阿武山観測所を訪ねて 地震学を今に繋ぐ山頂の遺産
2026.01.16
観測所の外観。高さ30メートルの塔は、帝国大学の権威を誇示するために造られたという説がある
阿武山観測所は果たしてどのような場所で、どのような人々が活動しているのか……。取材を通して目にしたのは、90年以上の歴史を経て「博物館」へ変身した観測所と、それを支える「京大の学生でも教職員でもない」熱き一般市民の姿だった。(梅)
阿武山観測所とは?
1930年に京都帝大理学部の志田順教授が創設した地震観測研究施設。阿武山から南へのびる尾根の突端、標高218メートルの通称「美人山」山頂付近に位置する。観測所の裏手には、藤原鎌足が眠るとされる阿武山古墳もある。
歴史的に重要な役割を果たした地震計を多数保持しており、長年にわたって西日本の地震研究の中心を担ってきた。しかし、1990年に宇治にある京大防災研究所の地震関連部門と統合されると、95年には主な観測機器と人員が移されることとなり、観測所には技術職員1名が勤務するのみとなった。
無人化も検討されるなど存続の危機に直面したが、観測所の歴史や貴重な地震計を生かすため、2011年から「阿武山観測所地震サイエンス・ミュージアム構想」を掲げ、展示や防災教育を行う「科学博物館」としての活動を開始した。現在京大の常勤の教職員はいないが、「阿武山サポーター」と呼ばれるボランティアの協力を得て月に5回程度見学会を開き、地震学や防災の知識を市民に発信している。見学会は年間2000人が訪れるほどの盛況ぶりを見せている。
目次
山中に佇む モダンな観測所地震計の歴史を学ぶ
断層がもたらした「恩恵」
貴重な資料も多数保管
えんじ色の服を着たサポーター
阿武山サポーターにインタビュー
・観測所を多様に使いたい 渡邉三来生さん
・観測所に眠る「お宝」たち 浜口正良さん
山中に佇む モダンな観測所
10月中旬の朝、高槻駅に降り立った。本来、公共交通機関で阿武山観測所へ行くには、1駅先の摂津富田駅で市営バスに乗り換える必要がある。しかし、取材日は観測所で京大ウィークスのイベントが開催中で、高槻駅からシャトルバスが出ていたため、こちらを利用することにした。
バスの同乗者は年配の夫婦が中心だが、親子連れもちらほら。子供たちの興奮気味の声が響く中、バスは観測所へ向けて出発した。工場やロードサイドのチェーン店、住宅街など、郊外らしい景色を横に流しながら、坂道を駆け上ってゆく。30分ほどで観測所に到着した。
山中にあると聞いてこぢんまりした地味な施設を勝手に想像していたが、待ち受けていたのはクリーム色のモダンな建物だった。高くそびえる塔が洗練された雰囲気を醸し出しており、なんとも洒落ている。実は阿武山観測所は建築物としても注目を集める場所で、2007年には大阪府の「近代化遺産」にノミネートされており、映画やドラマのロケ地に使われることも多いのだ。
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地震計の歴史を学ぶ
入口では深畑所長と飯尾能久・京大名誉教授に出迎えてもらった。まずは飯尾名誉教授の案内のもと、地階の地震計展示スペースを見せてもらうことにした。
展示スペースには、新旧さまざまな地震計が展示されていた。飯尾名誉教授によれば、「歴史的な地震計を当時の姿のまま展示しているのは日本でここだけ」だという。
ひときわ目を引いたのが、2代目所長の佐々憲三が開発した「佐々式大震計」だ。世界に1台しかない地震計で、1934年から96年まで使用された。特徴はなんといってもその大きさである。人の背丈を超えるほどあり、一部屋をほぼ占有していた。これほどの大きさになったのは、振り子の周期を長くするため。周期が長いぶん、大きな揺れでも針が振り切れてしまうことなく、正確に計測できるのだという。
また、現在使用されている地震計も見ることができた。「満点地震計」は2008年に防災研が開発した地震計である。小型・軽量で持ち運びが簡単なためどこにでも設置できるのが特徴で、「1万点設置するのも夢ではない」という希望を込めてこの名が付けられた。08年以来、この地震計を狭い範囲に多数設置することで地震の観測精度を向上させる研究プロジェクト「満点計画」が進められており、阿武山観測所はこの計画の基地になっているという。
かつては観測所に根ざしたシステムだった大型の地震計が、小型・軽量化して観測所の外でも活躍できるようになった……。そんな歴史がよくわかる展示だった。
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断層がもたらした「恩恵」
