般教〈パンキョー〉へようこそ!
2024.08.01
大学の授業は一般に、全学共通科目(一般教養科目、通称般教)と学部の専門科目とに大別されている。京大を含む多くの大学の1回生は、どの学部に所属していても全学共通科目を中心に履修していくことになる。今回、編集員が注目する全学共通科目を担当する先生方から、ご自身の授業について説明していただいた。これをもとに、大学での学びについて想像を広げてほしい。(編集部)
――アジア・アフリカ地域研究研究科 准教授 金子 守恵 先生
哲学の(自転車)道
――公益財団法人滋賀レイクスターズ 理事 杉藤 洋志 先生
「思考の際」へと向かう旅
――国際高等教育院 非常勤講師 貫井 隆 先生
論理学書生庭訓
――国際高等教育院 教授 安部 浩 先生
京大へ来て世界を知ろう!
――アジア・アフリカ地域研究研究科 教授 中溝 和弥 先生
京都でアフリカを学ぼう!
全学共通科目「地域研究概論」では、大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS(アサファス))の教員6人がアフリカで取り組んでいる研究について学ぶことができます。現在この講義で取りあげているテーマは、「『もの』のサーキュレーション(循環)」です。ここで注目する「もの」は、商品や日用品、お金、水、廃棄物など有形の「もの」だけではなく、組織や制度、儀礼や信仰、出来事に対する人びとの記憶のような無形の「もの」も含めています。講義ではこれらの「もの」が、それぞれの地域の自然環境や、人びとがつちかってきた知識によっていかに循環しているのか(もしくは留まっているのか)を理解し、その循環の仕組みについて考えます。
京都大学では、1960年代からアフリカでのフィールドワーク(現地調査)に着手してきました。そのアプローチや考え方は、諸外国で展開してきた地域研究とはちがっていて、長期にわたるフィールドワークにもとづいて進展してきました。この科目を担当する6人の教員もまた、ザンビア、ケニア、カメルーン、セネガル、ブルキナファソ、マリ、エチオピアなどで、長期間のフィールドワークに取り組んできました。担当教員の中には、フィールドワークを介して、現地の人びとにとっての問題や関心について理解を深め、研究と実践(技術協力など)を架橋するようなプロジェクトに取り組んでいるものもいます。講義のなかでは、そのような実践活動を内包した研究プロジェクトを紹介し、アフリカが現在直面する課題や、それを乗り越えるアフリカ在来の考え方やその可能性についても考えます。
受講生は、1〜2年生が中心ですが、3年生や4年生、さらには大学院生が聴講にきてもいます。授業の終わりには質問やコメントを提出してもらい、次の講義でそれらを受講生全員と共有して、フィードバックしています。この方式は、受講生にとっては、同じ講義室にいる学友が、このテーマについてどんなことを考えているのかがわかってとても刺激になる、とたいへん好評です。アフリカにすっかりはまってしまった受講生のなかには、長期休暇中にアフリカへ渡航する人、アサファスに進学してアフリカでの研究に着手する方もいます。この講義が、一人でも多くの方にとって、アフリカを学ぶ機会になることを願っています。この文章を読んでくださっている貴方と、講義室でお目にかかる日を楽しみにしています。
哲学の(自転車)道
全学共通科目のスポーツ実習・フィットネス・サイクリングを担当している杉藤と申します。授業では、「スポーツ」を標榜し、段階的に運動負荷に適応(負荷にフィットした体になっていく)できるように毎週違うコース設定で学生たちとともに京都の町を走っています。ですが、私がこの授業を通して学生たちに伝えたいことは、体力アップよりも、学生生活を過ごす京都の町を深く学んでもらいたい、そこに興味を持つことから、体を動かして実地で物事を学ぶことの面白さを知ってもらいたい、ということです。
単にフィットネスを高めるために自転車を走らせるなら、京大に限らず、大学が立地するような都会を走ることは効率が決していいわけではありません。おそらくこの授業は、京都の町でしか成り立たないでしょう。知的好奇心を満たす興味のタネを探しに行くには、キャンパスの近くに文化的・自然遺産的なポイントが点在している必要があります。また、万一道に迷ってしまうようなときにも、大学まで戻ってくる道筋がわかりやすい必要があります。京都大学吉田キャンパスの立地は、まさにこれらの条件を満たすうってつけの場所なのです。
