企画

〈特集〉高畑勲とその時代 ~「80年代の高畑」を振り返る~

2013.12.16

アニメーション監督、高畑勲の生涯を追う本特集「高畑勲とその時代」は、前回までの2回で主に1930年代~1970年代を扱い、高畑が盟友宮崎駿と決別するまでの彼の仕事を概観した。そこで第3回となる今号では、『じゃりン子チエ』から『火垂るの墓』に至る80年代の高畑作品や、この時期の高畑勲をめぐる状況などについて考察する。
(編集部)

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高畑勲の歩み③ 1981~1988年

分かたれた道、それぞれの栄光

『アニメージュ』1981年8月号誌上で高畑は宮崎駿について以下のような文章を残している
「宮さんとのつき合いはもう十五年以上になります。ほんとうに長いあいだ苦楽をともにして来たんだな、という実感がひしひしとわいてきます。ぼくは自分の仕事の多くを宮さんの力に支えながらやってきました。いや、こういういい方はまちがいです。『支える』などという関係ではなく少なくともある時期までは、あるアニメーションの可能性を追求し実現していくうえで、ぼくたちは完全な共同事業者でした」

この文面から読み取れることは大きく二つである。ひとつは、高畑が宮崎に多大な尊敬と感謝の念を持っていること。そしてもうひとつは高畑・宮崎が「苦楽をともにして来た」相棒同士であった時代が、この時点で完全に終わりを迎えていたということである。

高畑・宮崎が『赤毛のアン』を最後に決別した直後、宮崎は『ルパン三世カリオストロの城』で初となる劇場版作品の監督を務める。本作は商業的には振るわなかったものの、毎日映画コンクールで大藤信郎賞を授賞するなど業界内で極めて高い評価を得たが、宮崎自身はスケジュールの厳しさから様々な妥協を余儀なくされた本作の出来に不満を漏らしており、次回作以降でのさらなる飛躍をもくろんでいた。宮崎は1982年2月号の『アニメージュ』で漫画『風の谷のナウシカ』の連載をスタートさせる。

ちょうど『ナウシカ』の連載が始まった頃、高畑は『じゃりン子チエ』のチーフディレクター(監督)として全64話にわたるテレビシリーズを走り続けていた。大阪に暮らす人々の日常を描いた本作は、特に「地元」の関西地区で最高視聴率29・1%を記録するなど凄まじい人気をほこり、1983年3月に放映が終了した後も大阪では幾度となく再放送が繰り返されることとなる。本作で初めて日本人の生活と共同体の描写に成功した高畑は、これ以降「日本回帰」の姿勢を強めていく。

また、この時期の高畑は『チエ』で大衆的な支持を集める一方、同時期に宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』を5年がかりで劇場アニメ化し、大藤信郎賞を勝ち取るなど、娯楽性、芸術性の両面においてその才能を最大限に発揮していた。ますます活躍の場を広げる高畑だが、『チエ』終了後、彼の元に宮崎駿から思わぬ依頼が舞い込んでくる。自作『風の谷のナウシカ』の劇場アニメ化にあたり、高畑にプロデューサーに就任してほしいというのだ。



プロデューサー業とスタジオジブリ設立

キャリアをスタートさせた東映動画で演出助手から演出に昇格し、その後も一貫して演出家としてアニメに携わってきた高畑には、プロデューサーとしての経験など皆無だった。高畑は自分に「そんな仕事がつとまるはずがない」と考え、いったんはこのオファーを断りかけるが、宮崎の熱心な申し出を前に翻意し、結局プロデューサー就任を承諾する。高畑は当時、『アニメージュ』誌上でインタビューに答え、『ナウシカ』のプロデューサーを引き受けた理由について「昔のようにもう一度、ともに苦労をわかちあい、ともに成功を喜びあってみたいという気持ちがわいてきたから」と語っている。

