企画

志賀越道を歩く

2023.06.01

志賀越道を歩く

琵琶湖を望む滋賀里の道

京大本部構内の下に、分断された古道が眠っている。京都荒神口から北白川を経て、滋賀へと続く志賀越道だ。山中越や今道越とも呼ばれ、近世まで京滋連絡を担う主要交通路のひとつであったが、東海道が整備されると次第にその役割を失い荒廃していった。今なお残る遺構を辿り、往時の賑わいに思いを馳せながら、近江までの道のりを歩いてみた。(汐・輝)


目次

一、スタートは荒神口
二、寺なのに鳥居?
三、序盤は登校気分
四、京大に眠る古道
五、謎の「大」の字
六、バスのUターン
七、山中の生命線
八、山中町
九、無動寺道の道標
十、踏破へ立ちはだかる壁
十一、安全祈願の大仏
十二、意外な「日本最初」
十三、フィナーレは琵琶湖
コラム:志賀越道と花崗岩
後記




一、スタートは荒神口


志賀越道のはじまりは河原町通の「荒神口」交差点。桃山時代、洛中の四方をめぐる御土居に開かれた「京の七口」のひとつだ。

旅の始まりを告げる都の出口で、人々は悲喜さまざまな感慨に浸ったことだろう。今では街道のほうがすっかり間道の風情で、たまに通る車が遠慮がちに河原町通へと曲がっていく。

目次へ戻る

二、寺なのに鳥居?


目指す近江とは反対、御所の方に目を向けると、「日本最初 清三宝大荒神」と書かれた看板が目に止まった。荒神口の由来となった「護浄院」の三宝荒神だ。「日本最初」が気になり境内に入ってみると、何か違和感がある。構えはお寺のそれなのだが、本堂の前に鳥居が立っているのだ。

寺務所に尋ねたところ、鳥居は神仏習合の名残だそう。同寺はもともと摂津国勝尾山(大阪府箕面市)にあった霊場を都の護りとして遷したもの。「日本最初」はもとの霊場が三宝大荒神尊を最初に祀った場所であることからだそうだ。

道中の安全を祈ってお参りしてゆくことにする。寺務所の方に作法を尋ねると、「手を合わせる人も、たたく人もいる」とのことで、そこまで厳密ではないのかもしれない。お参りの時は、真言「唵欠婆耶欠婆耶裟婆訶」を7回か21回唱えるとよいと話してくれた。

鈴ではなく鉦を鳴らして参拝する



目次へ戻る

三、序盤は登校気分


荒神橋をわたって川端通りに出る。鴨川を心地よい風が吹き抜け、待ち受ける山越えも怖くない気がする。街道はたばこ屋の脇から北東に続く。この辺りは京大のお膝元で、沿道には関連施設が多い。

少し進むと、道の左手に「第三高等学校基督教青年会館跡」の石碑を見つけた。第三高等学校(三高)は現在の総合人間学部の前身。碑文によれば会館は三高の基督教青年会(YMCA)の集会所として1894年に建設されたという。国土地理院が公開している航空写真を見ると1970年代までは建物が確認できる。石碑の建立は82年なので、取り壊しにあたって建てられたものかもしれない。

さらに進むとほどなく東山東一条の交差点に出た。見慣れた大学の生垣が正面に見えて、まだ序盤なのに「着いた」気分だ。

駐車場脇にひっそりとたつ石碑



目次へ戻る

四、京大に眠る古道


本部構内の西南隅には、金属の覆いで保護された道標が埋まっている。よく注意してよむと、「右 さかもと からさき」とあり志賀越道の標識であることが分かる。1864年、幕末の政争のさなか尾張藩が吉田に新たな藩邸を建設した。この藩邸は建設にあたり志賀越道を分断した。近世には交通の大半が今出川通に移行し、志賀越道の通行量が著しく減っていたためと考えられている。藩邸の跡地に建った本部構内の地下には旧道の遺構があり、現在の本部棟・法経校舎・総合研究7号館周辺を経て北東に伸びていたことが調査により明らかになっている。

目次へ戻る

五、謎の「大」の字


京都大学から外へと抜けると、本部構内東側を通る道と志賀越道の交差点に「大」の文字を刻んだ石が埋め込まれているのが目に入る。この「大」の字には何の意味があるのか。そこで、京都市に電話で問い合わせてみた。「詳しいことはわからない」と言われたが、「大学の『大』で、京都大学の境界標ではないのか」との情報を受けた。調べてみると同様の境界標が全国にあるようだ。ただ、境界標とは土地の境界の頂点に置かれるものだが、なぜ大学の敷地から少し離れたところに境界標があるのか。過去の地図を見ても、境界標と大学の位置関係は変わっておらず、答えは分からなかった。