地階の展示を満喫した後は、深畑所長の案内で屋上へ向かった。
屋上へ出ると、大阪平野を一望する絶景が広がっていた。抜けるような青空の下、遠くには大阪都心のビル群が見える。その手前には太陽の塔の姿も。壮大な眺めを前に、取材を忘れてうっとりしてしまった。
この景色が楽しめるのは、観測所が有馬―高槻断層帯のすぐ上の隆起した土地に位置しているから。断層は地震をもたらすという脅威をはらんでいるが、その一方で「恩恵」を生むこともあるのだと気付かされた。
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貴重な資料も多数保管
観測所には、創設当初からの観測資料がそのまま保管されている。「昔に遡ってデータを取ることは決してできないから、とても貴重なもの」と深畑所長。自身も1952年のカムチャツカ地震を研究する際、ここにあった資料を使用したそうだ。
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えんじ色の服を着たサポーター
歴史ある地震計や風光明媚な眺望など、観測所には目を惹かれるものがいくつもあった。だが、それ以上に印象に残ったのは、観測所内をてきぱきと動き回るえんじ色のシャツを着たスタッフの姿だった。聞けば、「阿武山サポーター会」に所属するボランティアなのだという。
阿武山サポーター会は、観測所のサイエンス・ミュージアム化を支えるために2012年に発足した。一般市民で構成され、現在は定年退職した人たちを中心に常時10名ほどが活動しているという。サポーターは見学会などでアウトリーチ活動をするほか、満点地震計の設置などの観測業務に携わることもあるそうだ。
今回のイベントにおいても、サポーターは来訪客をただ見守っていただけではない。たとえば地震計の展示スペースでは、来訪客1組につき1名、サポーターが付きっきりでガイドしていた。しかも、その説明は筆者が飯尾名誉教授から受けたものと遜色ないほど詳細だった。他に、模型を使って液状化の仕組みを説明する姿なども見られた。
サポーターに共通するのは満面の笑顔だ。その笑みからは、地震学や観測所の魅力をどうにか他の人たちに伝えたいという熱い思いが伝わってきた。
取材を終え、帰路に着こうとした筆者。ここで大きなミスを犯したことに気が付いた。最終のシャトルバスは既に発車した後だったのだ。サポーターのひとりから「大丈夫?」と声をかけてもらったが、「若いので歩いて帰ります!」と無駄な意地を張り、徒歩で観測所を後にした。
今思えば市営バスに乗って駅まで行けば良いだけの話。当時はそんなことは考えもせず、6㌔ほどの道のりをふらふらと歩いた。道中で石焼き芋の移動販売車を見つけ、思わず1本購入した。温かな甘みを口いっぱいに広げつつ、夕暮れに赤く染まる高槻の街並みを眺める。その赤さが、サポーターが来ていたシャツの色に重なった。充実した取材ではあったが、サポーターにじっくりお話を伺えなかったことが唯一の心残りだった。
To be continued……
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阿武山サポーターにインタビュー
阿武山観測所を支えるボランティア。阿武山サポーター会は年々活動の幅を広げ、2021年にはNPO法人「阿武山地震・防災サイエンスミュージアム」も設立された。ボランティアの方々はどのような思いを持ち、どのような活動をしているのだろうか。観測所を見学後、阿武山サポーター会に所属する2名にオンラインでお話を伺うことにした。
観測所を多様に使いたい 渡邉三来生さん
――サポーターを始めたきっかけは。
妻を病気で亡くし、その寂しさを紛らわせるために休日は外出して何かしたいと思っていたところ、サポーター募集の広報を見つけました。自宅から観測所がよく見え、もともと興味があったため、研修会に参加することにしました。
初めて観測所に訪れた際、屋上からの眺めを目にし、「ここで趣味のアマチュア無線をしたい」と強く思いました。先生に良い子ぶってボランティア活動をして、いつか無線をするのを認めてもらおうと企んでいましたね(笑)。今では無事その夢が叶いました。
――面白かった体験は。
鳥取県西部に満点地震計を設置する研究プロジェクトに参加したことです。地元のボランティアの方々とも協力しつつ、合計1千点近くの地震計を設置しました。研究の一端を担えたように感じましたね。
――大変だったことは。
私のような素人が地震について説明するにあたり、「間違ったことを言って京大の名前に泥を塗ってはいけない」と非常に気を付けました。喋ったことを裏付ける知識を身に付けるため、地震関係の本を読み漁りました。