私は学生生活を札幌の町で過ごしました。ほとんどの時間を課外活動(ボート部)に費やしたと言っても過言ではありません。その活動から、競技では日本代表選手・コーチをつとめ、その後スポーツ学修士、国際プロフェッショナルコーチ資格を取得してきました。自分が大きな決断を下すときや、なにかよい考えをひらめくときは、教室や自分の下宿や図書館などではなく、たいていは、屋外に出てボートに乗って漕いでいるときか、そのトレーニングのために自転車で走っているとき、あるいはあてもなく散歩しているときでした。頭の中はぼんやりしたまま体を動かしているとき、実は脳は非常に高い活動レベルでクリエイティブな思考をしていることが科学的に証明されていると知ったのは、ずいぶん後になってからでした。
京都大学には、その境地に達した代表格のような先輩が居ます。京都学派の始祖、西田幾多郎先生です。先生が思索に耽るのは、もっぱら琵琶湖疎水分線の流れに沿って散歩をしながらであった、と言われています。いまその道は「哲学の道」と呼ばれています。
学生の皆さんが京都の町で過ごす限られた時間を、健康で、彩り多く、そして知的好奇心旺盛に過ごしてほしいと願っています。それに必要な体力を獲得することと、街角にひそむ興味深いあれこれを見つけることの手助けができれば、担当教員としてこの上ない喜びです。全国から、そして世界から様々な興味を持ち寄ってこの京都の町に集う仲間たちと一緒に、サイクリングに出かけませんか?
「思考の際」へと向かう旅
私は全学共通科目で「哲学Ⅰ」と「哲学Ⅱ」の科目を担当しています。
哲学は――いろいろな種類のものがあるので、一概に語るべきではないとは思いますが――その一面を敢えて強調すれば、ある種の「思考の際」、限界にまで、生身で行こうとする営み、と言うことができるのではないかと思います。理系も文系も関係なく、使える知識や経験を総動員して、「この私」が考えられる際のところまで行ってみる、ということです。
しかし、何のために(そんな「僻地」へ)?それは、人間には、自分の生きる世界について「全体」を、統一的に語ってみたいという、原理的な整理を志向する欲望があるからだと思います。たとえば、「世の中金だ」と言ってみたり、「死後の世界がある/ない」「神がいる/いない」と考えたり、「いや、世界の全体について考えることなどできない」とカウンター的に主張することさえ、ある種の「全体」を語ろうとする試みと言えます。そのような「全体」をめぐる思考や信念は、その人の生を陰に陽に支えているところがあるのではないでしょうか。ならば、欲望に基づいたそのような思考をより精緻に行おうとする哲学の営みは、実は比較的、人間の日常的な思考と地続きである、と言えると思います。つまり、誰もが潜在的にはすでに哲学者である、と言えるのかもしれません。
哲学史のなかには、上述のとおり、そこから先のことについては容易には考えられない、という岩壁――「全体」を縁取る「際」――まで行き着いているのではないか、と思わせる、思考の探検家による「旅の記録」が多く残されています。そして、それらの「旅の記録」に残る思考回路は、後続者による解読の試みを通して、世界についての新たな解釈をいまなお生み出し続けています。
私の「哲学Ⅰ」と「哲学Ⅱ」の授業では、それらの「旅の記録」(古典的著作)や「解説書」(研究書)を頼りに、私たち自身が、思考の旅に出ます(たとえば「哲学Ⅰ」ではフッサール、ハイデガー、デリダ、メイヤスーなどを扱います)。「思考の際」に向かう思考、その「際」が縁取る「全体」についての思考は、実は誰もが意識的/無意識的にすでに試みているものである――とすれば、自分自身のそうした思考を相対化し、さらに展開させるために、それを非常な厳密さとスケールで行った先人の軌跡を辿ることは、有益だと思います。時間もかぎられているため「短期滞在」にはなりますが、一緒にそうした「際」まで――そもそもそんな「際」などあるのか、確かめに――行きましょう。
論理学書生庭訓
拙講義「論理学基礎論」は受講希望者多数につき、毎度抽選必至です。御蔭様を以ちまして、このように満員御礼であるにも拘らず、高度な内容や早い進度等に鑑みますと、本授業は御世辞にも万人向きであるとは申せません。何しろ拙講義(前期開講のⅠと後期開講のⅡ)では、命題論理学の初歩から始めて述語論理学へと進み、後者の要諦を詳らかにした上で、述語論理学における完全性定理の証明と、ゲーデルの不完全定理の証明の概説にまで踏み込むのですから。それはいわば、峻峭(しゅんしょう)なる尾根を縦走して高嶺を目指す「パルナッソス山への階梯(Gradus ad Parnassum)」です。