「大」の字が彫られている



目次へ戻る

六、バスのUターン


仕伏町バス停では、バスのUターンが見られる。3系統のバスはここで折り返し、四条通や松尾橋へと向かう。こうしたUターンは1時間に最大で6回行われ、そのたびに係員が現れ誘導を行っている。係員に尋ねたところ、バスの位置情報を携帯電話で確認して、誘導の準備をしているという。バスが来ない間は近くの建物の1階で待機している。待機部屋は一人でいるにはちょうどいい広さだ。待機中は時々訪ねて来る利用客へ対応することもあるというが、ぼうっとしていることが多いのだそう。時間帯によっては便数は1時間に2本と、待機時間はかなり長いはずだ。忍耐のいる仕事である。

志賀越道に入ってUターンする3系統



目次へ戻る

七、山中の生命線


御蔭通りを通り過ぎると勾配が増していき、最初は軽快だった足取りも徐々に重くなっていく。申し訳程度に設けられた歩道もついにはなくなった。片側一車線という道路の狭さも相まって、交通量が余計に気になった。それもそのはずだ。山の合間を縫うようなヘアピンカーブが連続するこの道を、1日上下5千台以上(2005年時点)が通過するという。歩いている間も、軽自動車からトラックまで自分たちの真横をスピードよく通り抜けて行き、怖い思いをしながら歩いた。近世以後は逢坂越に京津間ルートとしての役割を奪われており、国道1号線といった大幹線道路の裏道としか思っていなかったが、古来から果たしてきた輸送路としての役割を今もなお果たしていることを肌で感じた。

目次へ戻る

八、山中町


下鴨大津線を歩くと、突如として集落が出現する。山中町は人口が百人余りの小規模の集落である。同町の樹下神社の一の鳥居付近にある山の井は、紀貫之が歌題として詠んだことで有名である。

その樹下神社は町内の中心部にある。同神社は、延暦寺と関係が深い日吉大社を勧請したため、もとは日吉八王子宮という名前だったが、1869年になり、樹下神社へと改称した。同社では、1月15日にお弓行事が行われる。この行事は一年の煩悩と災いを払うために行われる。式では2人が弓とり役として選ばれ、「鬼」と書かれた的へ矢を二度放つ。最後に空高くへと弓射し「もっと天井をやぶれ」と掛け声が上がる。儀式が終わると、子どもたちが綱引きをするという。こうした地域ぐるみの行事は大津市の無形文化財に登録されている。

樹下神社の一の鳥居



目次へ戻る

九、無動寺道の道標


旧道を歩いていると燈籠と道標が立っているのが見えた。

燈籠には「辨財天女」、道標には「むどうじみち辨財天女不動明王」と書かれていた。これは無動寺明王堂、弁天堂を指しているのだろうか。無動寺は天台宗の寺院で、千日回峰行と呼ばれる修行の拠点である。実際、2つのお堂は道標から4㌔圏内にあり、道標に書かれていた「是より三十六丁(=約3・9㌔)」の記述とおおむね合致している。道標の先には、志賀街道との分岐路らしきものが続いていたが、国土地理院地図に載っていない。本当に無動寺に通じているのか気になったが、本来の目的から逸れるので先へ進む。

街道には常夜燈がよく見られる



旅人どもが夢の跡 2023年5月現在、志賀峠周辺から崇福寺跡の下(大津市滋賀里町甲)まで通行止めになっており、残念ながら志賀越道を踏破することはできない。昨年夏に大雨で道路が崩落したことによるもので、市の担当部署によると「復旧の目途はたっていない」という。今どき旧道を歩いて越える者は暇人か物好き位で、長期の不通は問題にならないのだろう。ひっそりとした林道にかつての往還の面影はなく、規制線が解かれる日は来るだろうかと心もとなく感じた。

目次へ戻る

十、踏破へ立ちはだかる壁


峠へ向かう途中、歩きにくさがかなり気になった。前日に雨が降ったことに加えて、一帯が風化しやすい花崗岩質であることと関係があるのか、地面は砂っぽく、足を踏み込むと崩れてしまう。足が滑らないように力を入れなければならず、運動不足の自分にはかなり堪えた。

砂防ダムを越えると目の前の光景に言葉を失った。根元から倒れた木々が折り重なり、行く手を阻んでいた。そもそもこれは道なのか。筆者は先へ進むことを躊躇したが、「これぐらいなら大丈夫」と言いながら、前を進む汐の足は止まりそうにもなかったので、大人しくついていった。

しばらくして比較的整備された登山道へと出た。先ほどの酷道とは異なり、かなり歩きやすかった。このまま街道踏破かと思われた。しかし、山が急に開けた場所に出た。道が崩落していた。斜面には、倒木のみならず、岩石が転がっており、災害の爪痕が残されていた。前日の雨もあり、ここを歩くのはかなり危険そうだった。