高畑のプロデューサーとしての仕事は、製作会社から出資された作品の制作費を受け取り、それを『ナウシカ』の制作現場であるトップクラフトで執行するというものであり、こうした経験のない高畑は引き受けた後もしばらくは「不安で仕方がない」状態だったという。しかしいざ作品の制作が開始されると、監督の宮崎や他のスタッフ達は極めて生産性の高い仕事ぶりをみせ、また出資者である徳間書店と博報堂が「金は出すが口は出さない」という態度でクリエイターの自主性を尊重したこともあって現場でのトラブルは少なかった。高畑も『ナウシカ』制作終了後に受けた取材で、自らのプロデューサー業について「楽だった」と答えている。

こうして1984年3月に公開された『風の谷のナウシカ』は配給収入7・4億円というまずまずのヒットとなり、本作の成功をきっかけに1985年、スタジオジブリが設立されることとなる。この際、高畑は役員就任を打診されたものの固辞し、経営責任を負わない一介の「作り手」の立場でスタジオジブリに所属することを決める。ジブリ発足後、高畑は設立第一作である『天空の城ラピュタ』のプロデューサーを務めるが、この頃には既に並行して次回監督作『柳川堀割物語』の準備を始めていた。

日本への回帰

『柳川堀割物語』は福岡県柳川市を流れる水路網「堀割」の再生に取り組む市民を追ったドキュメンタリー映画であり、高畑の仕事で唯一の長編実写作品である。日本の伝統的な情景を題材に据えた本作以後、高畑は最新作の『かぐや姫の物語』に至るまで一貫して日本を舞台にした作品のみを撮り続けていくこととなる。

本作では『ナウシカ』の時と立場が入れ替わる形で宮崎がプロデューサーに就任し、製作も宮崎の個人事務所である二馬力が請け負ったのだが結果的にこれが宮崎にとっての災難となってしまう。『ナウシカ』でプロデューサーを務めた際に手堅い予算管理を見せた高畑は、一方で監督として復帰した本作で予定のスケジュールと予算を大幅に超過し、ついには宮崎が自宅を抵当に入れる羽目に陥ったのである。初監督作品『太陽の王子ホルスの大冒険』の時を彷彿とさせるような予算的、スケジュール的失敗を犯した高畑だが、プロデューサーだった宮崎は後にこの時のことを振り返り「どうということもありませんでした」と述べている。金銭に執着せず、己の信じる物を第一に作ろうと考える二人の強い信頼関係がうかがえるエピソードである。当初1年で制作予定だった『柳川』は、結局予定を約2年オーバーした1987年8月に公開される。並行して制作されていた次作『火垂るの墓』の公開予定まで、この時点で残り8ヵ月であった。

この『火垂るの墓』は、宮崎の新作『となりのトトロ』との同時公開が予定されており、逼迫するスケジュールの中、高畑と宮崎の間では優秀なスタッフの取り合い、特にアニメーター近藤喜文(後に『耳をすませば』を監督する)を巡る熾烈な「争奪戦」が繰り広げられた。「宮崎は自分で絵を描くことができるから」という理由で近藤を『火垂る』制作班に組み入れようとしたプロデュ―サーの鈴木敏夫に対し、宮崎は作品の降板すら口にするなど激しく反発したが、結局近藤は『火垂るの墓』の作画監督に就任し、主人公清太と妹節子の生活描写をその繊細な技術で表現してみせた。



高畑的主人公像、再び

『火垂るの墓』は現在でこそいわゆる「反戦映画」の一つに数えられることが多いが、当の高畑は本作の狙いについて「私は反戦のメッセージを伝えようということでこの映画を作ったわけではない」と述べている。単に空襲や原爆の悲惨さを映像化するだけではなかなか戦後の社会状況と切り結ばず、現代人へのメッセージとしてはやや有効性を欠く……。そう考えた高畑が、戦時下で生きる感覚を若い世代に伝えるための手段として注目したのは、反戦のイデオロギーではなくむしろ野坂昭如による原作版『火垂るの墓』で描かれていた主人公清太の現代的ともいえる人物像であった。

