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〈特集〉高畑勲とその時代 ~『かぐや姫』を迎え撃つために~

2013.11.16

スタジオジブリの最新作『かぐや姫の物語』が今月23日、公開される。事前情報の極めて少ない本作ではあるが、今年夏公開の宮崎駿監督作品『風立ちぬ』上映前に流された予告篇は衝撃的であった。屋敷の廊下を、路上を、山中を、死にもの狂いで疾走する女性を捕らえた約70「秒の鬼気迫る映像は、まだ見ぬこの映画に対する観客の関心を激しく掻き立てた。これほど心を打たれる予告も珍しい。

『かぐや姫』監督の高畑勲は宮崎駿と並ぶスタジオジブリの二大巨頭と言われているが、彼について語られた文献、資料は宮崎に関するそれと比べ、極めて少ない。『アルプスの少女ハイジ』や『火垂るの墓』など、誰もが知っているような国民的アニメを数多く作った人間にも関わらず、である。高畑氏は今年で83歳。前作『ホーホケキョとなりの山田くん』(1999年公開)から14年の歳月がかかっていることを考えると、今回『かぐや姫の物語』が高畑監督最後の作品となる可能性も大きく、高畑勲について見つめ直す機会は今を措いて他にない。

そこで、本紙では来たるべき『かぐや姫の物語』へ向けた予習・復習的な意味合いも兼ね、今号より3回にわたってアニメーション監督、高畑勲の歩みを取り上げ、併せて彼の全監督作品のレビューを行う。

連載第一回目の今回は、高畑の誕生から『アルプスの少女ハイジ』の成功までを扱う。(編集部)

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高畑勲の歩み①  1935~1975年

生い立ちから東映動画入社まで

高畑勲は1935年(昭和10年)、高畑家の三男として三重県宇治山田市に生まれる。父の浅次郎は当時中学校の校長であり、戦後は岡山県の教育長となり、後に同県初の名誉県民にまでなった人物であった。

知的階級の比較的「恵まれた」家庭に生まれた勲だが、昭和10年生まれである彼の幼少期はまるごと日中戦争の、そして太平洋戦争の時代でもあった。1945年6月、勲は父の仕事の都合で移り住んだ岡山で大規模な空襲を受け、家を焼け出されたうえに両親ともはぐれ、姉と二人で街の中をさまよったという。高畑の生涯を貫く強固な反戦、平和思想は、あるいはこの体験に根ざしているのかもしれない。

戦後、勲は先に東大に入った二人の兄に続いて自らも東京大学教養学部文科二類(東大文二)に入学し、3年次以降は文学部仏文科へと進む。同学年には後のノーベル文学賞作家、大江健三郎がいた。在学中は映画研究会に所属していた高畑だが、1955年に日本で公開されたロシアのアニメーション映画『やぶにらみの暴君』に強い感銘を受け、卒業後の1959年に演出助手として東映動画(現在の東映アニメーション株式会社)に入社。当初は新米の助手として「鉛筆の供給や動画用紙の穴あけ、カット袋作り、作業表集めとその集計くらいが仕事のすべて」という比較的緩やかな環境での仕事であったという。

1961年に東映動画労働組合が結成されると高畑は副委員長として現場の労働環境改善に取り組み、1963年に東映動画に入社した宮崎駿とも組合活動を通して親交を深める。同僚のアニメーター、小田部羊一(後に高畑と共に東映からAプロへ移籍、『アルプスの少女ハイジ』のキャラクターデザインなどを務める)が東映上層部から一方的な解雇通告を受けた「小田部問題」の際も、処分撤回のため宮崎と共に奔走するなど、社内の問題に追われる日々が続いたが、この頃には既に「本業」の演出においても『狼少年ケン』などで頭角を現わし始めていた。

『狼少年ケン』や組合活動での討論などを通じ、高畑に多大な信頼を置いていたアニメーター、大塚康生は、1965年に東映の関政次郎企画部長より次作長編映画の作画監督就任を打診された際、高畑を監督に据えることを作監就任の条件に挙げる。大塚は粘り強い交渉の末、ついに関部長を説得し、ここに高畑勲の初監督作品、『太陽の王子ホルスの大冒険』の制作が始まったのだった。