斜面の表層が流されている



目次へ戻る

十一、安全祈願の大仏


崇福寺跡から少し下るとお堂があり、奥に阿弥陀如来像が祀られている。高さ約3・5㍍、幅2・7㍍の花崗岩に彫られた大きな石仏で、「志賀の大仏」と呼ばれる。山道の入口にあるこの石仏は、北白川および山中町にある石仏とともに、旅人が安全を祈願する場所であった。堂内は綺麗に保たれている。地域の講によって維持され、大切にされているようだ。

緑に囲まれたお堂



目次へ戻る

十二、意外な「日本最初」


志賀越道の近江側の入口にあたる滋賀里は、際川が形成した扇状地で、豊かな自然環境が古くから人々の営みを支えてきた。

道沿いの集落では、生垣にチャノキが使われている。珍しいと思い進むと、古い看板に「日本の茶栽培の発祥地」とあった。8世紀に入唐した僧・永忠が805年に茶の種を持ち帰り、帰国後勤めた崇福寺の寺域で栽培したことが始まりだという。嵯峨天皇の唐崎行幸の折、ここで作られた茶が献上された。地元ではこれが日本最初の茶の接待と伝えられている。

看板を設置した地域のガイド団体に話を聞くと、同地では近年まで自家用の茶を盛んに生産していた。製法は伝統的な手揉みだったが、負担の大きさから、高齢化や代替わりにともなって廃れてしまったそうだ。

琵琶湖を望む滋賀里の道



目次へ戻る

十三、フィナーレは琵琶湖


滋賀里から東へ進むと、琵琶湖にぶつかる。一帯は4世紀には景行天皇らの近江朝廷が置かれた穴太や、7世紀に近江大津宮の表玄関・唐崎の津など歴史が深く、皇室との縁から皇族や文化人の足跡も多い。

近隣の景勝地として琵琶湖をあげる京大生も少なくないことと思う。京大と琵琶湖で真っ先に思い浮かぶのは、1906年に創部した瑞艇部だ。かつての部員が作詞した「琵琶湖周航の歌」には、湖上から望む「志賀の都」の様が描写されている。創部当初、大会の会場であった大津の三保が崎へは鉄路の便がなく、初期の部員は今回我々が歩いた志賀越えの一つ南、山科からの小関越を歩いて滋賀を目指していたらしい。現在のボート部の活動については、6面「京大知伝」で扱っている。お読みいただけると幸いである。

目次へ戻る

コラム:志賀越道と花崗岩

花崗岩はマグマがゆっくり冷えて固まった深成岩の一種で、白や淡灰に黒の斑点が散在しているのが特徴だ。この花崗岩と志賀越道は切っても切れない関係にある。

志賀越道が通る地域は、大文字山と比叡山に挟まれているものの、標高は周辺にくらべて低い。この地域には一億年前マグマが入りこみ、その熱に触れた岩石が固く変質した。一方、マグマ自体は風雨に弱い花崗岩になる。花崗岩の部分が特に浸食されて、人が越えやすい標高の低い地帯が形成されたというわけだ。

沿道を流れる川の砂は、花崗岩が削られてできたため白い。白砂を敷き詰めたような川底の様子から「白川」の名がついたと言われる。この川砂は「白川砂」と呼ばれ、京都の多くの庭園で使われるものだ。

花崗岩は石材になると御影石と呼ばれる。磨くと光沢が出る美しさから、石碑や墓石などさまざまな用途に用いられる。北白川は上質な「白川石」の産地として名高く、近代まで石工の里として栄えた。

沿道にある石仏の多くは、花崗岩に彫刻したものである。人間が通行できる地形を生みだし、沿道の産業振興に寄与したこの岩石は、まさに街道を護る存在なのだろう。

目次へ戻る

後記


車で帰京

車で来ていた別の編集員と合流して、京都まで乗せてもらうことになった。かなり疲弊したのだが、筆者は何を血迷ったか「帰りは自分が運転する」と言い出したが、説得をうけおとなしく後部座席に乗った。帰る途中、自分たちが歩いて来た道を通った。あれだけ苦労して歩いた道を、車は呆気なく通過してしまい、どこか空しかった。御蔭通りに出ると、見慣れた町が目の前に現れる。離れていた時間は6時間とわずかだったが、久しぶりに故郷に帰った時のような安心感があった。(輝)

厳しさ実感

近世末期には廃れていたこともあり、山中から志賀峠までの区間には獣道とでもいうべき荒れた箇所も見られた。多くの人貨が往来したかつての繁栄は、散在する寺社や旧家によってわずかに想像せらるるばかりであったが、旧都どうしを結ぶ道沿いには思わぬ歴史が並んでおり興味深かった。完歩はならずも疲れを足腰に受け、かつての旅の労苦を体感するには十分だった。(汐)

目次へ戻る