では拙講義が、かくも難度の高い登山に皆さんを誘わんとするのは何故でしょうか。その理由は(エヴェレスト初登頂に挑んだマロリーの顰(ひそみ)に倣(なら)えば)「それがそこにあるから(Because it’s there.)」です。但しここで「それ」とは論理、そして「そこ」とは論理学を指します。つまり前述の理由は「論理が論理学にあるから」というわけですが、しかしこれはどういうことでしょうか。
論理学とは論理に関する学として、物事を正しく考える上で規矩準縄(きくじゅんじょう)となる論理とはいかなるものであるかを問い、それについて考える営みです。しかるにその際、我々は論理について、当然どこまでも正しく考え抜く必要がある訳ですから、論理学はそれ自体、今述べた規矩準縄(つまり論理)に従うものでなければなりません。そうすると、論理とは何かを問う為には、論理学は当の論理を何らかの仕方で事前に理解していなければなりません。その意味で、未知である筈の論理は、既知の事柄として論理学の中に予め存している訳です。
問われるべきものが、それを問うことをそもそも可能にしている。解らないことが漠然とではあれ、もう解っている。こうした謎めいた事態は私の研究の主たる対象である哲学、就中(なかんずく)、存在論の特徴でもあります。というのも存在論の遂行――つまり存在(ある)を問うてあること――とは、自己自身が現に存在することにおいて、まさにその存在するということを問題にする営為に他ならないからです。
ともあれ、皆さんも拙講義で論理学の話の輪の中に御入り下さい。きっとツボにはまりますよ。尤もその輪はメビウスの輪、そのツボはクラインの壺かもしれませんが……。
京大へ来て世界を知ろう!
皆さん、京都大学へようこそ!私は、全学共通科目で「南アジアの政治と社会」という授業を担当しています。インド政治を専門としていますので、インドの政治と社会の話を中心に講義しています。
皆さんは、インドに行ったことはありますか?私は、大学1年生の春休みに初めてインドに行き、世界の広さを知りました。日本とは全く異なる社会で、人がとにかく多いことやその鋭い視線、街の喧騒、スパイスや何かよくわからないものが混ざり合った独特の匂い、街をうろつく野良牛、ことある毎にぼったくろうとする物売り、やたらと強い日光など、毎日を生きていくのが大変でしたが、これがなぜか面白い。自分の想像を超える世界が目の前に広がっているのを実感したとき、世界の奥行きの広さに感動しました。インドに行くと人生が変わると言われたものですが、大学に入ったときには自分が教師としてインド政治を教えることになるとは夢にも思っていなかったため、私もその一人になりました。
この文章を書いているのは、皆さんにインドに行って欲しいためではありません(もちろん、行きたいと思った人は行ってください!)。そうではなく、私にとっての「インド」のような存在を、大学で見つけてほしいという願いから書いています。皆さんにはそれぞれの人生の目標があり、その目標を実現するために京都大学に関心を持ち、時としてつらくなる受験勉強に打ち込んでいるのではないか、と想像します。その目標は大事に持っていてください。ただ、大学に入ると、その目標を根底から覆すような大転換が起こることがあるということです。私の場合は、まずはインド旅行であり、そして、大学の講義・ゼミでした。インド世界と同様に、学問の世界も奥深く、人生をかける価値があると知り、今に至っています。
大学とは英語でUniversity、まさに全世界、そして無限に広がる宇宙を学ぶ場です。私の専門である地域研究に引きつければ、所属するアジア・アフリカ地域研究研究科は、日本でも指折りの地域研究の中心拠点です。私にとっての「インド」を教えることができる先生方が揃っています。京都大学で、皆さんの更なる飛躍を手伝えることを楽しみにしています。
目次
京都でアフリカを学ぼう!――アジア・アフリカ地域研究研究科 准教授 金子 守恵 先生
哲学の(自転車)道
――公益財団法人滋賀レイクスターズ 理事 杉藤 洋志 先生
「思考の際」へと向かう旅
――国際高等教育院 非常勤講師 貫井 隆 先生
論理学書生庭訓
――国際高等教育院 教授 安部 浩 先生
京大へ来て世界を知ろう!
