企画

発見!探検!京都の通り名 ~京大周辺の5つの通りに迫る~

2024.04.16

京都にはたくさんの通りが存在している。広い通りにはもちろんのこと、細い通りにも「通り名」がついていることは珍しくない。厄介なことに通り名は頻繁に日常会話で使用されている。覚えていないと会話についていけないこともあるかもしれない。そこで、ここでは京大周辺の5つの通りについて、その歴史や名前の由来などから言及する。京都での春からの生活の一助になれば幸いだ。(編集部)

図1 京大周辺の地図(図は全て編集部で作成)



図2 5つの通りの全図



目次

①今出川通 ―身近なようで、意外と知らない?―
②丸太町通 ―古都の跡を訪ねて―
③御蔭通 ―住宅街に沿って走る生活道路―
④東大路通 ―路面電車と共に発展した通り―
⑤白川通 ―急激な都市化を経験した近郊農村の近現代史―
コラムその1 鯖街道(若狭街道)
コラムその2 四条にある三つの駅名の謎

①今出川通 ―身近なようで、意外と知らない?―


銀閣寺前から立命館大学衣笠キャンパスの手前まで至る、市街地北部を東西に横切る幹線道路。少なくとも中世には存在したらしく、当時の北小路に相当する。平安京の北の外れ、現在の京都御苑の北端を通っている。

沿道には京大のほか、同志社大、同志社女子大などがあり、学生街の様相を呈する。吉田キャンパス最寄りの出町柳駅を通過し、北部構内と本部構内を両側に見たあと、下宿先に人気な北白川に達する。通学等で日常的に利用する京大生も多い。西へ目を向けると、菅原道真を祀った北野天満宮が見える。御苑の北方に位置する同志社大今出川キャンパスは足利義満が開基した京都五山の1つ相国寺の跡地。江戸時代幕末には薩摩藩邸が存在していた。応仁の乱のとき西軍方の陣が敷かれた地を示す西陣碑など、歴史的建造物が豊富である。

天正期(1573~92)以前、東洞院通から東京極通(現在の寺町通)へと流れて賀茂川に注ぐ「今出川」と呼ばれる川があり、通り名の由来になった。平安京の造営にあたって人工的に掘られた川である。いったん賀茂川上流に流入した川が分出した際、まるで「今出てきた」ように見えたことが「今出川」の由来と考えられている。その後、都市化に伴って今出川の流路は埋め立てられ、京都市電今出川線の延伸工事に伴い、暗渠化された。

烏丸今出川から100㍍ほど西、室町通との交差点に「足利将軍室町第址」と記された石標が見え、室町幕府の位置を示す。政権の名である「室町」もこの地名に由来する。北小路室町にあることから当政権を「北小路亭」とも呼んだ。荘厳な寝殿造りの建築群のある敷地に賀茂川の水を引き入れ、四季の花々を数多く植えたところから、「花の御所」という呼称も生まれた。

京都に数年身を置いた筆者の実感として、鴨川で生活圏が分断される傾向がある。大学や下宿先がある東側で日常生活が完結する。用事で遠出をする際は、交通が集積していてにぎやかな河原町や京都駅周辺に南下してしまう。その結果、市街地北部を東西に横断する今出川通を総合的に熟知するには意外と時間がかかる。

学生の往来が盛んな現代の今出川通。往時は公家や貴族に愛された通りだっただろう。姿を変えながらも人並みの途切れない目抜き通り。新たな発見を求めて足を運んでみる価値がありそうだ。(順)

「従是東北 足利将軍室町第趾」と刻まれた石碑。これより東北方向は足利将軍の邸宅跡であるという意味。



〈基本情報〉
・区間:銀閣寺町~京福電気鉄道等持院・立命館大学衣笠キャンパス前駅付近
・全長:約7㌔
・沿道の施設:同志社大学、北野天満宮
・私の印象:京大生には馴染みのある道だが、西側まで熟知している人は少ないかも?

