【京大新聞100周年特別企画】100キロ走に挑戦! 100年の歴史に思いを馳せ、歩いて走って21時間
2025.04.01

2015年4月1日号で、創刊90周年企画として90キロメートルを走った編集員がいた。その全容が書かれた記事の最後に、「100周年を迎える頃には、100キロメートル走に挑戦する編集員が出てくるのだろうか」とある。これは走るしかない。10年たって大きな節目の号を迎えるにあたり、そう決意した筆者が未知の持久戦に挑んだ。フルマラソンすら未経験という無謀な立場での道のりは、本紙の歴史と重なる紆余曲折の軌跡を描くこととなった。(村)
目次
練習では31キロで断念前走者からの助言
はじめから諦める
余裕で「百」クリア
一周回って走りたい
調子に乗って失速
新聞発行そのもの
「一番きついのは、足が死んでくること」 90周年で90キロ走を達成した(千)に聞く
もう1つの闘い
練習では31キロで断念
前提として筆者の運動歴を述べると、高3の夏までの数年間は、サッカーや陸上競技で走り込んでいて体力に自信があった。ジョギングなら永遠にできる気さえしていた。その後、浪人時代も含めてほぼ運動しない2年間を過ごし、大学でサッカーサークルに入ったが、体力の衰えは著しかった。直近1年間は、就職活動や新聞の作業に追われて運動不足に陥った。その間、月1回ほど走ったが、「永遠に走れる」と思っていたペースよりもはるかに遅く、数キロでどっと疲れるほどになっていた。
100キロ走の本番を3月に設定したが、アルバイトなどを言い訳に1月初旬まで走り込むことなく過ごした。修士論文を書き終えた1月某日、14キロ走ってみた。なんとか走り切ったが、最後の3キロは歩くようなペースだった。疲労が癒えた1週間後、また同じ距離を走った。今度はペースを落とさずに走れた。少し手応えを覚えるとともに、中学時代に味わった走る醍醐味を思い出した。成果が数字で出る明快さに加え、走るというシンプルな動作だからこそ、達成感が身体的な実感としてやってくる。以前より一歩強く踏み出せた、以前より深く肺に空気が入った……そんな感覚が気持ちよく、ひたすら走っていたのが懐かしい(同時に、単調さが辛くて憂鬱だったことも思い出したが)。
数日後、21キロに伸ばすと、また最後の3キロで歩き同然になった。翌週走ると、やはり遅いなりにペースを保てた。それでもこの時点で2月中旬。一度走ると数日間ダメージが残り、連日走り込めない体になっており、本番から逆算すると次が最後の練習だ。
2月21日、35キロのつもりで走りはじめたが、31キロで膝に痛みを感じリタイアした。もはや100キロどころではない。大きな不安を抱えたまま、当日が迫る。
目次へ戻る
前走者からの助言
本番1週間前、90キロ走達成者の(千)に連絡を取った。1年だけ在籍期間が重なっている先輩だ。(千)は大学時代、週6日ほど7~8キロ走っていたという。それでも90キロ走は「かなりしんどかった」と振り返る。水分とエネルギーを補給するタイミングを具体的に想定するとよい、足の負担をなるべく少なく、などとアドバイスをくれたうえで、「無理しないで」と、過酷さを知るからこその言葉で背中を押してくれた。
目次へ戻る
はじめから諦める
ここまでの練習と(千)の助言をふまえて本番のペースを検討した。まず100キロ走り通すのは無理だ。体力的には可能でも、足が持ちそうにない。連続で走れるのはせいぜい20キロか。そこで、走りと歩きを計画的に組み合わせることにした。まず15キロ歩き、次に10キロゆっくり走って……といった具合に合計35キロ走って65キロ歩くプランを立てた。
ある意味、大きな妥協だ。はじめから走らず大部分を歩くのは、挑戦から逃げたと言われても仕方ない。ただ、走ろうとしたからこそ無理だと気づけたのも確かだ。むしろ、ときどき休み、ペースが遅い期間もありながら進むのは京大新聞の歴史と重なる。何時間かけて歩いてでも、とにかく踏破することで100年の歴史を体現しよう。そう誓った。
ルートは、漢字で「百周年」の字になるように組んだ。三十数キロかけて1文字を描いたら休憩する。これを3セット繰り返す。20時間以上かかる計算だが、新聞の発行作業などを経て不規則なスケジュールには慣れており、「これならいけそうだ」と思えた。
