企画

日本史で歩く京都 Season 2

2025.02.16

平安遷都以来、京都は日本の政治・文化・経済の中心であり、町を歩けば辻々で学校で習った歴史にまつわる旧跡に出会うことができる。今回は二次試験前ということで、高校日本史に絡めながら、市内にある9世紀~20世紀の旧跡を5つ紹介する。関連する歴史事項にも触れているから、日本史を選択する受験生の復習になれば幸いである。(編集部)

目次

三条河原を歩く
吉田神社を歩く
岡崎公園を歩く
建仁寺を歩く
金閣寺を歩く

三条河原を歩く


現在の三条河原



京大から自転車で15分。三条大橋の下に広がるのは「鴨川等間隔の法則」で名高い三条河原。歓楽街の木屋町がほど近いことから、夜はいちゃつくカップルだけでなく酔っぱらった大学生でもにぎわうスポットである。彼らはまだ話し足りないといった風に幸せな顔で語り合い、夜更かしという若者の特権を夜な夜な謳歌している。だがご存じだろうか。三条河原では日本史上、今の様子からは想像もつかない、数々の身の毛もよだつような事件があったことを……。

三条河原は歴史上、処刑や処刑後のさらし首が行われる地で、多くの人々がここで処刑されてきた。代表的なものは盗賊、石川五右衛門の処刑である。有名な釜茹での刑はここで行われたとされる。1595年、関白豊臣秀吉の甥、秀次は謀反の疑いをかけられ、妻子39名がこの河原で一斉に処刑された。河原には見せしめのための塚が作られた。

時代が下っても三条河原は刑場であり続けた。新選組の局長、近藤勇は武蔵国で斬刑に処された後、首が京都まで輸送され、三条河原で反逆者としてさらし首となった。

血なまぐさいのは刑場としての歴史だけではない。河原の上にかかる三条大橋のそばには池田屋事件で有名な池田屋跡地がある。ここでは長州藩・土佐藩などの尊王攘夷志士と新選組による戦闘が行われた。三条大橋の擬宝珠(橋の手すりにつけられる装飾)には、事件の際につけられたという刀傷の跡が残されている。

そんな血なまぐさい京都の歴史を刻んできた三条河原。是非皆さんも通りがかった時には、そんな歴史に思いをはせてみてはいかがだろうか。時には座っているカップルの肩をたたいて、こう言ってあげるのもいいかもしれない。「ここ処刑場跡ですよ」と……。(寛)

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吉田神社を歩く


朱鳥居と、延々と連なる露店群



節分祭の晩、歩行者天国となった東一条通から吉田神社の境内にかけて、数百の露店が延々と並ぶ。祭り独特のぼんやりとした灯りの中を仲間と連れ立ちさまよっていると、吉田神社にまつわる日本史事項が暗がりに点々と浮かぶ。

吉田神社は御所の表鬼門(北東)を鎮護する。節分祭では鬼を、吉田神社、八坂神社、壬生寺と順に追い払い、北野天満宮の福部社に閉じ込める四方参りが行われる。これは平安時代から行われているとされ、京都の鬼を除く神道の行事だ。

神道といえば室町末期、この吉田神社の神官・吉田兼倶が神道を中心に儒学・仏教を統合する唯一神道を大成した。これは神を主とし仏を従とする反本地垂迹説を唱えたものだ。山崎闇斎の垂加神道、平田篤胤の復古神道と連想は続いていく……。

ふと記憶の旅を終え我に返る。吉田神社の境内から更に上に続く石段を上ると、吉田山公園が現れる。公園の奥に歩いていくと、「紅萌ゆるの碑」が木々に隠され立っている。この碑は京都大学の前身、旧制第三高等学校(三高)の寮歌「逍遥之歌」の一節「紅萌ゆる丘の花」を印したものだ。

三高は1886年に学校令で設置され、初代校長は折田先生像で有名な折田彦市。彼は「無為にして化す」つまり生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する教育方針をとり、自由の学風の礎を築いたとされる。三高は1949年に新制京都大学に包括され、50年に最後の卒業生を送り廃止された。三高同窓会の書いた現地の説明によると、「紅萌ゆる丘の花」は嬉しいにつけ悲しいにつけ三高生が常に口にした歌であり、この碑とともに三高の自由の精神が歌い継がれることを望むという。「紅もゆる丘の花狭緑匂ふ岸の色都の春に嘯けば月こそ懸れ吉田山」。新入生を迎える春のころ、吉田山公園の碑文前に座り、八海山の酒瓶でも抱えながら三高に思いをはせたいところである。(雲)

紅萌ゆるの碑



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岡崎公園を歩く


雪を被った平安神宮。足元にはお気をつけて



京都に雪が積もった。旧都の雪化粧見たさに、眠い目をこすりながらダウンに顔をうずめ、凍った路面に足を取られないようにガッチリと踏み込む。見えて来た雪原は岡崎公園だ。子供たちは既に雪だるまを拵えていた。

京大から南に約1㌔。大きく構える大鳥居は高さ24㍍。建造されたのは1928年なので、京都にある鳥居の中では若手であろう。北を向くと朱色の門構え。額縁に踊る「應天門」の文字には見覚えがある。藤原北家が勢力を強める中、大納言・伴善男が放火した門である。その様子は『伴大納言絵巻』にも描かれている。伴善男は放火の罪を左大臣・源信に負わせようとしたが失敗し、流罪に。伴氏は失落し、藤原家の勢力伸長に拍車がかかることとなった。