――アジア・アフリカ地域研究研究科 教授 中溝 和弥 先生
京都でアフリカを学ぼう!
――アジア・アフリカ地域研究研究科 准教授 金子 守恵 先生
全学共通科目「地域研究概論」では、大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS(アサファス))の教員6人がアフリカで取り組んでいる研究について学ぶことができます。現在この講義で取りあげているテーマは、「『もの』のサーキュレーション(循環)」です。ここで注目する「もの」は、商品や日用品、お金、水、廃棄物など有形の「もの」だけではなく、組織や制度、儀礼や信仰、出来事に対する人びとの記憶のような無形の「もの」も含めています。講義ではこれらの「もの」が、それぞれの地域の自然環境や、人びとがつちかってきた知識によっていかに循環しているのか(もしくは留まっているのか)を理解し、その循環の仕組みについて考えます。
京都大学では、1960年代からアフリカでのフィールドワーク(現地調査)に着手してきました。そのアプローチや考え方は、諸外国で展開してきた地域研究とはちがっていて、長期にわたるフィールドワークにもとづいて進展してきました。この科目を担当する6人の教員もまた、ザンビア、ケニア、カメルーン、セネガル、ブルキナファソ、マリ、エチオピアなどで、長期間のフィールドワークに取り組んできました。担当教員の中には、フィールドワークを介して、現地の人びとにとっての問題や関心について理解を深め、研究と実践(技術協力など)を架橋するようなプロジェクトに取り組んでいるものもいます。講義のなかでは、そのような実践活動を内包した研究プロジェクトを紹介し、アフリカが現在直面する課題や、それを乗り越えるアフリカ在来の考え方やその可能性についても考えます。
受講生は、1〜2年生が中心ですが、3年生や4年生、さらには大学院生が聴講にきてもいます。授業の終わりには質問やコメントを提出してもらい、次の講義でそれらを受講生全員と共有して、フィードバックしています。この方式は、受講生にとっては、同じ講義室にいる学友が、このテーマについてどんなことを考えているのかがわかってとても刺激になる、とたいへん好評です。アフリカにすっかりはまってしまった受講生のなかには、長期休暇中にアフリカへ渡航する人、アサファスに進学してアフリカでの研究に着手する方もいます。この講義が、一人でも多くの方にとって、アフリカを学ぶ機会になることを願っています。この文章を読んでくださっている貴方と、講義室でお目にかかる日を楽しみにしています。
目次へ戻る
哲学の(自転車)道
――公益財団法人滋賀レイクスターズ 理事 杉藤 洋志 先生
全学共通科目のスポーツ実習・フィットネス・サイクリングを担当している杉藤と申します。授業では、「スポーツ」を標榜し、段階的に運動負荷に適応(負荷にフィットした体になっていく)できるように毎週違うコース設定で学生たちとともに京都の町を走っています。ですが、私がこの授業を通して学生たちに伝えたいことは、体力アップよりも、学生生活を過ごす京都の町を深く学んでもらいたい、そこに興味を持つことから、体を動かして実地で物事を学ぶことの面白さを知ってもらいたい、ということです。
単にフィットネスを高めるために自転車を走らせるなら、京大に限らず、大学が立地するような都会を走ることは効率が決していいわけではありません。おそらくこの授業は、京都の町でしか成り立たないでしょう。知的好奇心を満たす興味のタネを探しに行くには、キャンパスの近くに文化的・自然遺産的なポイントが点在している必要があります。また、万一道に迷ってしまうようなときにも、大学まで戻ってくる道筋がわかりやすい必要があります。京都大学吉田キャンパスの立地は、まさにこれらの条件を満たすうってつけの場所なのです。