「ホルス」と東映退社

高畑は大塚、宮崎らとストーリー、キャラクター、セリフなどについて入念な検討を重ね、第5稿をもって決定稿となったシナリオを元に『ホルス』は絵コンテ、そして作画の作業に入っていく。

1963年の『鉄腕アトム』放映開始以降、それまで長編映画が主流だった日本のアニメが急速にテレビアニメ中心にシフトしていく中、高畑ら制作陣は自分たちに取ってこの『ホルス』が本格的な長編アニメを作る最後のチャンスになると考え、一種の悲壮感にさえ満ちた覚悟をもって作品作りに邁進していく。

スタッフ全員が心を一つにし、全身全霊で臨む制作体制によって、『ホルス』は極めて質の高い作品へと仕上がっていくが、一方でその妥協しない態度はスケジュールの大幅な遅延を招いた。当初8か月の予定だった制作期間が3年に延び、7000万円の予定だった予算は1億3000万にまで膨らむという事態に関部長は大塚を呼び出し、「会社はきみたちにプレハブを作ってくれといっているのに、きみたちがやろうとしているのは頑丈な鉄筋コンクリートだ」と涙ながらに訴えたという。

様々な苦難の末、1968年夏に公開された『ホルス』だったが、高畑らのかけた労力も報われず興行は記録的な失敗に終わり、当時の東映長編アニメーション史上の最低を更新してしまう。このことも一因となり、高畑は1971年、東映動画を退社してAプロダクション(現在のシンエイ動画株式会社)へと移籍する。この時宮崎駿、小田部羊一の両名も高畑について東映を退社、Aプロへ移っており、高畑、宮崎、小田部の3人組はAプロで次なる企画、『長くつ下のピッピ』に取りかかることとなる。



Aプロ・ズイヨー映像時代 『アルプスの少女ハイジ』の挑戦

『長くつ下のピッピ』はスウェーデンの児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンによる児童小説である。「世界一力の強い女の子」ピッピがある日、町外れの「ごたごた荘」にやってきて、その町に住む兄妹、トミとアンニカと共に楽しい冒険の日々をおくる、というのがおおよそのあらすじ。

本作をアニメ化するにあたり、高畑はピッピがどのような女の子であるか詳細に書き上げたメモを作成して人物像を掘り下げ、宮崎もイメージボードを起こすなど精力的に動いたが、最終的に原作者のリンドグレーンからアニメ化の許可が降りなかったことで企画自体が頓挫してしまう。

高畑らが思わぬ挫折を味わった直後の1972年、日中友好の一環として中国から日本の上野動物園へとパンダが贈られ、そのことをきっかけに『パンダコパンダ』の企画が立ち上がる。高畑は宮崎、小田部と共にこの『パンダコパンダ』の制作を成功させ(翌73年には続編『パンダコパンダ 雨降りサーカス』を制作)、東映退社後の新しいキャリアの第一歩を踏み出すこととなる。(ちなみに宮崎が書き起こした『長くつ下のピッピ』のイメージボードを見ると、主人公ピッピのキャラクターデザインが『パンダコパンダ』の主人公、ミミ子のそれに近いことがわかる。)

『パンダコパンダ 雨降りサーカス』の公開年と同じ1973年、高畑はズイヨー映像(実質的に現在の日本アニメーション株式会社)社長の高橋茂人に、ヨハンナ・シュビリ原作の小説『ハイジ』のアニメ化を依頼されていた。

高橋は少年時代に『ハイジ』を読んで強い感銘を受け、いつかこの作品をアニメ化し、子供のためになる優れたアニメにしたいと考えていたという。

原作に目を通した高畑は、アニメーションにふさわしい飛躍や誇張がなく、反対にアニメーションが最も苦手とする日常芝居ばかりが必要であることなどを理由に、『ハイジ』のアニメ化は困難だという見解を示していたが、高橋社長の熱意に触れて『ハイジ』の監督を引き受けることになる。

