文化

読み比べ 京都”の”大学

2010.01.16

「京都」「大学」と一口に言っても、京都市内には 20を超える数の大学が点在する。今号ではそのうち5つの大学から1名ずつ教授を選び、彼らの著した新書を紹介する。

京都精華大学 日高敏隆の本

『人間は遺伝か環境か? 遺伝的プログラム論』

人間の発育にとって重要なのは遺伝か、それとも環境か。この命題は生物学の歴史においては事あるごとに登場してきた。本書は動物行動学の見地からこの「氏か育ちか」の問題を再分析している。

初めに結論を言うと、生物の発育において遺伝と環境は相互補完の関係にあり、遺伝的プログラムの影響下にあるのだ。そもそも遺伝的プログラムとは何か。本書によると、「生物の発育過程が元々決められた順序で行われるための、生物種ごとに予め定められた段取り」と説明できる。オタマジャクシで言えば胴体と尾ひれしか生えていない状態から、手足が生え、尾ひれがなくなり、カエルへと変態するという具合だ。この時尾ひれ先端部から少しずつ短くなり、やがて細胞死に至るが、それは血流に乗って新しく生える四肢の形成に用いられる。これが遺伝的プログラムの働きである。だから尾ひれが根元から落ちたりする事はないのである。

遺伝的プログラムにおいて最も重要なのが、具体化されるかどうかである。きちんと栄養を摂取し、体が大きくならなければ個体は死んでしまい、プログラムの具体化は行われない。ウグイスを例に挙げてみよう。ウグイスは「ホーホケキョ」とさえずる能力を生まれながらに体得しているのではない。ヒナの間に親がさえずる様子を真似してさえずる事が出来るのだ。だから、もし仮に幼生のウグイスを親から隔離し、無音状態やカラスの鳴き声を聞かせた環境で発育したとすれば、さえずらないウグイスに成長するのである。これは遺伝的プログラムの具体化が起こらない実例を示している。ちなみに、幼生時のウグイスにいくらカラスの鳴き声を聞かせても、将来「カーカー」と鳴く事はない。遺伝的プログラムによりウグイスはウグイスのさえずり方しかできないからである。

本書の後半では、遺伝的プログラムは人間の場合どのように作用しているかを具体例を挙げつつ述べられている。人間の社会において遺伝的プログラムは社会構造に組み込まれているのではないかと著者は指摘している。日本では6歳で義務教育が始まり、学校という集団生活の中に放り込まれ、親や教師、周囲の人間から多くを学んで成長していく。この過程でもし仮に親が育児放棄をしたりその性格に難があるような場合には子供はプログラムの具体化が損なわれたまま成長する場合もある。自然界の中でも人間はプログラムの具体化に比較的幅がある千物種だと言われている。コンピュータの普及がその一例である。ディスプレイに向かうばかりで引きこもりがちな子供は本来獲得するはずだった社会性が欠如したまま大人になってしまう。これに関連して、人間の間でコンピュータが普及する事で今まで起こり得なかった問題が発生するのではないかと懸念する研究者もいる。遺伝的プログラムの観点から人間とコンピュータの付き合い方を考える国際会議まで開催された程だ。

遺伝的プログラムについては現在でも未だに分からない部分が多い。具体化に従うような生き方を指向するというのもおかしな話だが、社会装置としてのプログラムに注目する事で現代を生きる我々の抱える問題に光を当てるきっかけになるかもしれない。(如)

※日高教授は昨年11月に逝去

立命館大学 白川静の本

本書を読んでいてふと思い出したのは、東アフリカの妖術信仰である。大学の文化人類学の講義で以下のような話を聞いた記憶がある。東アフリカのある部族は、身に降りかかる災いの原因は呪詛や死霊、邪術の3つにあると信じている。呪詛は年長者が不敬な若輩にかける弱い呪いである。死霊は、葬送儀礼に不手際があったときその怒りを買う。邪術は加害者がねたみから被害者にかける。またこれらの災いに対処する方法も存在する。この社会には呪詛解除を担う氏族がいて、呪医もいれば対抗邪術もあるのだ。
 
