入試選抜要綱発表

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京都大学の二〇〇七年度学部入試要綱が発表された。一部を除く全ての学科で後期試験が廃止されたほか、教育学部では理系にも門戸が開かれる。
教育学部は今年度まで定員六十名全員を文系から募集してきたが、来年度より、うち十名を理系の枠として設ける。入試は現在の総合人間学部と同様、文系・理系に分けて行われる。

【後期試験のゆくえ】
京都大学は約二十年間にわたり学部入試を前期・後期に分割して行なってきたが、来年度入試より、医学部保健学科を除く全ての学部・学科で前記試験に一本化する。
理由の一つには、後期試験が実質的に前期試験の敗者復活戦と化してしまい、前期と異なる切り口で多様な人材を募集するという従来の趣旨が達成しづらく なってきたことがある。また理念の不達成に加え、入試業務を行なう労力面でも「後期実施の労力に見合うだけの生徒が入ってこない」(教授)という事情があ る。
京都大学の後期が原則的に廃止されたことによって、「(有力な併願先である)大阪大学後期の難度上昇が予想される」(予備校関係者)という。また京都大学の発表をうけてか、東京大学も後期定員を大幅に縮小してゆく方針であり、廃止に近い状況となる。東大・京大など難関大学の前期重視により、逆に後期定員 を拡大する国立大学も出始めており、結果的に一昔前の「一期校・二期校」に近い体制が復活する可能性がある。

伊藤清名誉教授がガウス賞を受賞

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2006年8月22日からマドリードで行われた国際数学者会議(ICM)で、数学者で京都大学名誉教授の伊藤清博士が第1回ガウス賞を受賞した。ガウス賞 は、数学界にとどまらず他分野にまで多大な影響を与える業績を残した数学者を顕彰するもので、国際数学連合とドイツ数学者連合によって新設された。今回の 受賞は、確率微分方程式論をはじめとする博士の確率解析における業績と、それらが物理学、工学、生物学、経済学の諸分野の発展に果たした貢献が評価され た。博士は1952年から79年まで京都大学で教鞭を執り、その後プリンストン高等研究所研究員、オールフス大学、コーネル大学教授を経た後、76年から 79年まで京都大学数理解析研究所長を務めた。内閣統計局に勤務していた1942年、確率積分の概念を基礎から構築し、確率微分方程式論を創始した。
確率微分方程式は、ブラウン運動のような偶然性に支配される運動の連続的な軌跡を記述する運動方程式であり、通常の運動方程式にランダムな力を表す項が 加わったような形になっている。この項に対して確率積分がなされ、その計算の際に不可欠な公式が「伊藤の公式」である。この理論により、確率解析は飛躍的 な発展を遂げた。また、多くの研究者によって数学以外の分野にも応用されていった。現在、確率解析は集団遺伝学や確率制御理論など偶然性をともなう現象の 解析において広く応用されている。なかでも最もっとももよく用いられるのが、数理ファイナンスの分野だ。市場価格が変動するさまを記述し,ランダムな市場 の動きに対して,リスクの少ない方法を考えるのが数理ファイナンスの重要な目的だが、そのために確率解析は不可欠なものになっている。実際、金融の現場で 「伊藤の公式」はよく知られている。もっとも、博士自身は、純粋数学として確率解析の研究をしていたようだ。健康上の都合により欠席したICMの開会セレ モニーにも「私の確率解析の研究は純粋数学においてのものであり、だからこそ数学の応用に対して与えられるガウス賞に選ばれたことは本当に驚きであり、ま た心から喜ばしくおもいます。」と英語のコメントを寄せている。

本部構内正門

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 眼前を眺めれば、京都大学のシンボルマークでもあるくすのきが青々とその葉を茂らせ、その後ろには、これもまた京都大学のシンボル的存在である時計台が天高くそびえ立つ。本部構内正門は、京都大学が所有する十個の登録有形文化財のうちの一つだ。
当門は、一八九三年に旧第三高等中学校の表門として造立されたもの。京都大学に現存する建造物としては、第一回目に取り上げた旧第三高等中学校物理学実験場についで古いものだが、幾度か修復を経ているせいか、その古さはほとんど感じられない。
門柱は煉瓦と石が交互に積まれ、左右の塀は煉瓦で造られており、頂部は笠石で飾られていた。一九七九年の工事で煉瓦面はモルタルで覆われたが、当時の姿は踏襲された。よく見ると、日の光を受けてわずかに石面がきらきらと輝き、美しい。
四月、大学受験という苦難を乗り越えた者たちが、この門をくぐる日もそう遠くはない。

本部構内正門

木村崇 人間・環境学研究科教授 「『英霊』虚構にあらがう旅」(2006.09.16)

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東北自動車道路を黒石インターで下り、岩木山を正面に見据えながら広々とした田園を突っ切るように片道三車線のまっすぐな道をゆくと、やがて右手にその村は見えてきた。はじめて見る田舎館村。のちに私の父となる人はここで生まれ、昭和初年のいつごろか、高等小学校卒業後ほどなく、北海道旭川のある酒造にいた兄をたよって津軽海峡を渡った。

