複眼時評

櫻田忠衛 経済学研究科講師 「河上肇と左京区の労働運動」

2007.06.01

京都市左京区に「左京地区労働組合協議会」(略称=左京地区労)という団体があるのをご存知であろうか。左京地域の労働組合が集まって、左京で働く人たちの要求や地域に住む人たちの生活要求をとり上げて、その実現のために運動している地域の労働組合の組織である。私はいま、この左京地区労の議長に就任してその活動の一端を担っている。地域の労働組合運動に参加すると、地域の人たちの生活や街づくり、商店の様子、環境・福祉・医療の問題、政治状況など京都大学の中にいては見えないことが良くわかってくる。私にとっては、左京地区労議長は時間がとられて大変ではあるが貴重な経験をさせてもらっているとの思いが強い。

私はまた、労働者の学習組織である京都労働者学習協議会の副会長にも就任していて労働学校の講師として労働者の学習運動に参加している。京都の若い労働者が仕事を終えてから、哲学、経済学、働くものの権利、労働組合論、女性の生き方等のコース別の講座を受講するために集まってくる。その彼らと学び、語り合うのだが、彼らの問題意識は鮮明で、私は彼らから学ぶことの方が多い。

最近、河上肇のことを調べる機会があったが、その作業の中で、彼が左京地域の労働組合運動に深く関わっていたことを知った。周知のように河上肇は、戦前のマルクス経済学者で京都帝国大学教授の地位にありながら、実践活動に身を投げ出して教授の職を辞職させられる。一九二八(昭和三)年四月のことである。その後、彼は労農党に請われて東京に出るが、一九三〇(昭和五)年五月、洛北染物労働組合争議の支援のために一時京都へ戻る。この洛北染物労働組合は左京地域で組織された組合で、河上はこの組合の争議支援に積極的に関わるのである。

当時の京都の友禅業は、九条、洛西(西院から西方)、洛北(高野から修学院)の三地域に分かれて並存していた。九条、洛西には早くから染物労働組合が組織されていたが洛北の組織化は遅れていた。洛北友禅は広幅の反物が多いために、地元の職人が少なく、各地から集まってくる職人が多かった。特に韓人移民労働者がその主流を成していて(河明生『韓人日本移民社会経済史─戦前篇─』明石書店、一九九七年)、各工場では差別と暴力的労務管理が横行していたために組織化は遅れていた。

世界大恐慌(一九二九年)の影響は、京都の友禅業界にも及んで、工場主は深刻な不況に苦しんでいた。この苦境を乗りきるために工場主は労働者に賃金の切り下げを強要した。これに対して労働者は一九三〇年四月、田中部落水平社夜学校で洛北友禅工場代表者会議を開催し、「賃金の三割ひき上げ要求」と「洛北染物労働組合の設立」を決めて、工場主に対し団体交渉を要求しストライキに突入した。工場主側は、この労働者の要求には応じず、逆に暴力をもって弾圧しようとしたためにこの争議は長期化の傾向をみせ始めた。この争議を指導したのは、当時河上の片腕となっていた大塚有章で、彼はこの地域の部落解放運動水平社の活動家であった朝田善之助らと協力することに成功した。

争議が長期化すると労働者は、賃金が支払われずに経済的に窮することになり、争議をたたかいぬくことは困難になる。大塚は、労働者の生活費を補うために河上に経済的支援を求めた。河上はこの要請に応えて自らが多額の資金カンパを行うと同時に、画家の津田清楓や、当時同志社大学にいた林要にも洛北染物労働組合争議団へのカンパを要請している。また、河上の洛北染物労働組合争議支援は、経済的な援助にとどまらなかった。河上はこの争議支援のために五月十三日から一週間京都に滞在し、争議に参加する労働者を激励する演説を行い、その頃好んで使用したジョルジュ・サンドの言葉「闘争か然らずば死か/血みどろの戦か然らずば無か/問題は不可避的に右の如く課せられてゐる」(マルクスが『哲学の貧困』の末尾に引用して有名になった)を毛筆でしたためて檄文にして洛北染物労働組合へ贈った。そして、夜は争議に参加している労働者を対象に労働講座をも開講するのであるが、この労働講座について、京都日出新聞(昭和五年五月十六日付)は「十五日午後八時、田中古川町の洛北友禅争議団本部で午後七時半労農党員に守られた博士のやせた姿があらわれた。博士の『笑わない顔』がにつとほほえんだ。博士の労働講座第一日目『労働者は何故貧に苦しみ何故資本家は富むか』を生きた実例で説明する。しはぶき一つきこえない。その一言一句が情熱だ。午後十時半博士はその第一日の講義を終った」と報道している。河上の知識人としての社会的役割が見事に表現されている。労働組合運動に単に知識人として理論面でのみ関わるのではなく、実際に労働者の生活を支援しながら学習活動にも直接関わって、その全てを労働者のために捧げている姿に敬服する。しかも、その場が、河上が京都にいる間住み続け、なお、京都大学が存在する左京であったことも感慨深い。

大学が法人化されて以降、大学の社会貢献が大学評価の重要なファクターを占めている。いま、社会貢献というと政府や企業にいかに貢献したかがそのバロメータにされがちであるが、河上肇のような労働者との関わり方、学問研究を労働者の生活に役立てる姿勢も社会貢献の一つのあり方として考えられないであろうか。河上肇が京都帝国大学の時代に、経済学を研究し、その成果を社会、とくに労働者のなかに還元した進歩的な伝統は、京都大学の貴重な財産として継承されなければならない。


さくらだ・ただえ 京都大学大学院経済学研究科講師。
専攻は現代経済学・経済統計調査論。授業は経済情報調査論を担当。経済学研究科調査資料室で統計データの収集、分析、整理を行いながら、経済学部アーカイブズも手がけている。主な論文:「京都大学経済学部所蔵の小島勝治旧蔵書」『調査と研究』第22号、2001年。「経済学分野における情報資料調査教育の方法と意義」『調査と研究』第29号、2004年。「わが国最初の欧文経済学術雑誌 The Kyoto University Economic Review」第33号、2007年。