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京都大学の建物Vol.1 教育推進・学生支援部棟 (旧石油化学教室建物) 京大最古とされる建築と増築の歴史

2022.12.01

京都大学の建物Vol.1 教育推進・学生支援部棟 (旧石油化学教室建物) 京大最古とされる建築と増築の歴史

時計台に面する建物東側の入口

1889年、洛東の小丘陵・神楽岡に抱かれ、田園の広がる吉田の地に、広い敷地を求めて大阪から移転してきた第三高等中学校。煉瓦造りの本校と寄宿舎、それに付随する数棟の建物から始まったこの学校が、京都大学の前身である。長い歴史の中で、高等教育を担う同校の役割は次第に大きくなり、部局の新設や設備の更新にあわせて建物数が増加。今や構内に建つ建物の延べ面積は130万平米を超えている。必要に応じて施設の拡充が行われてきた経緯から、京大構内の建物は意匠が必ずしも統一されておらず、建築年代や用途によってさまざまな様式が見られる。

「京都大学の建物」は、京大構内の建物ひとつひとつに焦点をあて、その特徴や来歴を紹介する企画である。第一回となる今回は、本部構内の教育推進・学生支援部棟(旧石油化学教室建物)を取り上げる。(汐)

教育推進・学生支援部棟

教育推進・学生支援部棟



増築部分どうし(=図④と⑤)の継ぎ目。建物の外に出っ張りがある

増築部分どうし(=図④と⑤)の継ぎ目。建物の外に出っ張りがある



法経本館側から見た同棟。1階と2階の煉瓦の色が異なる

法経本館側から見た同棟。1階と2階の煉瓦の色が異なる



京都大学吉田キャンパスのシンボル、時計台とクスノキのある広場から西に目を向けると、植栽の中でひときわ目立つ赤れんがの建物が教育推進・学生支援部棟だ。現在は厚生課や国際関係の部局などが入っている。この建物は第三高等中学校が京都に移転した際に建てられた物理学実験場を母体としているが、その後数十年にわたり何度も増築が行われ、同じ建物ながら時代ごとに設計者や意匠が異なる点が特徴である。

1889 旧物理学実験場 第三高等中学校の面影残す貴重な建物


建築:1889(明治22)年11月
設計:山口半六・久留正道ほか
構造:煉瓦造り1階建

旧物理学実験場は、1888年3月、第三高等中学校の新築移転工事の際に建築が始まった。完成は89年で、構内に現存する最古の建物とされる(注)。第三高等中学校の校舎としては学内唯一の遺構であり、歴史的価値が高い。煉瓦造りで、窓周りのアクセントには白色系の石材を用い、寄棟(よせむね)造の屋根に日本瓦を葺いた意匠は、現存しない第三高等中学校本校と共通のもの。縦長の窓の上にはアーチ状に煉瓦が組まれており、屋根の上には通風のためのドーマー窓を設けている。本校は第三高等学校や京都帝国大学に引き継がれ本館として使われたが、1912年10月22日、化学教室からの火事で焼失。13年後の25年に新本館として同じ場所に時計台が建てられている。

物理学実験場の設計にあたったのは山口半六(やまぐち・はんろく)と久留正道(くる・まさみち)。ふたりは文部省が管轄する施設の設計や建築を担う同省営繕部の技師で、第三高等中学校の京都移転にあたってほとんどの建物を手がけた。実際の工事を請け負ったのは、日本初の建築を担う法人組織である日本土木会社。同社の設立には大倉組や藤田組といった明治期の財閥や、渋沢栄一らが関与している。

(注)――「京都大学百年史」など大学の公式資料では、1889年11月竣工の物理学実験場を構内で最も古い建物としてきた。だが、2011年と翌12年に建築家の山根芳洋氏が行った調査で、1913年の設計とされてきた吉田寮食堂や現棟の一部が、物理学実験場よりも4か月古い、第三高等中学校の寄宿舎を移築・転用したものであると指摘されている。

1894-97 第三高等学校への改組と京都帝大の創設


1894年に施行された高等学校令に基づき、高等中学校が高等学校に改組される。この政令によって高等学校は大学予科の設置を求められ、帝大進学に備える予備学校的な性格を強めた。一方、帝国大学への再編が意図されていた第三高等学校(三高)では大学予科が設置されず、高等中学時代から引き続き専門教育を提供した。97年には、京都帝国大学が創設された。結果的に京都帝大は三高とは別個に設置されたため、三高は京都帝大に敷地を譲り、現在の吉田南構内へ移転、大学予科を設置した。

1898・1909 明治期の増築 京都帝大理工科大学 物理学教室及び数学教室 物理学実験場と意匠を揃えた平屋建の煉瓦建築


木々の間から朝日が射す

木々の間から朝日が射す


建築:《写真手前の下階=図②》1898(明治31)年
  :《写真おくの下階=図③》1909(明治42)年
※2階部分は大正期の増築
設計:山本治兵衛
構造:煉瓦造り1階建(竣工時)

1897年、京都帝大の新設に伴い、現在の大学の学部にあたる「分科大学」のうち、理学部・工学部の前身である「理工科大学」が新たに設置される。同科の物理学教室及び数学教室として、旧第三高等中学校の物理学実験場の北側に、平屋建ての校舎が増築された。完成は98年で、煉瓦造りの平屋建て。縦長窓の上にアーチ状に煉瓦を組み、窓周りのアクセントに白い石材を用いるあしらいは、9年前に建設された物理学実験場とほぼ同様の意匠である。設計は文部省の技師、山本治兵衛(やまもと・じべえ)によるもの。山本は実験場の建設時に現場工事を担当し、設計者の山口・久留の連絡役を務めた点が特筆される。