目次へ戻る
余裕で「百」クリア
31キロ走った日に負ったダメージが消えず、結局その後は一度も走らずに当日を迎えた。前夜までの数日間、シャワーを使った交代浴などを試し、ようやく膝の違和感がなくなった。(千)から直近の1週間は炭水化物を増やすよう助言され、それも実践した。
夜勤のバイトを終えて日中にぐっすり眠り、3月8日午前1時、出発の瞬間を迎えた。東京でのインタビューを終えてボックスに戻ってきていた(燕)と(雲)に見送られ、スタートした。
はじめは作戦通り歩く。足の負担を減らすためとはいえ、思ったよりも寒い。体を温めようと、自然と早歩きになった。人も車も少ない道を歩くのは気持ちいい。暗いところはスマホのライトで照らそうと思っていたが、意外に店頭の明かりがついていて走りやすい。高級外車店に至っては、大画面で壮大な自然の中を駆け抜ける車の映像を流し続けている。
特に苦痛を感じずに15キロ通過した。その後しばらく走った。体が冷えていて思うように体が動かなかったが、ペースを抑えようと思っていたのでちょうどよかった。7キロほど走ったところで、寒さのせいかトイレに行きたくなり、コンビニに寄った。100キロを京大新聞の100年になぞらえれば、戦時中を駆け抜けて『学園新聞』になったころだ。月2回の発行を週刊に増やした時期にあたり、それに合わせて走るペースを上げたいところだが、買ったオレンジジュースを飲みながら五条通をしばらく歩いた。
25キロを超え、また走りはじめた。25年目と言えば、1946年に発足した京大新聞社が京大の公認団体となったころだ(戦前は「学友会新聞部」)。一方、この企画が100キロ走として公認されるのは、ゴールに到達したときだろうか。まだまだ道のりは長い。
5キロほど走り、京都市役所前のベンチで休憩した。いつの間にか夜が明けている。朝の日差しを浴びながら、持参していた小さいようかんを食べ、少し歩いてまた走った。ペースはゆっくりだが、足は動いている。信号待ちで止まると、動き出すときに少し疲労を感じる。むしろ走ったままの方が楽という感覚さえ抱きながら、「百」を終えた。7時間で37キロ。いったんボックスに戻り、コンビニで買った朝食をとった。
目次へ戻る
一周回って走りたい
気づけば1時間強も休憩してしまった。このままでは某チャリティー番組より遅くなる。幸いまだ余裕があることも考慮し、走る割合を増やすことにした。
「周」の開始からしばらく走った。気温が上がり、再開時から着ていた上着を早々に脱いで腰に巻いた。百万遍から今出川通を東に進み、白川通で北に折れて北大路通りにぶつかるまで進む。40キロ前後のこの区間はずっと登りだった。京大新聞史で言えば1965年前後にあたり、学生運動の高まりに呼応するように勢いがあったころと重なる。ピークは1970年で、単独号としてのこれまでの最多面数となる40面発行を成し遂げている。この数字は今号で55年ぶりに更新することになるが、70年度は年間合計318面出しており、2024年度の122面の3倍近い。空前絶後の年にあやかり、坂道を歩かず駆け上がった。
再開から11キロほど走ったところで、バス停の混雑を避けられずに急停止した。気づけば走るのは自分だけ、周りは観光客ばかりだ。奇しくも1970年代中盤以降、学生運動に積極的に参加する者が減り、無関心の学生が増えたと聞く。新聞社も人員不足で発行面数が急激に減り、1975年には3か月休刊している。一連の流れを再現するかのようにしばらく歩き、また京都市役所前で休憩した。
約52キロ、11時間半が経過した。半分を超えて気持ちが楽になったからか、歩くより走ったほうが速いから走りたいと思うようになった。とはいえ、まだフルマラソン以上の距離が残っている。本当の勝負はここからだ。焦る気持ちを抑え、少し走って少し歩くを計画的に繰り返した。もともと合計で35キロしか走らない慎重なプランだったが、しだいに「せめて半分は走らないとダメだろう」と思うようになり、足を動かした。60キロ時点で歩きと走りがだいたい半々になった。さすがに疲労はあり、なかなかペースは上がらない。さらにはお腹が減ってきた。
