破却後、跡地では市街化が進み、17世紀前半にはすでに町人街となっていた。現在の本丸跡は住宅街になっており、遺構はほとんど残っていない


二条城から北に1・5㌔、中立売通の民家の軒下に「聚楽第址」の碑がある。聚楽第は、正親町天皇のもとで1585年に関白の職についた秀吉が、86年から87年にかけて建築した城郭風の邸宅だ。敷地の広さは東西3百㍍、南北4百㍍ほどと推定され、西濠址にも石碑がある。大徳寺唐門や西本願寺飛雲閣はその遺構と伝えられ、桃山文化を象徴する豪華な建築であった。

秀吉は聚楽第の周辺に配下の大名屋敷をおくとともに、市街を囲む御土居の整備や、街路再編を行い、京を聚楽第と御所を中心とする軍事都市に改造した。関白の権威を利用し天下統一を進めた秀吉は、88年に正親町上皇、後陽成天皇の行幸を聚楽第で迎え、関白としての威光を誇示したという。

1591年、秀吉は関白と聚楽第を秀次に譲った。しかし4年後の95年、秀次が謀反の疑いを受け高野山に追放されたのち自刃する。秀次の居所となっていた聚楽第を秀吉は徹底的に破却し、周辺の大名屋敷とともに政務拠点を伏見へ移した。

東濠の跡を示す石碑の南は、発掘調査で本丸東堀の遺構が検出された場所である。ここから金箔で装飾された瓦が出土した。現在は京都市考古博物館で展示されており、わずか8年で破却された聚楽第の絢爛な外観を現在に伝えている。

◆アクセス
京都市上京区大宮通中立売下ル新元町
京都市バス「大宮中立売」下車すぐ

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高瀬川一之船入


かつては二条から四条にかけて9箇所の船入が存在したが、1920年に舟運が廃止されると、一之船入をのぞいてすべて埋め立てられた


近世に経済都市として発展した京と大阪の間の物流は、淀川を使った水運が主役であり、京都の市街地と、宇治川の港町・伏見の間に運河が開かれた。浅い水でも進めるように底を平らにした舟を「高瀬舟」と呼ぶが、この運河は水深が小さく高瀬舟が通ったことから「高瀬川」の名が付けられた。

二条通から木屋町を少し下ったところにある「一之船入」は、鴨川と高瀬川の分岐点近くにあり、高瀬川に唯一つ残された船溜まりである。周辺にはビルが建ち並び近くには復元された高瀬舟が係留されており、物流が盛んな運河としての歴史を現在に伝える貴重な遺構として、国の史跡に指定されている。

高瀬川の開削を手がけた角倉了以は、京都嵯峨出身の近世初期の豪商で、京都の保津川や静岡の富士川など、多くの河川開削に携わった人物だ。近世初頭には、渡航許可状である朱印状をもった商人が東南アジアと交易する、いわゆる朱印船貿易が島津家久や有馬晴信ら西国大名によって盛んに行われており、角倉了以もこれに参入していた。

高瀬川が運河としての役割を終えるのは開削から3世紀下った大正時代のことだが、この時期に森鴎外が発表した小説に『高瀬舟』がある。鴎外は『舞姫』など感情の優位を強調し、空想や恋愛を重んじるロマン主義的作品で登場した。1916年に発表された『高瀬舟』では1790年の高瀬川を舞台に、弟殺しで島流しとなる罪人の喜助と、護送をつとめる庄兵衛の精神の対照的な描写を通して、安楽死や老子思想といったテーマを取り上げている。

◆アクセス
京都市中京区押小路通木屋町西入ル一之船入町
京都市バス・地下鉄「京都市役所前」下車、北東へ徒歩5分

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蹴上インクライン


荷を積んだ列車(復元)


蹴上インクラインは、京都市左京区にある鉄道の跡で、琵琶湖疏水を通ってやってくる船を、約36メートル上にある水道に運び上げるために敷設されたものである。廃線となった今では散歩道として人気を博し、春は桜の名所としても多くの観光客で賑わう。

琵琶湖疏水とは、1868年の東京遷都ののち、沈み切った京都を復興させるため、第3代府知事・北垣国道が大工事によって作った人工の運河である。疏水の建設により琵琶湖の水資源の利用や、米や調味料など生活物資の水運ができるようになった。さらに、水力発電所が作られたので、工場が生まれ、路面電車が走り、京都の近代化は大きく進んだ。

その立役者の北垣が府知事に任命されたのは、地方三新法体制下の1881年だ。地方三新法は自由民権運動の潮流を受けて作られており、府県会の設置などを通して一定の地方自治を認めている。そんな中北垣は、府会議員と協調しながら、11年の間京都府政を主導した。

北垣の在任中の1889年に大日本帝国憲法が発布され、翌年国会も開設された。これらの国政改革に合わせて、地方においても市制・町村制や府県制・郡制が定められた。府県の知事は中央から任命されるので、北垣はこの地方政治の改革を経て、1892年北海道庁長官に転任した。明治の地方制度は、それからもいくたびの改正を経て、1948年の地方自治法で廃止された。

◆アクセス
京都市東山区東小物座町・左京区南禅寺福地町・粟田口鳥居町ほか
京都市バス「岡崎法勝寺町」下車、南へ徒歩5分
地下鉄「蹴上」下車すぐ

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