とはいえ現存する応天門は明治期に建造された平安神宮の一部である。平安神宮は平安遷都1100年を記念して開かれた第4回内国勧業博覧会に合わせて建造された。日清戦争中に開催されたこの内国博では、『湖畔』などで知られる洋画家の黒田清輝などの作品が出品された。

さて、今度は応天門から大鳥居に向けて走る道を南へ。左手には絢爛豪華な西洋建築たる京都市京セラ美術館、右手には京都府立図書館がある。注目したいのはその住所。美術館は岡崎円勝寺町、図書館は岡崎成勝寺町である。岡崎公園一帯にはかつて六勝寺が所在していた。六勝寺といえば院政期に天皇家が建てた「勝」の字が付く六つの寺院のことだ。鳥羽天皇の勅願で建てられた最勝寺の跡地にはかつて岡崎公会堂が存在した。1922年、この地で創立大会が開かれたのが全国水平社である。「人の世に熱あれ、人間に光りあれ」との結句でも知られる、西光万吉起草の水平社宣言はこの地で読まれた。

ところで岡崎公園にはもう1つ、注目したい施設がある。京都市勧業館みやこめっせだ。ここでは4月に京都大学入学式が開かれる。今日この日、厄介な設問に立ち向かう君が、みやこめっせで破顔一笑することを祈らずにはいられない。(燕)

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建仁寺を歩く


法堂。天井画は小泉淳作が2002年に描いた『双龍図』



節分祭が開かれた2月2日、京都各地の街頭は寺社への参拝客であふれた。どこか空いている寺社はないものか。すし詰め状態のバスを避け、東大路通を徒歩で南下していく。八坂神社に大挙する群衆をかき分け、東山安井の交差点を右折。異国語が飛び交う小路を抜けると、「臨済宗大本山建仁寺」と書かれた門が姿を現した。広大な境内の中心には巨大な法堂が位置し、両足院などの小寺院が寺域を取り囲む。観光客でごった返す祇園の中にあって、静寂な境内はさながら都会のエアポケットだ。

建仁寺は臨済宗の開祖・栄西を初代住職とし、建仁2年(1202年)に創建された。坐禅を組みながら師から与えられる問題を1つずつ解決していく「公案問答」を通じ、悟りの境地に至ることを目指す臨済宗の思想は、自己のたゆまぬ鍛錬を旨とする武士の気風とも一致し、彼らの帰依を受けて大いに発展した。

室町時代、建仁寺は「京都五山」第3位に据えられ、臨済宗の栄華も絶頂期に入る。絶海中津・義堂周信らは「五山文学」と称される優れた漢詩文を残したほか、中国・明の祖、洪武帝に謁見するなど、幕府の外交使節としても活躍した。禅の経典や漢詩文集は「五山版」として出版され、『瓢鮎図』などを描いた如拙のように、禅僧は水墨画の担い手ともなった。学究や芸術の分野で数々の名僧を輩出した建仁寺は「学問面」の異名をとる。

応仁の乱での焼失、後ろ盾であった室町幕府の滅亡に伴い、臨済宗も安土桃山時代にはその権勢を失っていくが、建仁寺は引き続き禅の文化の発信地として機能していく。桃山文化期に水墨画で活躍した海北友松の襖絵、江戸時代初期に俵屋宗達が描いた装飾画『風神雷神図屛風』、元首相・細川護熙が2021年に奉納した水墨画の襖絵など、建仁寺は往時を偲ばせる貴重な文化財を、今なお参拝者たちに提供し続けている。(晴)

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金閣寺を歩く


鹿苑寺の歴史の生き証人・石不動を祀る不動堂



京都を訪れる観光客の約半数が訪れるという金閣寺。正門から入り、金閣を横目に見つつ順路を突っ切ると、線香の煙が漂う不動堂が佇む。鎌倉時代に栄華を誇った西園寺家の残した石不動が祀られている。家名の由来となった西園寺と別邸を北山界隈に建立したが、鎌倉幕府の滅亡とともに衰えてしまった。

それを譲り受けたのが室町幕府3代将軍の足利義満である。義満は当時すでに出家していたが、リニューアルされた「北山殿」で政務を執り続けた。北山殿は寝殿造の御所群を中心としつつ、仏教施設も造営された。仏門と政界に君臨する義満らしい配置だ。舎利殿(釈迦の遺骨を入れる建物)である金閣の完成は譲り受けて2年後と考えられる。七重の塔も建てられた。会所では茶や連歌、猿楽が興じられ、後小松天皇を招いた宴会、明の使節の饗応も華々しく行われた。

義満の死後、4代将軍である子・義持は政治の中心を室町殿に戻した。義持は舎利殿を残しつつ、寝殿の代わりに禅寺の建築を整備し、1420年頃、夢窓疎石を名目上の開祖とし、禅宗寺院としての鹿苑寺を出発させた。父の遺言通りである。応仁の乱では金閣以外の多くが破壊されたが、庭の風景は残され、特に紅葉の季節では、荒れ果てた洛中から8代将軍の義政や公卿たちが安らぎを求めて見物に来た。江戸時代にはすでに観光地となり、拝観料も徴収されていた。当時の記録からすでに、「金閣寺」という通称を確認できる。

義満の造営から550年余り修復を繰り返しながらも存続した金閣舎利殿は、1950年の放火事件によって灰となってしまった。しかし焼失から5年で再建された速さは、金閣の人気ぶりを物語る。(唐)

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