――活動の原動力は。
観測所をもっと色々な使い方ができる場所にしたいという思いで活動しています。
1930年に観測所を建てる際、京大は高槻市に、今の価値で数億円にも相当するような大金を支払い、300年の借地契約を結びました。借地期間はあと約200年残っています。
京大にとって維持費のかかる観測所は「お荷物」かと推測しますが、私にしてみれば宝です。駐車場があって眺望もよく、研修会などを開くのにうってつけの場所です。屋上に太陽光パネルを置いて発電できるようにすれば、緊急時の一時避難所にもなるでしょう。しかし、観測所のポテンシャルが十分に生かされていないのが現状です。
私が観測所で趣味の無線をしているように、活動内容に問題がなければ、京大はサポーターのやりたいことを尊重してくれます。そういったおおらかさはとても素晴らしいと思います。京大とサポーターで協力して、観測所をうまく活用していきたいですね。
――今後の展望は。
地震について勉強する中で、避難せず校庭にいた先生と子供たち80名近くが東北沖地震の津波に襲われた「大川小学校の悲劇」を知りました。高台に逃げた近所の大人たちの中には、彼らが避難できていない状況を見ていた人もいるはずです。あの時、災害に対して深い知識を持ち、「絶対に裏山に逃げろ」と自信を持って口うるさく言う大人がいれば、悲劇は起きなかったかもしれません。
地震に関しては、自分は大丈夫だと正常性バイアスを働かせてしまう人たちが多いですが、それには何の確証もありません。アウトリーチ活動を通して、人々の「想定外」を打ち砕く「口うるさいおっさん」になりたいですね。
――ありがとうございました。

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観測所に眠る「お宝」たち 浜口正良さん
――サポーターを始めたきっかけは。
自治会の行事で見学会に参加し、初めて観測所の存在を知りました。建物や地震計の展示に衝撃を受けたのはもちろん、サポーターの方々がいきいきと説明している姿を目にし、羨ましく思いました。もともと地学に興味があり、人前で喋ってみたい気持ちもあったので、サポーターに応募することにしました。
――地震についての知識はありましたか。
学生時代は地学に惹かれ、岩石採集などが大好きだったのですが、地震についての知識は学校で習った程度でした。見学者に説明するための知識は、資料を貰って勉強したり、他のサポーターの説明を聞いたりして覚えていきました。
――どのような活動を。
観測所の営繕担当として活動しています。きっかけは、入会して1、2年ほどのとき、ある先生から「観測所の工作機械を動くようにしてほしい」と頼まれたことでした。問題の機械は20年以上も使われておらず、油にまみれていたので、最初は「本当に動くだろうか」と疑念がありました。それでも機械の名前などを調べていくうちに、とても貴重なものであることが分かり、「何とかして動かさなければいけない」という気持ちに切り替わりました。技能工の友人の協力も得つつ、3か月かけて3台の機械を必死に修理し、無事動かすことができました。
そこから私のもとに様々な修理の依頼が来るようになりました。現在は、展示パネルから地震計まで、幅広く直しています。数年前に観測所に勤務していた京大の技術職員がいなくなってからは、その役割をボランティアとして引き継いでいます。
――面白かった体験は。
先生方も知らないような「お宝」を発見すると感激しますね。たとえば、観測所には「昭和教室」という部屋があります。私が初めて見たとき、ここの床は真っ黒に汚れていたのですが、磨いてみたところ綺麗なヘリンボーン模様が浮かび上がってきました。この床にそんなお洒落な模様があるとは、誰も知りませんでした。床がピカピカになったときは先生方やサポーターの皆さんに大変喜んでもらい、苦労した甲斐があったなと思いましたね。こういった地震計以外の魅力を見学者の方々に紹介できたときには、更に嬉しい気持ちになります。
――アウトリーチ活動はどう考えているか。
情報があふれる現代だからこそ、それを嚙み砕いて人々に伝える架け橋が必要だと思います。見学者の方々の防災意識を高めるようなわかりやすい説明をしていきたいです。
――今後の展望は。
サポーターが高齢なので、世代交代が課題です。観測所に眠る多くのお宝を一緒に見つけてみませんか、あるいは自分なりの楽しみ方を見つけませんか、といったことを伝えて、次世代に繋げていきたいですね。
――ありがとうございました。