高畑はかつて自作『母をたずねて三千里』について語った際、主人公マルコの造形に一定の満足感を示していた。主人公を理想的な「良い子」に描きすぎた前作『アルプスの少女ハイジ』と異なり、『三千里』のマルコは既存のアニメの価値観からすれば「主人公たる資格に欠け」た可愛げのない少年で、そのようなリアリティあるキャラクターを主役に据えたこと自体画期的だったというのだ。『三千里』の制作から10年以上が経っていた当時、高畑は『火垂るの墓』で再び主人公の清太を「主人公たる資格のない」少年として描き切ろうと決断する。居候先で受ける屈辱的な扱いに憤激して家を飛び出し、妹節子と二人だけの野宿生活を試みるも最後は悲劇的な死を迎える主人公、清太の姿は、こらえ性がなくわずらわしい人間関係を嫌う現代の若者とどこか似ており、アニメの主人公らしくない彼の人間性はむしろ今の若者の共感をかちうるものだと高畑は考えたのだ。

真正面から「反戦」の主張をするのではなく、まずは主人公清太への共感を入口として現代の若者に戦時下の状況や人と人の繋がりについて考えてもらいたい。そういった意図のもと、清太の人間性と悲劇的な運命を冷酷なまでのリアリティをもって表現した本作は、しかしいざ公開されるや劇場につめかけた観客から衝撃的な「反戦映画」として受容され、反戦映画の名作として現在に至るまでの確固たる地位を築くこととなる。

受け手からの予期せぬ反応に当初は少なからず動揺した高畑だったが、彼はすぐにこの評価を受け容れ、『火垂るの墓』の「反戦」的側面を認めていく。全身を焼かれ、蛆虫にまみれながら息絶える母親、冷たい周囲の大人たち、清太の焦燥と屈辱、そして哀切極まる節子の死……。これら全てを誠実に描き出した本作が、多くの人々の胸に戦争への憎しみと平和への想いを呼び起こしたのは極めて当然のことであった。幼少期、自らも空襲を受けて両親とはぐれ、清太のように妹と二人きりで街をさまよった経験のある高畑は、この傑作により、己の平和への想いを多くの人々に訴えかけることに成功したのだった。

『火垂るの墓』と『となりのトトロ』が同時公開された1988年は、他にも富野由悠季監督による『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』と大友克洋監督による『AKIRA』が公開されるなど、1979年(※)と並ぶ屈指の「当たり年」でもあった。日本最高の演出家の一人として88年のメモリアル」を主導した彼は、90年代以降もスタジオジブリを拠点に長編アニメの制作を続けていくこととなる。(47)

※1979年……高畑勲が『赤毛のアン』を発表した1979年は、宮崎駿の『ルパン3世カリオストロの城』や富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』などが相次いで公開、放映された年でもあった。79年は他にも出崎統監督が『劇場版エースをねらえ』と『ベルサイユのばら』の両方を発表し、また、りんたろう監督が『劇場版銀河鉄道999』を、小田部羊一監督が『龍の子太郎』、高橋良輔監督が『サイボーグ009(新)』をそれぞれ発表するなど、もはや異常としか言いようがない、アニメ史上空前絶後の「大豊作」の年であった。

参考文献 ・高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店)
・小谷野敦『高畑勲の世界』(青土社)
・叶精二『日本のアニメーションを作った人々』(若草書房)
・『キネ旬ムック BSアニメ夜話07 アルプスの少女ハイジ』(キネマ旬社)
・大塚康生『作画汗まみれ』(徳間書店)

作品紹介③

セロ弾きのゴーシュ

とある町の活動写真館。ゴーシュは、そこで演奏をしている楽団の若いセロ奏者だ。仲間内で一番演奏の下手なゴーシュは、いつも楽長に叱られてばかりいた。コンサートを間近に控え、自宅である水車小屋で練習に励むゴーシュの元へ、夜毎に猫やかっこう、狸や野ねずみが現れて……。