これより少し前、テレビアニメ界では『アタックNo・1』、『巨人の星』などの「スポ根もの」が広く子供たちの支持を得ていたが、高畑は自著の中で当時の「スポ根もの」ブームについて不快感を露わにしており、特に『巨人の星』については「自虐的なまでの努力が自己目的化してしまったような、非日常的で異様な世界」、星飛雄馬についても「太い眉をつりあげて笑いもゆとりもなく、肩に重すぎる荷を背負って歩む」少年と言うなど明らかに嫌っていた。高畑は『巨人の星』的な根性主義、勝利至上主義と、当時の日本社会の経済成長第一主義との関連を指摘すると共に、1970年代以降、経済成長第一主義が生み出したひずみが問題となった日本では、人々は逆に「自然や過去や故郷を憧れ、ゆめみる」ようになったと指摘している。

高畑は『アルプスの少女ハイジ』の制作にあたり、スタッフへ向けて「事件主義、ストーリー主義からの脱却」や「子供の日常や等身大の実生活」、「平凡な子供らしい欲望(食欲など)の復権」などに基盤を据えた、リアリズム志向の作品作りを宣言している。「非日常で異様な世界」から「自然や過去や故郷」へと人々の関心がちょうど向き始めた1970年代半ば。『アルプスの少女ハイジ』はまるでその時代の動きを出迎えるように企画された作品であった。

高畑は『ハイジ』制作にあたり、東映からの盟友、宮崎駿(画面構成(レイアウト))と小田部羊一(キャラクターデザイン)の二人を伴ってスイスへロケハンに行き、現地の風景や生活などを詳細に調べ上げてから実制作を開始した。

週1話、全52回という過酷な放映スケジュールの中、宮崎駿はほぼ全カットのレイアウト作業を一人で行うという離れ業を見せ、その他のスタッフも皆常軌を逸した労働量で現場を支えたという。

時代を見据えた高畑のリアリズム志向、ロケハンなどの入念な事前準備、宮崎をはじめとするスタッフの粉骨砕身の努力。これらが合わさった『アルプスの少女ハイジ』は平均視聴率約20%の大ヒット作となった。

アニメでリアリズムを描いた作品が成立し得ることを証明してみせた『アルプスの少女ハイジ』がアニメ界に与えた影響は大きく、本作の成功をきっかけに『フランダースの犬』、『あらいぐまラスカル』などの「世界名作劇場」シリーズが作られることになった。

『ハイジ』を成功させた高畑は、自らのリアリズム志向について自信を深める一方、主人公ハイジの造形にまだリアリズムが足りていない(あまりにも理想的な「良い子」すぎる)ことを反省点としてあげ、次の監督作品『母をたずねて三千里』以降、人物面でのさらなるリアリズムを追及していくこととなる。(47)



参考文献 高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店)
解説:高畑勲『「ホルス」の映像表現』(アニメージュ文庫)
小谷野敦『高畑勲の世界』(青土社)
叶精二『日本のアニメーションを作った人々』(若草書房)
『キネ旬ムック BSアニメ夜話07 アルプスの少女ハイジ』(キネマ旬社)
大塚康生『作画汗まみれ』(徳間書店)

作品紹介①

太陽の王子ホルスの大冒険

岩男モーグの体から太陽の剣を抜き取った少年、ホルスは、モーグからその剣を譲り受けることになる。太陽の剣を鍛え上げ、使いこなせるようになった時、ホルスは「太陽の王子」と呼ばれることになるというのだ。

太陽の剣を携えたホルスは、旅先で出会った村人らと生活の喜びを共にし、孤独な少女ヒルダと出会い、やがて人間を滅ぼそうと企む悪魔グルンワルドと対決していく……

高畑勲の初監督作品が本作『太陽の王子ホルスの大冒険』である。制作期間3年、総作画枚数150000枚の超大作であるが、興行は記録的な不入りに終わり、当時の東映長編アニメーション史上の最低を更新してしまうなど、商業的には大失敗であった。