白川通を下る途中で、おにぎり屋に寄った。京大の近くで生まれ育った筆者にとって、なじみのある店だ。立ち寄る店をある程度考えておいたほうがいいという(千)の助言があったが、土地勘のある範囲でルートを組んだことで、そのあたりはスムーズに対応できた。
65キロを超え、京大新聞の歴史で言えば90年代に入る。ここからの十数年は慢性的に人数が少なかったという。走行距離の合計が30キロを超え、こちらも正念場だ。
中学のころよく走った蹴上駅付近の登り坂を駆け上がり、「周」のはねの部分を描くように折り返して北上。「口」の形になるように京大吉田南構内近辺を1周した。よく見れば「周」には「吉」が含まれる……などと考えることもなく無心で走り続け、「周」を終えた。14時間強で71キロ。
目次へ戻る
調子に乗って失速
また1時間以上休んだ。コンビニに行ったりストレッチしたりと、なんだかんだで時間を食った。休みすぎて100キロ走ったと言えない気がしつつ、無理すべきではないとも思う。完走できる保証がないなか、いつ足が壊れるか分からないという不安を排除しきれないからだ。京大新聞の作業でも、記事が足りるか不安なときに面数を抑えたりすることはしばしばある。紙面を完成させることが大事なのと同じで、この企画も最後まで到達してはじめて成立する。
ここまでで走ったのは37キロ。少なくともあと13キロは走りたい。思ったよりも元気があり、特に痛みはない。ここにきてまともなペースで走れれば、陸上競技経験者としての意地を見せられるのではないか。そんなことを考えてペースを上げてみた。それまで1キロ7分〜8分台で走っていたのを、6分を切るほどに戻した。快調に進む。夜に通った高級外車店をまた通ると、当然ながら大型ビジョンに映像が流れている。このままゴールまで行けそうだ……と思っていたが、先行きを暗示するかのように日が暮れていき、徐々にペースが落ちた。11キロほど走ったところでとうとう歩いた。やはり甘くなかった。休憩時点まで持っていた安全思考はどこへやら、新聞で無理なスケジュールを強行して誤記載を連発してしまったときと同じ過ちを繰り返した。
84キロから2キロ走ってどうにか走行合計50キロに到達したものの、調子に乗ったのが響き、ふくらはぎに強い張りがある。まだ10キロ以上残っている。水分を取れば少しは楽になるだろうと思ったが、現在地は京都御苑の側面。なかなか自販機がない。反対側に渡ればあるが、むやみにコースを外れると字が崩れる。仕方なくまっすぐ歩き、とてつもなく長く感じた先にようやく温かいお茶にありついた。この数キロで猛烈に疲労がやってきた。約90キロ進んできたとは思えないほど、数十メートルすら長く感じた。
目次へ戻る
新聞発行そのもの
気力を振り絞って進み、あと4キロのところまで来た。最後は鴨川の河川敷だ。小中高大と、ここには書ききれないほど思い出のある一本道を北上していく。そのころ、(千)からメッセージが届いた。
「ZARDの歌詞にあるように、最後まで走り抜けられるように遠くから応援しています」
(省)と(鷲)からも連絡が来た。「鴨川で写真撮るんで、いいタイミングで教えてください!」
応援してくれている人がいることを、常に感じるわけではないものの、折にふれて感じる。新聞発行も同じだ。感慨を覚えながら、用意してくれたテープを切ってゴールした。100で終わるのは縁起が悪い気がして、末長く続くよう数百メートル余分に進んでおいた。出発から21時間10分。57キロ走って43キロ歩く長旅だった。
足の張りはあるが、歩くのに支障はない。もっとペースを上げてもよかったな……などと思いつつ、後悔が生じるのも、最低限のことを達成できて安堵するのも、新聞発行に似ている。そう捉えて自分を納得させた。
周囲のサポートには感謝しかないし、挑戦してよかったと心から思う。ただ、次の節目にぜひ誰かに走ってほしいとまでは思わない。書きたい人が書くのと同じで、走りたい人がいれば走ればいいし、他のことに挑戦するのもありだ。本業の発行も含め、京大新聞の未来に期待する。〈了〉
目次へ戻る
「一番きついのは、足が死んでくること」 90周年で90キロ走を達成した(千)に聞く