1907年、京都帝国大学建築部が新設され、それまで文部省が担ってきた建築業務を、学内の部局が担当することとなる。山本は初代の建築部長に就任、19年に逝去するまで同職をつとめ、京都帝大の施設建設に携わった。

1909年には、同棟の東側入口よりも南側にさらなる増築がなされた。それまでに建設された部分と同様に煉瓦造り平屋建てで、屋根や窓周りの意匠も、基本的に物理学実験場や1898年の増築部分を踏襲している。設計は山本によるもの。二度の増築の間には11年のブランクがあるが、山本が設計した増築部分は比較的まとまった印象を受ける。

1914・1922 1923 大正期の増築 物理学教室・数学教室階上部 宇宙物理学教室


階上部(東側)=図④
建築:1914(大正3)年
設計:山本治兵衛・永瀬狂三
構造:煉瓦造り2階建

階上部(北側)=図⑤
建築:1922(大正11)年
設計:永瀬狂三
構造:煉瓦造り2階建



地球物理学教室=図⑥
建築:1923(大正12)年
設計:永瀬狂三
構造:鉄筋コンクリート造3階建



1909年3月、京都帝大の建築部に、永瀬狂三(ながせ・きょうぞう)が勤務を開始する。永瀬は06年に東京帝大の建築学科を卒業し、東京駅丸の内口駅舎などを設計した辰野金吾(たつの・きんご)や、洋風建築に日本の城郭風の屋根を冠する「帝冠様式(ていかんようしき)」を主張した下田菊太郎(しもだ・きくたろう)など、同時代の巨匠のもとで働いた経験を持っていた。

1914年には山本と永瀬の手によって、明治期の増築部分のうち時計台に面した東側の部分に、階上部が建て増しされる。8年後の22年には、永瀬の手で附属図書館に面する北側の階上部も完成し、増築部分は全て2階建てになった。物理学実験場と意匠が揃った平屋の増築部分と異なり、階上部分は窓の開口部の上下を石材などで水平に強調する、リンテルコース・シルコースといった新しい意匠を取り入れており、印象が大きく異なる。

階上部が完成した翌年の1923年には、増築部の西隣に地球物理学教室が建てられた。隣接する物理学教室及び数学教室の階上部とよく似た意匠だが、こちらは鉄筋コンクリート造り。上に煉瓦のタイルを貼ることで、従来の煉瓦造りと見た目を揃えている。18年築の旧三高新徳館や、23年築の農学部本館(いずれも現存せず)と並び、京大構内では比較的古くに完成した鉄筋コンクリート建築だ。

1926-69 4名のノーベル賞受賞者を輩出


もともと物理学実験場として建てられた同棟は、増築部も物理学や数学の校舎として使われてきた。1949年に日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹と、三高時代からの湯川の同期で、65年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の二人は、1926年から29年にかけて、学生として物理学教室で学んだ。

1928年、京大吉田キャンパスを縦断する東大路通りに開通した路面電車の騒音を避けるため、30年から37年にかけて物理学・数学の教室は北部構内に移転。39年に新設された工学部燃料化学科が同棟に入る。81年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一は同学科を41年に卒業し、その後教員として教えた。66年に同科は石油化学科に改組されるが、この学科にはノーベル化学賞を2019年に受賞した吉野彰が、66年から70年にかけ学部生として所属していた。吉野が学部3回生の69年に石油化学科は北西門付近に移転したものの、わずか数十年の間に4人ものノーベル賞受賞者がこの建物で学んだことはおもしろい。

1969- 学生部への転身と保存への動き


物理学実験場時代から80年以上にわたり理科系の校舎として使用されてきた同棟だが、1969年に石油化学教室が移転した後は、学生部など大学の事務施設が入るようになった。

1974年には京大の施設整備計画などを審議する建築委員会の中に、歴史的建築物保存調査専門委員会が設置。委員会が翌年にかけて出した報告書では、正門ならびに旧石油化学教室本館を、京大の創立を記念する建物として保存を図る旨の答申がなされ、承認された。キャンパスの拡充が進められる中、建築の歴史的価値が認められた形だ。同世代の正門と異なり文化財指定などはされていないが、最後の増築から99年が経った今も現役の施設として使われている。

教育推進・学生支援部棟のあゆみ

教育推進・学生支援部棟のあゆみ



今回は、京大で一番長い歴史を持つ教育推進・学生支援部棟を、複雑な増築の歴史に焦点をあてて紹介した。明治から大正のキャンパス黎明期に、34年もの長期間にわたって増築が繰り返されたという数奇な経歴もさることながら、時計台の隣という一等地に130年以上建っているという時間の重みや、今なお教育活動を支える施設として使われ続けている点も魅力的だ。かつては校舎として優秀な学生や研究者を育て、ノーベル賞受賞者を4人も輩出し、今では留学や課外活動の窓口となり、自治寮の窓口交渉の場となることもある。いかにも京大らしい遍歴だと思うのは筆者だけだろうか。時計台のように大学のシンボルとして表舞台に出ることは少ないが、これからも末永い活躍を期待したい建物である。

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