日本で呪術が、死霊が、などと言えば宗教勧誘かと警戒されること必至である。一方で異なる文化圏ではこうした妖術信仰が今でも存在する。講義を聞きながらおもしろいなと思ったが、私の抱いたこの感想は、結局は傍観者が抱く「おもしろい」だった。呪いや神、死霊なるものはどこか遠い遠い国の話であって、勿論ばかにするわけではないが、なんだか縁遠い話に感じたのだ。本書通じて私がはっとしたのは、そうした動物園の柵越しの如く眺めていた「呪術」や「神」が、実は漢字という最も身近なものの中に息づいているということである。

漢字の背景には呪的世界がある。呪術は超自然に訴えかける力であり、これによって人間は危機を克服する。その呪的儀礼を形象化したのが漢字であった。例えば「名」の下にある「口」を見てみる。「口」は目鼻口の口ではなく、神に対する「のりと」(神へ奏上する言葉など)を入れる器である。ちょうど「∀」の「V」部分を「∪」にしたような、器の形をしている。神へ訴えるため、器の上に木の枝をつけて「告」、木に器をつなげて「史」「使」「事」。器の上に武具を置いたのが「吉」「古」「吾」である。およそ「口」を器官の口と解釈してはこうした見方はできまい。「辛」は入墨の刑罰に用いる針であり、「言」はこの字にのりとの器を加える。すなわち「言」は、神に対して身の清明を誓い、「もし虚偽があれば入墨の罰を受けよう」という自己詛盟、つまり神的な誓いである。さらに草木を刈る行為であるらしい「折」を加えて「誓」となる。古代の羊審判では神羊のもとで原告と被告が自己詛盟する。その審判に勝った者が「善」(羊の下に言を二つ並べて、自己詛盟する姿)となる。

古代中国文化を漢字から幅広くうかがい知ることができる。例えば農耕、軍事、コミュニティーである。農耕社会の生活は作物の豊凶にかかっており、従って季節ごとの農耕儀礼は重要視された。すきの形である「力」にのりとの器をそえて「加」、さらにこれに鼓をそえて「嘉」。虫害は農具に潜む邪気に由来すると信じられ、これを鼓の音で追い払う。日照りが続くと巫女を火あぶりした。「菫」「饉」はその焚巫(ふんぷ)する形である。軍の駐屯地には軍社をおき、大きな肉片「[追からシンニュウを抜いたもの]」を奉げた。敵を追撃する時はこの肉を奉げて「追」う。軍を派「遣」するときも祭肉を携えて出発し、「道」は異族の首を携えて敵地に赴くことを意味する。戦時には巫女が陣頭に立って鼓をならし、虫の呪力を用いた。そのため戦いに勝つとまずこの巫女を殺し、その呪能を真っ先に失わせた。古代の氏族社会は祖霊を中心とした霊的な結合体である。「氏」は氏族が共饗する際に、肉を切り取るのに用いた曲刀とされる。「族」は氏族の旗じるしであり、「矢」はそのもとで族盟がされたことを表す。

東アジアの妖術信仰に相当するものが、毎日目にする漢字に潜んでいるとは驚きだった。白川静は、その漢字の内奥に種々の血なまぐさい呪いや文化を見た。現存する言語や文化の歴史をたどった時、案外我々と「神」や「呪い」との距離はそう遠くないのかもしれない。(鴨)

※白川教授は2006年に逝去

同志社大学 浜矩子の本

『スラム化する日本経済』

経済というトピックは時に厄介だ。経済に関するニュースは新聞やテレビで取り上げられることも多く、我々が「サブプライムローン」、「国債発行額」といった単語を目にする機会は山ほどあるといっていい。しかし、日本や世界における経済の大きな流れが我々の日々の生活にどう関わってくるのかということはニュースに接するだけではわかりにくい。経済に関する情報はあふれるほどにあるが、それらをうまく処理するための情報は十分でない。このことが経済問題を考える上で多くの人にとって障害になるところだ。

本書『スラム化する日本経済』はそんな厄介さを解消する手助けをしてくれる。ニュースで見る大きな経済の世界と、我々の周りの小さな経済の世界とを繋ぐための丁寧な説明は必ずや読者の血肉になるだろう。以下、本書の内容を説明していく。

