複眼時評

八木紀一郎 経済学研究科教授 「進化主義者のガバナンス論」

2007.05.01

最近あちこちの会合で「ガバナンス」ということばを何度も使った。しかしなかなか理解してもらえない。それでこの機会に、手もとにある文章を要約してみることにした。といっても、「ガバナンス」は「強者の論理」であるという批判(後出河野編収録の御巫由美子論文)があることを知らないわけではない。つまるところ「強者」「弱者」の定義次第ということになるが、「弱者」によるガバナンス、あるいは「弱者」に権利を与えるガバナンスも考えられないこともないだろうと思って、この概念を使い続けている。

経済学におけるコーポレート・ガバナンス分析の開拓者であるO・ウィリアムソンは「ガバナンス」を「良好な秩序と作動可能なしくみ」ときわめて広義に解して、<制度的環境-ガバナンス-諸個人>という3層の図式を示している。(The Mechanism of Governance, Oxford U.P.,1996)ガバナンスの状態は、制度的環境の特性と個人の行動的属性によって決定される。同時に、ガバナンスの状態は、制度的環境とともに個人の選好をそれに適合したものに形成する。しかし、諸個人はガバナンスの状態如何によって制度的環境自体を変更する「戦略的フィードバック」に訴える可能性も有している。制度的環境をゲームのルール、ガバナンスをプレイ結果と考えるならば、プレイヤーの選好は通常は与えられたルールに適合しているが、プレイ結果が不満であればルール変更もありうるということだろう。

昨年、政治学者の河野勝さんが、ガバナンスの概念を検討した共同研究の成果を『制度からガヴァナンスへ』(東京大学出版会)として公刊した。河野さんはガバナンスの概念には「機能としてのガヴァナンス」と「状態としてのガヴァナンス」の2側面があるとして、前者を「利害関係者のため規律付けメカニズム」、後者を「それが成立していることで公共財が提供される状態」であると定義している。「公共財」の概念を持ち出したことに驚かされるが、「利害関係者」の利益にとどまらない正の外部効果をもつ事象でなければ「グッド・ガヴァナンス」ではないという政治学者らしい価値判断を示したものであろう。

ウィリアムソンと河野を合わせると、おおむね次のような概念になる:ある社会システムにおいて、相互作用する諸個人の行動属性と制度的環境を基礎として機能を達成するメカニズムないし状態。ただし、ウィリアムソンはこの状態が戦略的変更ももたらしうるとし、河野は正の「外部効果」を生み出すような介入がありうるとする。いいかえれば、ガバナンスの概念は、規範的あるいは実利的な意味をも帯びさせうる概念とみなされている。河野は、社会科学における制度分析は静態的で非政治的なものになりがちであると判断していて、評価的要素をもったガバナンス概念の導入によってそれを打破したいと考えているらしい。私は、変異をもった多数主体の相互作用をすべての社会現象の基本におく進化主義者なので、制度分析がつねに静態的であるとは思っていない。しかし、ガバナンス概念によって、政治的・政策的な要素が制度分析に導入できるとすれば、それは魅力的な提案であると思う。

どのようなガバナンス・メカニズムも社会のなかに組み込まれている。社会には多数のガバナンス・メカニズムがあり、それらの構成がその社会の特質をなしている。大部分の文献的なガバナンス・メカニズム(市場を代表とする)では、変異の発生、それらの競争、普及が常態であるため、それ自体として進化的な性質を有している。しかし、制度変革を考慮する場合には、意識的にせよ無意識的にせよ何らかの集合的意思決定がおこなわれる公共空間の領域に考察の視野を拡大する必要がある。この領域は、政治学者たちによって、しばしば「市民社会」と呼ばれている。この領域における言説と行為はさまざまな種類のコミュニティにおける人々の生活過程に基礎を置いている。

市場経済における経済的取引のガバナンスは、法の執行という面では政府によって集権的におこわれているが、経済主体のあいだでの評判・信頼による分権的メカニズムも存在している。市民社会と非市場的な社会過程は、政治過程をつうじて政府の集権的ガバナンス・メカニズムに影響を与えるが、他方、その倫理的判断によって分権的ガバナンス・メカニズムにも影響をあたえる。集合的意思決定によって制度変革という「戦略的フィードバック」がおこなわれる場合でも、それは進化的特性を保持している。なぜなら、ガバナンス状態の認識、その評価基準、そして変革の方策は一挙に生まれるものではないからである。

社会科学において進化的属性を強調することは積極的な政策論を放棄することに等しいと批判されることがある。しかしガバナンス・メカニズムが進化的属性をもつことを認めたからといって政策ニヒリズムにおちいるとは限らない。すべての要素が同時に変化するのではないから、比較的安定した評価基準とそれに対応した政策を形成する余地は残されている。その意味では、進化主義的に解されたガバナンス概念は、公共政策の領域で、設計主義的アプローチと自生的アプローチの中道に位置するといってよいだろう。


やぎ・きいちろう 京都大学大学院経済学研究科教授。
進化経済学会会長。専門は社会経済学、経済学史。著書に『社会経済学-資本主義を知る』(名古屋大学出版会)、『ウィーンの経済思想』(ミネルヴァ書房)、『近代日本の社会経済学』(筑摩書房)、『経済思想』(日経文庫)など。