複眼時評

作花一志 総合人間学部講師 「惑星集合と中国古代王朝の始まり」

2007.04.01

◆ 五星聚井 ◆

中国の歴史書『漢書高帝紀』に次のような記述がある。|漢元年の冬10月に5惑星が井宿の東に集合し、このとき沛公が覇上に到着した|今を去ること2200年、秦が滅び漢が興るころの話である。沛公とは後に漢の初代皇帝高祖となった劉邦のことで、彼が秦の首都咸陽近くの覇上に到着した時に水星・金星・火星・木星・土星が一堂に会したという。『漢書天文志』にはこのことは劉邦が天命を受けたしるしであると書かれ、またさらに古い史書である『史記』には年代は記されていないが、漢が興る時に五星聚井が起こったという記事があり、昔から重視されていた有名な天文現象らしい。東井とはふたご座からかに座にかけての天域で古代中国の呼称である。

漢書では元年とはBC206年を指すらしい。この時の木火土金水の惑星集合については魏のころから色々調べられていて、BC206年にはそんな天文現象は起こらなかったことが確かめられている。実際、火星を除く4惑星はふたご座周辺にいるが、火星はみずがめ座・うお座辺りにある。そこで数字の写し間違いではないかとか、五星とは4惑星+1恒星のこととか、そもそもこの記述は後世の捏造であるとか様々な議論がなされているが、果して秦末漢初に5惑星の集合は起こっていないものだろうか?

筆者はBC3000からAD3000までの間、5惑星が天空上に収まる日をすでに検出している。BC300から300年間、5惑星が25度以内に収まる天象を捜してみると5回見つかるが、そのうち秦から漢の前半の間にはBC205年の5月末にしか起こっていない。彼らは薄明の西空に実際に井宿の東に聚っていたのだ。

しかしなぜ半年ずれているのだろうか?これから先は中国古代史の専門知識のない筆者の偏見に満ちた憶測である。

1、BC205年の5月といえば劉邦は項羽の前に連戦連敗を繰り返し、大陸を東へ西へと逃げ回っていたころだ。「現王朝開始の天命が下ったのだからそれにふさわしい時期でなければ」ということで漢の歴史家たちは平民出身の劉邦にハクをつけさせるため、この天象を彼が英雄としてデビューした前年に繰り上げて記載してしまった!

2、五星聚井の年代の記載は『史記』(完成BC90年頃)にはなく、『漢書』(完成AD50年頃)になってからである。司馬遷はその時期が特定できなかったため、あえて書かなかったが、その後何らかの新資料が見つかったので班固は年代を記載した。ところがこの資料は漢の元年がBC206年ではなくBC205年というものだった。実際史記の中にも漢の元年について種々の説が混在しているという。

◆ 歳在鶉火 ◆

「五星聚井」より854年前、同じ月日の同じ時刻に同じ方向で、五惑星集合が起こっていた。惑星たちは7度の範囲に収まり、BC3000年から6000年間で3番目にコンパクトな惑星会合である。しかも日没後1時間余、西の空かに座に見えたはずで観望条件は非常にいい。明るい星のないかに座に5個の惑星が集合したのだから、多数の人の眼に留まったことだろう。BC1059年5月末、時は殷末、酒池肉林などで悪名高い暴君、紂王の世であり、西方では未開の蕃国といわれながらも周が次第に強大になりつつあった。後世の儒家から聖君と讃えられた周の文王は一時紂王に捕らわれ、入牢されるが、脱出して帰国し、周は急速に膨張する。実際に殷を滅ぼすのは文王の没後、次の武王だが、文王は晩年に西伯として大軍を率いる力を持っていた。密かに反旗を翻す準備をしていた文王は、というよりその参謀である太公望は、この夕の天象を見て天命下ると解釈し、革命を正当化するための手段に利用したと考えられよう。この天象の記録は『史記』にはない。しかし唐の時代の占星書『大唐開元占経巻十九』の「周将殷伐五星聚於房」という記載に対応している!集合場所が房宿(いて座)ではないから誤記事だと考えてはならない。「いつどこで」ということは忘れても、事件そのものは長く覚えているということは、現在のわれわれもよく体験するものだ。

後世、漢の歴史家・天文官たちは殷周革命の時と秦末漢初に同じ天象が起こっていたことを見つけて、「五星聚井」は平民出身の劉邦が帝位に就くのは天命によるものだと解釈したのだろう。

「昔武王殷を伐つ。歳は鶉火に在り。月は天駟に在り。日は析木之津に在り。」という文が『漢書律暦志』にある。そこには『書経』をはじめさまざまな古書が引用され、上記以外にも武王の出兵・行軍・戦勝の日の経緯や干支が記載されている。その内容の信憑性には種々の議論もあるそうだが、文献考証はさておき、ともかくこの短い文から殷周革命の日を特定してみよう。歳とは木星のことで、鶉火、天駟、析木とはいずれも天球上の位置を表す。12年弱で天球を1めぐりする木星が「鶉火」に在るのはBC1071年、BC1056年、BC1047年、BC1035年、BC1023年の夏から翌年の夏まで、太陽が「析木之津」にいるのは11月頃で、月が「天駟」に在るのは新月2日前となる。したがってその日は特定でき、最も条件に適する日はBC1047年11月27日となる。漢書にも史記にも牧野の戦いで勝利をおさめたのは「甲子の日」と記載されており、1976年にも陜西臨潼で出土した青銅器などにも「武王征商、唯甲子朝」という銘文があるという。甲子の日は60日ごとにめぐってくるので、上記の日の後で探すとBC1046年1月20日、3月21日、5月20日が見つかる。この両者から周はBC1047年11月27日に戦いを始め、翌BC1046年1月20日に牧野の戦いで殷を破ったと考えるのが自然だろう。

文王は「受命九年」で没し、武王が殷を滅ぼしたのは「文王の受命より十三年に至る」と記されているが、果たして受命とは何だろうか?BC1046年が受命から13年後とすると、文王に天命が下ったのはBC1059年であり、それは天に描かれた。その年の天象として、5月末に起こった五惑星集合こそこの天命にふさわしいのではないか!

なお、2000年11月に中国の専門家チームより中国古代王朝の開始年として「夏はBC2070年、商はBC1600年、周はBC1046年」という説が発表された。その情報源は最近中国で行われている「夏商周断代工程」という大規模なプロジェクトの結果らしく、その紹介文には「武王克商の年代はこれまで44の候補があったが、このたびBC1046年1月20日と確定した。」と記載され、筆者の計算結果と一致していた。


さっか・かずし 京都情報大学院大学教授、京都大学総合人間学部非常勤講師。
主な研究分野は計算天文学、デジタル統計解析法。著書に『基礎数学演習』(共立出版)『星空ウォッチングのすすめ』(オーム社)など多数。筆者ホームページ http://www.kcg.ac.jp/kcg/sakka