しかし、本作の価値はその程度のことではいささかも損なわれない。本作の画面構成を担当した宮崎駿自ら「アニメーションを語る時、『太陽の王子』の後と先では考えを変えるべきだと信じています」と語り、同じく作画監督の大塚康夫もヒロイン、ヒルダの登場シーンについて「今見ても日本のアニメがたどり着いた最高のシーン」と自著で言い切るなど、作り手たちの信念と誇りに満ちたこの82分の映画に興奮を覚えないことは極めて難しい。

中盤の怪魚退治のシーンとそれに続く村の収穫シーンにおける圧倒的な「動き」や、あでやかな夕陽に照らされた村の結婚式シーンの美しさなど、画面の素晴らしさを語りだせばきりがないが、本作の真骨頂はなんといってもキャラクターの内面に迫っていく人物描写の繊細さであり、特に「悪魔の妹」ヒルダの葛藤にこそあるといってもよい。

ホルスや村人たちが心を一つにして悪魔を倒す……いたって単純な勧善懲悪の構造に支えられている本作は、しかし、「人間」性と「悪魔」性の両方をあわせ持つヒロイン、ヒルダの存在によって、極めて奥深いテーマ性を獲得している。

かつて人間でありながら「悪魔の妹」に成り果てた絶望の中、ホルスたち人間への殺意と友愛との間で苦しみぬく少女、ヒルダ。時に村の少女を優しく抱きしめ、時にホルスを欺き、卑劣な罠に陥れる彼女の二面性は、人間誰しもが自らの中にあわせ持つ「強さ」と「弱さ」、あるいは「道義」と「エゴイズム」の暗喩である。悪魔の誘惑に立ち向かい、己の弱さを克服しようと懸命に闘う彼女の姿に向き合えば、すぐに気付くだろう。そう、我々は皆「ヒルダ」なのだ。
ラストでヒルダは「命の珠」を放棄し、悪魔からもらった永遠の命を捨てて村の子供を救う。永遠の生命を捨ててまで限りある生と人間愛の美しさに賭ける彼女の決断は、同じ東映動画作品にして日本最初の本格的アニメーション映画『白蛇伝』のヒロイン、白娘にも通じるものであり、後の宮崎駿作品にも受け継がれていく東映動画的ヒューマニズムの原点ともいえるだろう。

高畑勲の原点にして最高傑作の一つである本作。『かぐや姫の物語』を観る前に是非一度チェックしておくことをおすすめする。(47)

パンダコパンダ&パンダコパンダ 雨ふりサーカス

おばあちゃんと2人で暮らす少女、ミミ子。ある日、おばあちゃんが法事で暫く家を留守にすることになった。一時的とはいえ一軒家に一人暮らしとなるはずのミミ子だったが、家に帰ってみると2頭のパンダに遭遇。一緒に暮らすことになる。

映画『パンダコパンダ』およびその続編『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』を見た人のほとんどは「可愛い」という感想を抱くのではなかろうか。子パンダのパンはもちろんのこと、その他のキャラクターも含め、可愛い。私が初めて「パンダコパンダ」に出会ったのは小学生の時だった。それからというもの、幾度と無く視聴し、その度に癒やされたものである。今回この企画のため、久しぶりにこの映画をみると、今までとは随分と異なった視点からみることが出来た。

この作品の面白さの一つに家族構成があると思う。そもそもミミ子の家はおばあちゃんとミミ子の2人暮らしだ。ところが、おばあちゃんは法事のために家を留守にしている。そこにパンダ親子が現れたことで、ミミ子と子パンダのパン、パンの父親であるパパンダの3人(?)で暮らしている。パパンダはパンの父親だが、ミミ子に父親が居ないことを知ると自分が父親になることを提案する。それを受け入れたミミ子は自身もパンの母親になると宣言する。つまり、ミミ子はパンの母親で、パパンダはミミ子の父親であると同時にパンの父親ということになる。これによってミミ子が時にはパパンダの子供、時にはパンの親として演じる。この家族構成の複雑さが作品を面白くしたと思う。