他者とうまく付き合えず、自分の感情を外に出すのが苦手なゴーシュ。練習の中で楽長がゴーシュに向けて放った「怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ」という指摘は、何も音楽に限った話ではない。劣等感に苛まれ、感情を上手く解放できないその姿は、若き日の自分とも重なるのだと、高畑はあるインタビューの中で語っている。

そんなゴーシュが、夜毎自分を訪ねてくる動物とふれあい、彼らのために演奏する中で、笑ったり怒ったりと、感情を表現できるようになっていく。そして彼は、楽長に「10日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ」と言わせる程の変化を遂げて、万雷の喝采を受けるのだ。

本作は、苦悩しながらもきっかけを掴んで成長していく青年の物語としての「ゴーシュ」の側面をくっきりと浮かび上がらせている。コンサート後の祝賀会や、動物との交流の中での感情の表れ方など、細やかなアレンジが、高畑の中のゴーシュ像を観る者に訴えかけてくる。しかもそれらのアレンジは、決して原作の雰囲気を損なうものではない。愛嬌ある動物達や、彼らのために奏でられるセロの音色は、宮沢賢治の描いた『セロ弾きのゴーシュ』の世界を活き活きと再現している。童話としての「ゴーシュ」と、青春物語としての「ゴーシュ」。それら二つの側面を両立させた作品だからこそ、映画・セロ弾きのゴーシュは子供から大人までを楽しませることのできる一作となったのだ。5年をかけて制作されたこの自主制作映画は好評を博し、制作したOH!プロダクションは、大藤賞(毎日新聞社等の主催する毎日映画コンクールの中で、その年度内のアニメ映画界において目覚しい成果を挙げた個人や団体に与えられる賞)を受賞するに至っている。いまだに地方の映画祭で上映されるなど、30年を経た今でも、その魅力は色褪せない。

エンドロールの中、再びゴーシュは真夜中の水車小屋でセロを弾き始める。コンサートが成功したからといって、彼の物語は終わらない。これからもゴーシュは、絶えず努力し、成長していくにちがいない――そんな予感を感じさせながら、映画は幕を下ろすのである。(待)

じゃりン子チエ(テレビアニメ)

大阪市西成区に暮らす元気な小学5年生、竹本チエは、ろくに働かない父のテツに代わって家業のホルモン屋を切り盛りしている。父は無職、母のヨシ江は別居中という状況にも関わらず、チエは個性豊かな近所の仲間たちと毎日を楽しく過ごしている……。

無職の博打打ちでヤクザとのトラブルさえ珍しくない父親。子供を置いて家を出て行った母親。この竹本家の設定を現代の一般的な社会通念に照らした時、チエの生育環境が好ましいものだと主張するのは難しい。常識的に考えて、彼女の置かれている状況は悲惨だとさえいっていい。しかし本作で描かれるチエや竹本家の様子にはそのような深刻さや悲惨さなど微塵もなく、むしろ現代日本における「一般的」で「常識的」な核家族にはない温かさに満ちているようにすら思える。

本作で竹本家を優しく「温める」のは竹本家を包み込む隣人たちの存在だ。近所に住むテツの恩師、拳骨やテツの母親(おばあはん)は博打に明け暮れるテツの暴走を食い止められる唯一の存在であり、またヨシ江とチエを精神的にバックアップする役目も果たしている。この「おせっかいな老人」たちは、チエを見守り、テツを叱り、ついにはヨシ江を家に戻して竹本家の家庭を復活させてしまうのである。お好み焼き屋の「社長」やカルメラ兄弟といったテツの悪友たち、警官のミツルやチエの友人ヒラメといった脇役たちも良い。彼らはそれぞれに忘れたい過去やコンプレックスを抱えながら、時には結婚や絵画コンクール入賞、恨んでいた「ポリ」を殴ることができた、などそれぞれの喜びにも出会い、その度に全力で一喜一憂してみせる。感情をむき出しにして作中を縦横無尽に動き回る彼らの人間的厚みは、本作の世界観に奥行きと彩りを与える重要な要素である。