私は学生生活を札幌の町で過ごしました。ほとんどの時間を課外活動(ボート部)に費やしたと言っても過言ではありません。その活動から、競技では日本代表選手・コーチをつとめ、その後スポーツ学修士、国際プロフェッショナルコーチ資格を取得してきました。自分が大きな決断を下すときや、なにかよい考えをひらめくときは、教室や自分の下宿や図書館などではなく、たいていは、屋外に出てボートに乗って漕いでいるときか、そのトレーニングのために自転車で走っているとき、あるいはあてもなく散歩しているときでした。頭の中はぼんやりしたまま体を動かしているとき、実は脳は非常に高い活動レベルでクリエイティブな思考をしていることが科学的に証明されていると知ったのは、ずいぶん後になってからでした。
京都大学には、その境地に達した代表格のような先輩が居ます。京都学派の始祖、西田幾多郎先生です。先生が思索に耽るのは、もっぱら琵琶湖疎水分線の流れに沿って散歩をしながらであった、と言われています。いまその道は「哲学の道」と呼ばれています。
学生の皆さんが京都の町で過ごす限られた時間を、健康で、彩り多く、そして知的好奇心旺盛に過ごしてほしいと願っています。それに必要な体力を獲得することと、街角にひそむ興味深いあれこれを見つけることの手助けができれば、担当教員としてこの上ない喜びです。全国から、そして世界から様々な興味を持ち寄ってこの京都の町に集う仲間たちと一緒に、サイクリングに出かけませんか?
目次へ戻る
「思考の際」へと向かう旅
――国際高等教育院 非常勤講師 貫井 隆 先生
私は全学共通科目で「哲学Ⅰ」と「哲学Ⅱ」の科目を担当しています。
哲学は――いろいろな種類のものがあるので、一概に語るべきではないとは思いますが――その一面を敢えて強調すれば、ある種の「思考の際」、限界にまで、生身で行こうとする営み、と言うことができるのではないかと思います。理系も文系も関係なく、使える知識や経験を総動員して、「この私」が考えられる際のところまで行ってみる、ということです。
しかし、何のために(そんな「僻地」へ)?それは、人間には、自分の生きる世界について「全体」を、統一的に語ってみたいという、原理的な整理を志向する欲望があるからだと思います。たとえば、「世の中金だ」と言ってみたり、「死後の世界がある/ない」「神がいる/いない」と考えたり、「いや、世界の全体について考えることなどできない」とカウンター的に主張することさえ、ある種の「全体」を語ろうとする試みと言えます。そのような「全体」をめぐる思考や信念は、その人の生を陰に陽に支えているところがあるのではないでしょうか。ならば、欲望に基づいたそのような思考をより精緻に行おうとする哲学の営みは、実は比較的、人間の日常的な思考と地続きである、と言えると思います。つまり、誰もが潜在的にはすでに哲学者である、と言えるのかもしれません。
哲学史のなかには、上述のとおり、そこから先のことについては容易には考えられない、という岩壁――「全体」を縁取る「際」――まで行き着いているのではないか、と思わせる、思考の探検家による「旅の記録」が多く残されています。そして、それらの「旅の記録」に残る思考回路は、後続者による解読の試みを通して、世界についての新たな解釈をいまなお生み出し続けています。
私の「哲学Ⅰ」と「哲学Ⅱ」の授業では、それらの「旅の記録」(古典的著作)や「解説書」(研究書)を頼りに、私たち自身が、思考の旅に出ます(たとえば「哲学Ⅰ」ではフッサール、ハイデガー、デリダ、メイヤスーなどを扱います)。「思考の際」に向かう思考、その「際」が縁取る「全体」についての思考は、実は誰もが意識的/無意識的にすでに試みているものである――とすれば、自分自身のそうした思考を相対化し、さらに展開させるために、それを非常な厳密さとスケールで行った先人の軌跡を辿ることは、有益だと思います。時間もかぎられているため「短期滞在」にはなりますが、一緒にそうした「際」まで――そもそもそんな「際」などあるのか、確かめに――行きましょう。
目次へ戻る
論理学書生庭訓
――国際高等教育院 教授 安部 浩 先生
拙講義「論理学基礎論」は受講希望者多数につき、毎度抽選必至です。御蔭様を以ちまして、このように満員御礼であるにも拘らず、高度な内容や早い進度等に鑑みますと、本授業は御世辞にも万人向きであるとは申せません。何しろ拙講義(前期開講のⅠと後期開講のⅡ)では、命題論理学の初歩から始めて述語論理学へと進み、後者の要諦を詳らかにした上で、述語論理学における完全性定理の証明と、ゲーデルの不完全定理の証明の概説にまで踏み込むのですから。それはいわば、峻峭(しゅんしょう)なる尾根を縦走して高嶺を目指す「パルナッソス山への階梯(Gradus ad Parnassum)」です。