私はミミ子が母親を立派に演じていることに驚かされた。朝ごはんはミミ子が作るし、3人分のお弁当も作る。学校に付いてこようとするパンに対して強く叱りつけたり、嵐に怯えるパンを寝かしつけたり、親としての役割を充分に果たしている。あまりにもしっかりし過ぎていて私は不安を覚えそうになった。しかし、どちらの作品でもミミ子がパンから目を離したことで事件が起きている。そういったところに小学生らしさがあって私は安心させられた。

『パンダコパンダ』の公開は1972年の12月である。これは日中友好の一環として上野動物園にパンダが贈られた年であり、パンダブームの真っ只中であった。DVDの映像特典に入っている高畑勲氏のインタビューによると、この作品の企画は以前からあったが、ボツになっていた。それがパンダの来日を受けて再び持ち上がったのだという。

ところで「パンダコパンダ」で検索してみると、40周年記念公式サイトがあり各地でイベントも行われている。グッズも制作されており、今でも根強い人気があることが伺える。パンダコパンダは2作品あわせて1時間程度の作品である。ぜひみなさんもこれを見て癒やされてほしい。(通)

アルプスの少女ハイジ

幼い頃に両親を亡くし、叔母のデーテに育てられた少女、ハイジは叔母の仕事の都合で、それまで会ったこともなかった祖父(おじいさん)とアルムの山小屋で暮らすこととなる。持ち前の明るさで慣れない山の生活にもすぐ馴染んだハイジは、アルプスの大自然に囲まれて健やかに育っていく。おじいさんや山羊使いのペーター、ペーターのおばあさんといった周囲の人々もまた、ハイジの明るさと純朴さに触れることでそれぞれに心を開き、ハイジと共に過ごす日々をかけがえのないものだと感じるようになるのだった……。

数多くの「高畑アニメ」の中でも最も高い知名度をほこる作品の一つが本作『アルプスの少女ハイジ』である。特にシリーズ中盤より登場する病弱な令嬢、クララが自分の足で立てるようになるシーンは非常に有名であり、現在でも「懐かしアニメ特集」的な番組では必ずといっていいほど取り上げられている。

だが、『ハイジ』の真の魅力はドラマティックな「名場面」よりも、むしろハイジたち登場人物のいきいきとした等身大の実生活にこそ隠されているといっていい。

「ロボット・SFもの」、「スポ根もの」、「魔法少女もの」……当時(1970年代前半)のアニメ界で高い人気を博していたこれらのジャンルのアニメと異なり、『ハイジ』で30分(=1話)のエピソード内で、特に大きな事件など起こらないことがほとんどである。倒すべき「敵」も「ライバル」も登場しないし、「バトル」も「勝負」も「変身」もない。摩訶不思議な超常現象の類も起こらない。アニメにつきものの派手な表現や飛躍もない。
これでは退屈すぎて文字通り「話にならない」ような気もするが、いざ『ハイジ』を観てみると、平穏なアルムの山の風景とハイジたちの織り成す変わらない日常の様子に釘づけにされてしまうから不思議だ。

ハイジが牧場を走り、藁のベッドに寝転ぶ。ペーターがおいしそうに黒パンを頬張る。おじいさんがヤギの世話をする。ペーターのおばあさんが優しく笑う。そこに押し付けがましい「愛」や「感動」はない。描かれるのは、美しい自然の中で大切な家族や隣人と毎日を過ごし、人生の時間を紡いでいく幸せ、言うなれば「生」そのものの喜びであり、一切の照れや皮肉なしに人間の存在を堂々と肯定してみせる作り手の姿勢に、我々視聴者もまた心を動かされるのである。

キャラクターの地味な人間芝居がひたすら続く『ハイジ』は当時としてはやや斬新すぎる作品であり、企画段階では電通のプロデューサーから「こんな企画が成功したら銀座の街を逆立ちして歩いて見せる」とまで言われるなど前評判は必ずしも良くなかった。『ハイジ』は(『ムーミン』や『山ねずみロッキーチャック』があったとはいえ)事件主義、ドラマ主義を排した静かなアニメが広く子供たちの心を掴み得ることを証明した最初の作品といえるかもしれない。『フランダースの犬』、『あらいぐまラスカル』と続く「世界名作劇場」路線を確立するなど、後世への影響力も計り知れない。(47)