序章、第1章~第4章、終章という構成であるが、まず序章では、世界同時不況後の「目を背けたくなる経済の数値」が示され、国内外における危機的な経済状況が説明される。IMFの見通しでは2009年の世界全体の実質経済成長率が戦後最悪となるマイナス0・5%であるという。また国内に目を向けると、2兆円を超えることが見込まれていた2008年のトヨタの営業利益は3500億円の赤字に転落しており、2009年3月までで雇止めとなった人の数は15万人を超えているそうだ。

その上で第1章~第4章では、世界同時不況の騒乱の中で忘れられている事柄を思い出すことで恐慌後の未来を透視するというもくろみのもと、世界同時不況直前の世界経済の状況が解説されている。著者によると、中国、インドなどの新興国における需要の増大が日本や欧米などの先進国にも飛び火し、世界的に経済規模の膨張、すなわちインフレ化が進行していたという。また世界的なインフレ傾向の中、原材料費の高騰でモノの値段は上がったが、安価な賃金で働く外国人労働者の流入により、日本を含む多くの先進国では賃金が上がらず、「豊かさの中の貧困」現象が起きていたことも指摘される。さらに「疑似資本家」である投資ファンドの登場や公共事業の民間委託などにより、企業の効率化がますます要求されて労働者が苦境に立たされることになった経緯にも触れている。

終章では世界同時不況後の状況へと話が戻る。全世界的に経済状況が悪化する中で、各国は自国の企業や労働者を守り、他国の商品や人間を締め出して生き残りを図ろうという「自分さえよければ病」にかかっているという。しかし、グローバル化が進み、人間にとっての地球がかつてないほどに「狭い」空間になっている現在の国際社会ですべての国が「自分さえよければ」という行動をとっていては誰も生き残れなくなってしまう。「自分さえよければ」ではなく全員で豊かになるという考えを持ち、自国だけの生き残りに専心するやり方からの脱却が必要であると筆者は主張し、オバマ大統領の就任演説における「豊かさはより多くの人々に共有されなければならない」という一節に希望を託して筆を置いている。

グローバル化が進む現代においては、例えば地球の裏側で起こっていることであってもそれは日本の経済にまで深く関わることとなり、それゆえに世界の出来事に関して我々はもっと関心を持たねばならないというある意味あたりまえのことを痛感させられる。本書の、読み手への配慮にあふれる経済論を読めば、経済の時事問題に対する興味がわいてくることだろう。 (47)

龍谷大学 浜井浩一の本

『犯罪不安社会』

あれは実家に帰省していた時のことさ、テレビでは年末の報道特番をやってた。ちょうどブラウン管には凄惨な一家殺人事件が映し出されていた。Aが「最近はよく分からない理由で簡単に人を殺したりしてさ、すっかり怖い時代になったな。」なんてしたり顔で言うんだ。

根拠の無いAの不安を解くために最近読んだ新書を種本にして言ってやったよ。「あのさあ、チョットはこの『犯罪不安社会(光文社新書)』を読んで勉強しなよ。共著者の一人浜井浩一さんは、龍谷大学の法科大学院教授で刑事政策、犯罪学が専門なんだけれど、客観的な統計を元に『安全神話の崩壊』こそが神話だってコトを証明しているんだ。確かにゼロ年代に入ってから犯罪の『認知件数』は増加する一方で『検挙率』は下落している。これだけを見るといかにも治安が悪化しているように感じるよね。でもこれにはトリックがあるんだ。認知件数はあくまでも警察当局が事件と認定したものの数で、実は00年以降『警察に持ち込まれる案件には積極的に対応するように』っていう通達が警察内部でなされたからそうなんだ。つまり今までなら『事件性が無い』とか『警察の出る問題ではない』とか言って門前払いしていたもの、例えばストーカー、家庭内暴力、ヤミ金対応も全て事件と認知するようになった。隠れていた事件が顕在化した―これが認知件数増加のトリックさ。ただ事件が増えた分、連続窃盗犯に対する余罪の追及だとかが杜撰になったのが検挙率低下の主原因らしい。むしろ最近の犯罪で多いのは、金がないから万引きを繰り返したとか貧困に端を発するものバッカだぜ?町内会で自警団を作るよりも反貧困運動に参加するほうがよっぽど犯罪の芽を摘むことになるだろうね」この時くらいの熱弁を面接会場でも振るえたらどれほど良かっただろうね。