また、話が進むにつれてキャラクター同士の人間関係が変化するというのも注目すべき点だろう。例えばチエのクラス担任である渉とテツの関係性だ。第2話「テツは教育パパ」での初対面時、テツに脅され号泣していた渉は、その後のエピソードを通して少しずつテツと積極的に向き合うようになり、ついにはテツからも「お前最近はっきり物を言うようになった」と評されるほど打ち解けていく。シリーズ後半では家に居づらくなったテツが渉の家に転がり込む場面も度々見られるなど、二人の間にゆっくりと友情が芽生えていく様子は観ていて非常に微笑ましいものがある。本作では小学5年生の主人公、チエがいつまでも6年生に進級しないことから、『サザエさん』(テレビアニメ版)などと同様の時間軸1年ループの世界観(どれだけ時間が流れてもキャラクターは年を取らない)が採用されていると思われるが、『じゃりン子チエ』の登場人物たちは、年を取らないながらもそれぞれ少しずつ成長し、互いの関係を深め、より良い隣人同士になっていくのである。

それまで主に欧州が舞台の作品を手掛けてきた高畑が初めて日本の共同体を描くことに成功した本作は、『柳川堀割物語』以降における高畑の「日本回帰」志向の原点となる記念碑的作品である。(47)

柳川堀割物語

『柳川堀割物語』は実写映画である。当初高畑が製作を予定していたのはアニメーション映画だった。6キロ四方の市内に470キロもの堀割が張り巡らされている柳川市を舞台にすれば面白い話が描けると思いロケハンに赴いた高畑。しかし関係者の話を聞く内に、柳川の堀割を記録したいという思いが強くなり、ドキュメンタリーの製作を決意する。

堀割と柳川で生活してきた人々との縁は深い。良質な地下水が得られなかったこの土地では、柳川の水を水路に行き渡らせ、それを使うことで生活してきた。農業用水を供給したり、子供たちの遊び場としても機能していた水路。驚くことに昭和10年代に水道が普及するまでは飲料用水として市民の喉を潤してもいたのである。水がいちばん清い早朝に水路から汲んだ分を貯めるための甕が当時の清流を物語る。

しかし、水路の姿はだんだん変貌する。高度経済成長期、都市化が進んだことで、工場排水や家庭排水が直接川や水路に流れ込む光景が全国で見られるようになる。柳川も例外ではなかった。ゴミが浮かびヘドロや臭気の発生源となっていた水路は、行政や市民の頭を悩ます存在になっていた。きれいな水路を期待して柳川を訪れた観光客からは、北原白秋の生家に置かれた感想帳に失望を書き残され、新聞には「文化都市」ではなく「ブーン蚊都市」だと書き立てられる。そんな中、水路網をいっそのことコンクリートで覆い下水路にしてしまおうという計画が持ち上がる。荒廃した水路を前にした行政も議会もこの計画に疑問を投げかけることはなかったという。

その時、一人の男が反対の声をあげる。計画担当者として都市下水路係長に抜擢された広松伝(つたえ)だ。広松は「堀割がなくなれば柳川は沈没してしまう」と古賀杉夫市長に計画の中止を要請する。昔の水路の姿を知る古賀市長の英断もあり、半年間の猶予を与えられた広松は水路の歴史、役割を調べ上げパンフレットにまとめた。加えて市民と100回以上にわたる話し合いの場をもち水路再生計画を訴える。初めは市民から「観光のためにやりたいのだろう」と批判されることもあった。しかし昔の清流を懐かしむ声が広がり、次第に賛成する人が増える。1978年から住民と行政が一体となって清掃を進めた結果、柳川の景色は復活した。