では拙講義が、かくも難度の高い登山に皆さんを誘わんとするのは何故でしょうか。その理由は(エヴェレスト初登頂に挑んだマロリーの顰(ひそみ)に倣(なら)えば)「それがそこにあるから(Because it’s there.)」です。但しここで「それ」とは論理、そして「そこ」とは論理学を指します。つまり前述の理由は「論理が論理学にあるから」というわけですが、しかしこれはどういうことでしょうか。
論理学とは論理に関する学として、物事を正しく考える上で規矩準縄(きくじゅんじょう)となる論理とはいかなるものであるかを問い、それについて考える営みです。しかるにその際、我々は論理について、当然どこまでも正しく考え抜く必要がある訳ですから、論理学はそれ自体、今述べた規矩準縄(つまり論理)に従うものでなければなりません。そうすると、論理とは何かを問う為には、論理学は当の論理を何らかの仕方で事前に理解していなければなりません。その意味で、未知である筈の論理は、既知の事柄として論理学の中に予め存している訳です。
問われるべきものが、それを問うことをそもそも可能にしている。解らないことが漠然とではあれ、もう解っている。こうした謎めいた事態は私の研究の主たる対象である哲学、就中(なかんずく)、存在論の特徴でもあります。というのも存在論の遂行――つまり存在(ある)を問うてあること――とは、自己自身が現に存在することにおいて、まさにその存在するということを問題にする営為に他ならないからです。
ともあれ、皆さんも拙講義で論理学の話の輪の中に御入り下さい。きっとツボにはまりますよ。尤もその輪はメビウスの輪、そのツボはクラインの壺かもしれませんが……。
目次へ戻る
京大へ来て世界を知ろう!
――アジア・アフリカ地域研究研究科 教授 中溝 和弥 先生
皆さん、京都大学へようこそ!私は、全学共通科目で「南アジアの政治と社会」という授業を担当しています。インド政治を専門としていますので、インドの政治と社会の話を中心に講義しています。
皆さんは、インドに行ったことはありますか?私は、大学1年生の春休みに初めてインドに行き、世界の広さを知りました。日本とは全く異なる社会で、人がとにかく多いことやその鋭い視線、街の喧騒、スパイスや何かよくわからないものが混ざり合った独特の匂い、街をうろつく野良牛、ことある毎にぼったくろうとする物売り、やたらと強い日光など、毎日を生きていくのが大変でしたが、これがなぜか面白い。自分の想像を超える世界が目の前に広がっているのを実感したとき、世界の奥行きの広さに感動しました。インドに行くと人生が変わると言われたものですが、大学に入ったときには自分が教師としてインド政治を教えることになるとは夢にも思っていなかったため、私もその一人になりました。
この文章を書いているのは、皆さんにインドに行って欲しいためではありません(もちろん、行きたいと思った人は行ってください!)。そうではなく、私にとっての「インド」のような存在を、大学で見つけてほしいという願いから書いています。皆さんにはそれぞれの人生の目標があり、その目標を実現するために京都大学に関心を持ち、時としてつらくなる受験勉強に打ち込んでいるのではないか、と想像します。その目標は大事に持っていてください。ただ、大学に入ると、その目標を根底から覆すような大転換が起こることがあるということです。私の場合は、まずはインド旅行であり、そして、大学の講義・ゼミでした。インド世界と同様に、学問の世界も奥深く、人生をかける価値があると知り、今に至っています。
大学とは英語でUniversity、まさに全世界、そして無限に広がる宇宙を学ぶ場です。私の専門である地域研究に引きつければ、所属するアジア・アフリカ地域研究研究科は、日本でも指折りの地域研究の中心拠点です。私にとっての「インド」を教えることができる先生方が揃っています。京都大学で、皆さんの更なる飛躍を手伝えることを楽しみにしています。