文化

研究ノート 第6回 現代フランス宗教哲学 杉村靖彦・准教授

2008.10.09

杉村さんは、現代フランス哲学を専門的に研究しながら、それを発想源として現代における「宗教哲学」のあり方を探るという研究をしてきた。「現代」をどう定義するかはさまざまな立場がありうるが、哲学では、「ニーチェ以後」というのが一つのメルクマールとなる。

ニーチェの思想は神の死を提示し哲学を土台から問いに付す一大転換点であった。そこから発生した問いは、今日私たちが不可避的に直面するさまざまな困難と地続きである。その意味で、「コンテンポラリー(現代的、同時代的)」な問いなのだ。フランスの哲学者たちは、そうした問題を鋭敏にキャッチし、斬新な言葉を紡ぎ出してきた。もちろん、哲学とは根源から全てを思索しようという普遍性をもった営みであり、「フランス」哲学なるものを実体化することはできない。それでも、哲学が自己反省的な営みである限りは、哲学する者が拠って立つ歴史的・文化的伝統や、使用する言語との絡み合いを度外視できない。フランス哲学の独特の現代性も、そこに根を持っているのだ。

杉村さんは、哲学において肝要なのは、道なき所に「いかにして道をつけるか」ということだと言う。そのためには、自分の狭い思い込みを破って事象そのものに身を開くことと、個々の事象を自分の問題として考えて根底から新たに語り直すことの両方が求められる。宗教哲学というのは、単に哲学の一分野ではなく、そういった哲学の根本課題が試される現場である。生死や善悪、世界の意味など、古来宗教は哲学と多くの問いを共有してきた。だが、哲学が思考のための思考へと自閉してしまう危険を持つのに対して、宗教は儀礼や修行やシンボルなどを通して、そうした問いを体ごと受け止めるための手立てを用意してくれる。その意味で、宗教を前提するのではなく、宗教の問いに身を曝しつつ哲学を行うことは、哲学の根源的な姿でありうるのだ。

ただし、「道をつける」というのは必ずしも答えを確定することではない、と杉村さんは強調する。むしろ、問いにすらならなかった問いに形を与えるための思考の筋道をつけることが大切なのだ。もちろん、議論を通して自らが考えたことを修正したり、合意点を確認したりすることは不可欠だが、その結果を最終的に確認するのはあくまで一人一人の思考である。他人が自分の考えた通りに考えているかを確かめることはできない。自分の思索を伝えるという行為は、デリダの言葉を借りれば「散種」であり、伝えられた言葉がどこでどのように芽を出すかをコントロールすることはできない。それはもどかしいことではあるが、逆にそこに希望があるとも言える。

杉村さんは、ここ数年来、現代フランス思想と京都学派の哲学を連関づけて思索する試みを続けている。西田幾多郎や田辺元の哲学は、単に伝統的な東洋思想の近現代版なのではない。差し迫った西洋化・近代化の中で、西田らは驚くほどの集中力で西洋思想の全体を吸収し、その思考法を駆使して、西洋哲学の換骨奪胎でもありかつその根底的批判でもあるような独自な哲学を作り出した。このことの意味は、西洋と東洋という固定的な二項対立ではとらえられない。むしろ、ラディカルな哲学批判を内に含んで哲学を展開する現代フランスの思想家たちと突き合わせることで、その現代的な可能性を掘り起こすことができるのではないか。デリダの「脱構築」から西田を読み、レヴィナスの「他者」から田辺を読むことで、見えてくるものがあるのではないか、と言う。

根源的な問いを自らに引き取り、自らの「現在」をくぐらせて新たに考え直す。そこから引き出された問いを、後代へと向けてまた投げかける。つねに自らを更新し続ける哲学の営みは、時代を超えて続いていく。(如)

《本紙に写真掲載》