本作には高畑が近代化に対して抱く不信感が刻み込まれている。柳川の人の創意工夫が詰まった水路を「降った雨を巨大な地下のパイプやポンプで川に捨て、コンクリートの堤防でとじこめて素速く海へ流し去」り「足りなくなった水は遠い他人の土地にダムをつくって取って来」るというシステムに置き換えようとする近代化に、高畑は疑問を呈する。

本作の撮影期間は1985年から86年である。水路が再生されていくドラマチックな過程をリアルタイムで追っているわけではない。黙々と水路の清掃を続ける市民。当時の様子を淡々と語る関係者。祭りで楽しげに酒を酌み交わす人々。本作が切り取るのは再生後の「日常」の場面ばかりである。しかしそこからは柳川の人々が抱いている水路への親しみ、水路を飲み込もうとする都市化に対し広松が感じた危機感が十分に伝わる。「冒険活劇」ではなく「日常描写」を志向したアニメーションの演出に磨きをかけてきた高畑だからこそなせることなのかもしれない。(築)

火垂るの墓

「昭和20年9月21日、僕は死んだ。」この衝撃的な言葉から物語は始まる。

14歳の少年・清太と、4歳の妹・節子は神戸大空襲で母を亡くした。その後、二人は西宮に住む叔母のところへ疎開する。初めは仲良く一緒に暮らしていたものの、敗戦の色が濃くなるにつれて生活が苦しくなり、叔母との諍いが増えた。ついに清太は節子を連れて家をでることを決意する。清太は妹と二人で生きるため、必死でもがく――。

この作品に終始ついて回るのは「死」である。戦争を題材にしている点では当然のことのように思えるかもしれない。しかし冒頭でも記したように、『火垂るの墓』は清太の死の宣言から始まっている。これはとても驚くべきことだ。私たちはこの言葉を聞いた瞬間から、清太がいつか必ず死んでしまうことを意識しながら観なければならなくなってしまう。悲しい結末を迎えることがわかっている物語ほど、観ていて辛いものはない。

だが、それを「辛い」の一言で済ませてしまってよいのだろうか。

死の宣言により、私たちは二人が生きていること、すなわち二人の「生」に注目するようになる。もしこれがなかったらどうだろう。清太と節子が年相応に海辺で遊んだり、歌をうたったりしている楽しげな場面であれば、多くの人が二人は生きている、と感じるにちがいない。しかし二人が野宿を始めて生活が本当に困窮し、清太が生きるために手段を選ばなくなった場面では、死期の迫った二人から「生」の気配を感じにくくなるのではないか。清太の死の宣言があるからこそ、このような苦しい場面で、より二人の「生」を感じられる。『火垂るの墓』は主人公の「死」を初めに提示することで、その後に描かれていく「生」をよりくっきりと浮かびあがらせた。

「死」が「生」を際立たせる、ということは、作中に何度も登場する赤い光をまとった清太と節子の幽霊の存在にもいえることだろう。「死」が「生」を見つめる構図は決して穏やかではない。幸せだった記憶を見つめる「死」の側の清太は、微笑んでいない。辛かった記憶を見るとき、彼は直視できずに苦しみの声をあげる。幽霊となった清太が笑顔を見せるのは、同じく幽霊の節子を見つめるときだけだ。「生」に対して微笑むことのない「死」は何を想うのだろう。「死」の赤い光は、空の青さや木々の緑といった「生」の鮮やかな色彩と交わることはなく、ただ「生」の明るさを目立たせるだけだ。

この作品は、清太の苦しみ、悲しみ、過ちでさえも取り繕うことなく表現した。彼の「死」を観るのが辛い、というのは当然のことである。しかしただ「辛い」だけではないのだ。描かれているのは、ありのままの、決してお綺麗ではない「生」である。『火垂るの墓』を観たあとに感じる何とも言い難いむずがゆさは、私たちに生きるということを思い出させてくれる。赤い光をまとった清太と節子の前に広がる煌びやかな街に住む私たちが忘れてしまったものは、きっとこの映画の中にあるのだろう。(井)