100キロ走に先駆け、助言をもらおうと(千)に連絡した。(千)は90キロ走の4年後、長野県で行われた野辺山高原100キロウルトラマラソンに挑戦し、約11時間50分で走り切ったという。
-100キロマラソンの感想は。
1回ぐらいやってみたいなと思って挑戦した。山を何度も越えるコースで、しんどかった。
-90キロ走のときも山越え(※)があった。上りはもちろん下りの足の負担がすごそう。
※京大付近から実家の兵庫県川西市を目指す途中、50キロ過ぎで奈良と大阪の境にある山を乗り越えた。
そうそう。たしかに下りは足にくる。山は負担が大きいから、コースは工夫したほうがいい。
ー大学のころはどのくらいの頻度で走っていた。
週6で7~8キロから十数キロ走っていた。
ー京大新聞の夏合宿で、みんなが寝ている早朝に走っていた。
自分の中で、やらないと気が済まない習慣になっていた。
ーそれだけ走り込んでいても90キロはとてつもない。
かなりしんどかった。
ー当日の気候は。途中で着替えたり。
3月で、暑くも寒くもなく、着替えた記憶はない。タオルはたくさん使った。山を走る人向けのザックに最低限の荷物を入れた。500㍉のペットボトルを2本入れて、なくなったら買って飲んだ。
-途中でおにぎりを食べたとあるが、他に食事休憩は。
奈良に着いたころにモスバーガーを食べた。疲れていたからかとてもおいしくて、あの時の心身ともに満たされた感じは今でも思い出せる。食べ過ぎると走れなくなるから、持参したものも含めてこまめに食べた。
-ルート確認は。
当時、スマホを持っていなかった。事前にマップで調べて、曲がる交差点とかをすべてガラケーにメモしておいた。
-紙面には(北)が撮影した写真が載っている。
大阪に来てくれた。すごく励まされた。
-ゴール後は家でぐったり。
実は翌日に京大近くにあるレストランのアルバイトを入れてしまっていて、夕方のシフトに合わせてあわただしく電車で帰って行った。その日は本当にしんどかった。フルマラソンでも走ったあとは何日かしんどいし、100キロ走るなら1週間ほど予定を空けておくのが理想的だと思う。
-無謀な挑戦だと実感した。何かアドバイスを。
水分とエネルギー補給が一番大事。補給所がある一般のマラソン大会と違って、すべて自分で考えないといけない。このコンビニでこれを買うとか、具体的にイメージするといいと思う。一番きついのは足が死んでくること。経験上、50キロを過ぎると歩き中心になる。できるだけ足の負担を少なくしながら進むことを意識したい。コールドスプレーを持っておくと使えると思う。気休めかもしれないけど。それにしても、まさか走る人がいるとは。
-それを期待している締めくくり方だった(笑)。
誰かやってくれたら……と思っていたけど、京大新聞には運動部の人があまり入らない印象があったから驚いたし、うれしかった。ただ、無理しないで。「やってみたけどできなかった」となっても、きっと挑戦したことに価値がある。
-がんばります。
目次へ戻る
もう1つの闘い
「あと700㍍」。鴨川沿いで(村)を捜索する我々は、(村)からの連絡に、ゴールの瞬間を見届けられないのでは、と焦りを募らせた……。
初め100キロ走の構想を聞いたとき、完走は厳しいと思った。たとえ、「2人いる」「実はロボット」「ガソリンが主食」と巷で噂される体力妖怪の(村)だとしてもだ。しかし、挑戦を無下にはできない。当日のLINE会議の結果、「驚安の殿堂」でクラッカーを仕入れ、ゴールテープを工作し、(村)のフィナーレを迎え撃つ事に決定した。
重大な問題がある。帰省・旅行・バイトが原因で、ボックスには(雲)(鷲)(省)の3人しか集まらなかったのだ。(村)はなかば恐怖を覚えるほどの速度で、刻一刻とゴールに迫っていた。人数を諦めた我々は、カメラマン1人とゴールテープ持ち2人で、川沿いに急いだ。
ゴール後、合唱団員でもある(郷)から、遅ればせながら「サライ」の歌唱を吹き込んだ録音が届いた。部室に(郷)の滋味あふれる応援歌が響く。京大新聞は100年で終わらない。そして(村)の人生も、100キロ走・100周年号の発行では終わらず、これからも続いていく。2つの門出を、行き当たりばったりで優しい歌声が見送った。(雲)