やがて日本は、すべての国民に未曾有の惨禍をもたらした歴史の過程をまっしぐらに突き進む時代に入った。彼はたたき上げの職業軍人になろうと決めた。酒造り職人よりは「価値ある」生き方だと考えたかららしい。成人男子ならだれもが「赤紙」一枚で戦場に追いやられたのだから、その決断を浅慮と見なすのはかならずしも正当ではない。第七師団から「満州」にあった関東軍へ転属し下士官に昇進した彼は、写真見合で結婚することになり、やがて私の母となる女性との挙式のために、長期休暇の許可を得て一度旭川へ戻る。すでにアメリカとの戦争で、日本軍がどこでも劣勢に陥っていた頃だ。そんな結婚しなければよかったのにとは今にしてはじめて言えることで、先見のなさを責めるのは酷だろう。

本当の意味で戦争責任のある連中は、アメリカ軍との「決戦の場」にフィリピン諸島をえらび、虎の子の精鋭と見なしていた関東軍をそこへ送り込んだ。父となったばかりの彼もその中にいた。あと三ヶ月で日本が降参するという時、彼は砲弾に吹き飛ばされ肉体をバラバラにされてルソン島の戦場に散った。私はまだ一歳になっていなかった。関東軍には国民を守るという使命感が微塵もなかったが、自分たちの家族に対する配慮だけは忘れていなかった。私は、同じく「満州」に生まれた他の人たちにはまことに申し訳ないが、その「おかげ」で中国残留孤児にならずすんだ。前年のうちに母は乳飲み子の私を連れて故郷に帰っていたのだ。

将棋や碁なら、「負け」がわかった時点で投了するのが慣わしである。中国大陸や戦場となったアジアの諸国の人たちにどれほどお詫びしても許されない苦しみを与えただけでなく、自国民にも何百万にのぼる犠牲を強いた戦争については、それを開始し、無謀に遂行したことの責任を問うことあっても、必要なときに終結させなかった責任の方は、あまり問題にされない。勝利の見込みなど欠けらもない「決戦」を挑まず適当な時期に降伏していたなら、太平洋のあちこちで弾丸も食べ物もなく野垂れ死にした何十万もの男たちの多くは、命をつないで帰還できた。特攻隊など遣らずにすんだ。沖縄の悲劇は起きなかった。広島も長崎も原爆で壊滅させられずにすんだ。東京や大阪の空襲で大勢の市民が黒こげにされもしなかった。もちろんソ連軍による「満州」侵攻もなかったから、外地にいた二百万人の日本人は、なんとか故郷の土は踏むことができた。降伏後、迷惑をかけた国々からたとえ多額の賠償を求められたとしても、その人たちがちゃんと生きて帰っておりさえすれば、一〇年か二〇年後には償いをきちんとすませることができていたであろう。それに、六〇年をこえるほどの長期にわたるアメリカによる実質的占領状態は続いておらず、戦後日本の政治指導者たちも、アメリカへのあわれな隷属精神から自由でいられたであろう。もちろんそれは、日本人自身が自主的に、本当の戦争責任者を確実に摘発できていたらという条件でのことである。過去の歴史について語るとき、このように「仮定法」に「仮定法」を重ねるのは、「無い物ねだり」のむなしさを累乗させるばかりなのだが。

中学生の時、私は遺族会の「はからい」で大勢の戦争遺児とともに、北海道庁の役人に率いられ、遠く北海道から鈍行列車で靖国神社に連れて行かれた。「英霊」という言葉を知ったのはそのときである。「英」が「英雄」の略語だろうとは見当がついたが、あてもない状況で「犬死に」させられた人が「英雄」だとは思えなかった。一方、死んだ人を悼み弔うのは戦争未亡人となった母が毎日欠かさずやっていたので、いまさら「御霊(みたま)」も何もないものだと思った。

このいかにもわざとらしい「しくみ」はその頃からずっと気になっていた。とりわけ、小泉首相が意地になって靖国神社参拝を繰り返すのを見るにつけ、私なりに考えるようになった。昨今のメディアでは、もっぱらA級戦犯の合祀が問題の核心だとして論じられている。しかし私は、国家の都合で命を奪われてしまった人々のことを、「英霊」などと祭り上げる、そのこと自体に「お為ごかし」的なごまかしがある、それこそが問題の核心だと悟った。そうすると、自分の記憶には本当に何も残っていない「父」にあたる人のことが、母をあの世に送って一八年もたったこの歳になってようやく、突如いとおしくなった。伝聞とわずかな写真でしか知らない父を悼むにはどうすればよいのだろう。どんなところで生を受け、どんな幼少期を過ごしたのだろう。彼の目に映ったふるさとの山や川や野や田んぼはどんなだったのだろう。取り寄せた父の除籍謄本で知った田舎館村と、そのとき知った父の実父の名が残っているという墓を見ようと思い立ったのは、そんな心境になったからである。

村役場で購入した全三巻のぶあつい『田舎館村誌』に、彼の祖父に当たる人の名と、その前戸主、すなわち曾祖父の名を「垂柳村」のところに見つけたときは何ともうれしかった。「垂柳」の地名は現在も残り、その近くに墓地があった。目当ての墓はすぐに見つかった。『村誌』の中に昭和初期の小学校や当時の児童たちの写真を見つけて、記憶の空白がすこし埋まったような気がした。私には靖国神社も首相の参拝も無用である。国家やそれを動かす連中がやりたいなら、勝手にやりたいことをやればよい。私はそういういうものにはこれっぽっちも束縛されていないし、けっしてごまかされないから。



きむら・たかし 京都大学大学院人間・環境学研究科教授

中西寛 法学研究科教授 「国際政治学のすすめ 規範から分析の学問へ」(2006.09.16)

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