複眼時評

木村崇 人間・環境学研究科教授 「『英霊』虚構にあらがう旅」

2006.09.16

東北自動車道路を黒石インターで下り、岩木山を正面に見据えながら広々とした田園を突っ切るように片道三車線のまっすぐな道をゆくと、やがて右手にその村は見えてきた。はじめて見る田舎館村。のちに私の父となる人はここで生まれ、昭和初年のいつごろか、高等小学校卒業後ほどなく、北海道旭川のある酒造にいた兄をたよって津軽海峡を渡った。

やがて日本は、すべての国民に未曾有の惨禍をもたらした歴史の過程をまっしぐらに突き進む時代に入った。彼はたたき上げの職業軍人になろうと決めた。酒造り職人よりは「価値ある」生き方だと考えたかららしい。成人男子ならだれもが「赤紙」一枚で戦場に追いやられたのだから、その決断を浅慮と見なすのはかならずしも正当ではない。第七師団から「満州」にあった関東軍へ転属し下士官に昇進した彼は、写真見合で結婚することになり、やがて私の母となる女性との挙式のために、長期休暇の許可を得て一度旭川へ戻る。すでにアメリカとの戦争で、日本軍がどこでも劣勢に陥っていた頃だ。そんな結婚しなければよかったのにとは今にしてはじめて言えることで、先見のなさを責めるのは酷だろう。

本当の意味で戦争責任のある連中は、アメリカ軍との「決戦の場」にフィリピン諸島をえらび、虎の子の精鋭と見なしていた関東軍をそこへ送り込んだ。父となったばかりの彼もその中にいた。あと三ヶ月で日本が降参するという時、彼は砲弾に吹き飛ばされ肉体をバラバラにされてルソン島の戦場に散った。私はまだ一歳になっていなかった。関東軍には国民を守るという使命感が微塵もなかったが、自分たちの家族に対する配慮だけは忘れていなかった。私は、同じく「満州」に生まれた他の人たちにはまことに申し訳ないが、その「おかげ」で中国残留孤児にならずすんだ。前年のうちに母は乳飲み子の私を連れて故郷に帰っていたのだ。

将棋や碁なら、「負け」がわかった時点で投了するのが慣わしである。中国大陸や戦場となったアジアの諸国の人たちにどれほどお詫びしても許されない苦しみを与えただけでなく、自国民にも何百万にのぼる犠牲を強いた戦争については、それを開始し、無謀に遂行したことの責任を問うことあっても、必要なときに終結させなかった責任の方は、あまり問題にされない。勝利の見込みなど欠けらもない「決戦」を挑まず適当な時期に降伏していたなら、太平洋のあちこちで弾丸も食べ物もなく野垂れ死にした何十万もの男たちの多くは、命をつないで帰還できた。特攻隊など遣らずにすんだ。沖縄の悲劇は起きなかった。広島も長崎も原爆で壊滅させられずにすんだ。東京や大阪の空襲で大勢の市民が黒こげにされもしなかった。もちろんソ連軍による「満州」侵攻もなかったから、外地にいた二百万人の日本人は、なんとか故郷の土は踏むことができた。降伏後、迷惑をかけた国々からたとえ多額の賠償を求められたとしても、その人たちがちゃんと生きて帰っておりさえすれば、一〇年か二〇年後には償いをきちんとすませることができていたであろう。それに、六〇年をこえるほどの長期にわたるアメリカによる実質的占領状態は続いておらず、戦後日本の政治指導者たちも、アメリカへのあわれな隷属精神から自由でいられたであろう。もちろんそれは、日本人自身が自主的に、本当の戦争責任者を確実に摘発できていたらという条件でのことである。過去の歴史について語るとき、このように「仮定法」に「仮定法」を重ねるのは、「無い物ねだり」のむなしさを累乗させるばかりなのだが。

中学生の時、私は遺族会の「はからい」で大勢の戦争遺児とともに、北海道庁の役人に率いられ、遠く北海道から鈍行列車で靖国神社に連れて行かれた。「英霊」という言葉を知ったのはそのときである。「英」が「英雄」の略語だろうとは見当がついたが、あてもない状況で「犬死に」させられた人が「英雄」だとは思えなかった。一方、死んだ人を悼み弔うのは戦争未亡人となった母が毎日欠かさずやっていたので、いまさら「御霊(みたま)」も何もないものだと思った。

このいかにもわざとらしい「しくみ」はその頃からずっと気になっていた。とりわけ、小泉首相が意地になって靖国神社参拝を繰り返すのを見るにつけ、私なりに考えるようになった。昨今のメディアでは、もっぱらA級戦犯の合祀が問題の核心だとして論じられている。しかし私は、国家の都合で命を奪われてしまった人々のことを、「英霊」などと祭り上げる、そのこと自体に「お為ごかし」的なごまかしがある、それこそが問題の核心だと悟った。そうすると、自分の記憶には本当に何も残っていない「父」にあたる人のことが、母をあの世に送って一八年もたったこの歳になってようやく、突如いとおしくなった。伝聞とわずかな写真でしか知らない父を悼むにはどうすればよいのだろう。どんなところで生を受け、どんな幼少期を過ごしたのだろう。彼の目に映ったふるさとの山や川や野や田んぼはどんなだったのだろう。取り寄せた父の除籍謄本で知った田舎館村と、そのとき知った父の実父の名が残っているという墓を見ようと思い立ったのは、そんな心境になったからである。

村役場で購入した全三巻のぶあつい『田舎館村誌』に、彼の祖父に当たる人の名と、その前戸主、すなわち曾祖父の名を「垂柳村」のところに見つけたときは何ともうれしかった。「垂柳」の地名は現在も残り、その近くに墓地があった。目当ての墓はすぐに見つかった。『村誌』の中に昭和初期の小学校や当時の児童たちの写真を見つけて、記憶の空白がすこし埋まったような気がした。私には靖国神社も首相の参拝も無用である。国家やそれを動かす連中がやりたいなら、勝手にやりたいことをやればよい。私はそういういうものにはこれっぽっちも束縛されていないし、けっしてごまかされないから。


きむら・たかし 京都大学大学院人間・環境学研究科教授