でもAのヤツ、いきなり怒り出してさ「正直言って実際に犯罪が増えているのか、いないのかなんてどうでもいいんだよ!!例え母数自体は減っているのだとしても、犯罪に巻き込まれるって言う不安がある限り防衛策を講じるに越したことは無いじゃん。あんたが理詰めでウダウダ偉そうに語る話よりも、『不審者』を取り締まってくれる警察とか地域パトロールの方がよっぽど私の不安には応えてくれているよ、だから『客観的』な状況説明なんてどうでもいいから私の不安を打ち消してよ!!私のこの漠然とした不安を打ち消してよ!!」と来たもんだ。

あまりにも感情論だったからさ、「ちょ、ちょっと…不審者っていうのはどんな人間なの?ロクに定義も示さないで抽象的な概念をレッテル張りに用いるのは反知性的だよ」ってこっちは冷静に聞いたんだけれど「そんなの『普通じゃないヤツ』に決まってんじゃん。だって『普通じゃないヤツ』が家の周りをうろついていたら危険じゃん。そういう奴に限って凄惨な事件を起こしたりするんだって!!だから少しでもセキュリティーを完備しなければならないのさ」と聞く耳無しさ。

…正直これ以上はいくら言っても無駄だと思ったね。でも、もしAみたいな考えを君も持っているのだとしたら、この本を読むに越したことはないさ。(魚)

京都造形芸術大学 浅田彰の本

『逃走論』

「スキゾ」と「パラノ」という人間類型をご存じだろうか。1980年代に流行った性格診断のようなもので、「パラノ」人間とは家を出る時に鍵をかけたか、火元を消したか、いつも気がかりになってしまうような気の細かい人間のこと。学校に絶対遅刻しない、先生の言うことはよく聞く、というような「真面目くんタイプ」だ。「スキゾ」型の人間とは、そういう面倒な物事は「なるようになれ」とばかりに気ままにやっていく楽天的な人。勉強なんて血眼になってやるよりは、カラオケやボーリングみたいな楽しいことはいっぱいある。そんなあくせく働いて生きたっていいことはないさ、といった風来坊さんが「スキゾ」型。あなたはどちらのタイプだろうか。

センター試験などというものは、人に「パラノ」の型をむりやりあてはめる典型的な儀式といってよいだろう。大人たちからしてみれば、景気はこんな悪くて自分たちは年金払うのも大変だというのに、子どもはカラオケやらボーリングやら遊んでばかりいるというのではけしからん、もっと勉強しなさい!とばかりに、なんやかやと「パラノ」型の人間になるようけしかけてくる。社会は新しい世代が「パラノ」化するよう、内容のない制度ばかり押し付けてくる。

しかし、この本ではそういう「けったいな」制度からはさっさと「逃げてしまいなさい」と囁いてくる。複雑化し先の見えなくなった現代社会で「パラノ」でいることは、過剰な負担となって身体に襲いくる。いつまで続くかわからない通勤生活、会話のない食卓への食事の供給、そして、受かったからといって就職も定まらない受験戦争…。これらは全て資本主義のダイナミズムの中で「逃げ遅れた」停滞の苦しみなのだ、と。

浅田彰が活躍したのは、今では「神話」に近いバブル景気の頃。ただし、景気は良いが、どうも生活は窮屈なまま変わらないという閉塞感が蔓延していた。通勤生活に終わりはなく、街は地上げでどんどん汚く作り替えられ、周りの会話もチープなまま。景気はいいといわれるが、どうも内面的な幸福と結びつかない。そういう時に、資本主義社会が本質的に「スキゾ」型人間を要求しているという「ニューアカ」の主張は大きな注目を受けた。通勤生活も、受験戦争も幻想にすぎない。みんないったん逃げてしまうのがいいのだ。

しかし、それで「スキゾ」化できた人はどれだけいたか。結局のところ、受験や通勤の呪縛は全く解けなかった。一層、今に至って競争は激化し、「格差」は広がっていった。ここには、社会の閉塞が「逃走」するだけでは解けきれない別の解決すべき要因が働いている、と考えられるだろう。浅田が著書内で「靭やかに生きる」と述べているところに、「逃走」がさらにドグマ化されてはならないという示唆があると私は思う。受験戦争の真っただ中の今、「逃走」せずに『逃走論』を読み、着想を得られるような「靭やか」な人材に期待したい。(麒)