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②丸太町通 ―古都の跡を訪ねて―


鹿ケ谷通から長辻通まで東西11㌔㍍を走る丸太町通。その名は運河であった西堀川沿いに材木商が集積したことに由来している。材木町通と呼ばれることもあったそうだが、近世初期に現在の呼び名が定着した。丸太町通は平安京の春日小路に相当し、かつては幅4丈(=約12㍍)であった。また、全長も現在より短く、寺町―大宮間の約2㌔㍍のみであり、大宮から西には平安京の内裏があった。そのため、丸太町通には平安京の重要施設の跡が見られる。

千本通との交差点には平安京朝堂院大極殿があったとされ、平安時代には即位礼や元日朝賀等の国家行事を行っていた。政治も執り行っていたが、職掌ごとに役所を持つようになるとその性格は失われていった。大極殿から西に進むと豊楽殿跡が見られる。平安期は外国からの使者の歓待や大嘗祭、新嘗祭の節会を行っていた。豊楽殿は遷都から遅れて完成。規模が平城京第二大極殿と一致することから、移築された可能性が高いという。

両殿は平安京の中でも大規模な施設であったが、平安時代中期の摂関政治の隆盛などにより、大内裏の衰退が進む。そして、豊楽殿は1063年に、大極殿は1177年に焼失して以来再建されていない。大内裏自体も諸官庁の廃絶により13世紀には荒れ野になった。平安京の遷都から1200年以上が経った今となっては大内裏の面影は感じられないが、その名残は地名に見られる。例えば、主税町は主税寮の跡地であり、西雅院、陰陽寮、中務省の跡地は中務町となっている。

千本通から烏丸通まで東へ歩くと、京都御所にたどり着く。内裏の衰退後に、里内裏(内裏外に仮に設けられた御所)の一つであった土御門東洞院殿が大本であり、信長、秀吉らによって幾度か拡張された。御所の周りには町屋が公家屋敷とともに存在していたが、江戸中期の宝永の大火以降に町屋は二条川東に移転した。明治の東京奠都以降には公家屋敷街が荒廃したが、保存事業により公園化され、今日の京都御苑となる。現在御所と御苑を合わせて面積は92㌶。御苑内は緑に恵まれ、春には梅や桜、秋にはイチョウや紅葉を楽しむことができるほか、かつての公家屋敷も見学することができる。東山や嵐山に比べると人の流れも穏やかであり、優雅に古都らしさを満喫できるだろう。オーバーツーリズムに疲弊した京都では貴重なオアシスである。(輝)

京都御苑堺町御門



〈基本情報〉
・区間:長辻通~鹿ケ谷通
・全長:約11㌔
・沿道の施設:熊野神社、京都御所
・私の印象:御苑沿いの歩道は信号が少ない。烏丸方面への急ぎの用事がある時はよく使う。

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③御蔭通 ―住宅街に沿って走る生活道路―


下鴨神社から比叡山へと続く志賀越道の約2㌔を東西に結ぶのが、御蔭通だ。京大北部キャンパスの北に位置する御蔭通は、下宿生が多く住む北白川や元田中にほど近いため、通学路として馴染みのある人も多いだろう。

現在通りの周辺には所狭しと住宅が立ち並ぶが、1913年の地図を見ると、現在では北部キャンパスがある場所も含めて田んぼが広がっていたことがわかる。1918年には、御蔭通が位置する田中村や白川村、下鴨村などが京都市に編入された。京都市は、新市街地にも道路を整備する計画を進め、1924年には「銀閣寺を起点として、京都帝大農学部の北を田中町に西進し、下鴨神社を通って下鴨本通に合する」八間幅(約14㍍)の道路を整備することを決めた。これが現在の御蔭通である。

通り名は、通りの西端が御蔭祭の神幸の道筋にあたることに由来すると伝わる。この祭は、京都三大祭の1つである葵祭の前に行われ、御蔭神社から「神霊」を迎える。ただ、1980年に作成された京都市都市計画の地図には「田中通」との記載が見られ、80年以前は名称が統一されていなかった、もしくはその後名称が変化したことが推測される。

下鴨神社を過ぎて高野川を渡り、道なりに進むと叡山電車の踏切と交差する。基本的に東西真っすぐに伸びるが、この踏切近くでは大きく曲がっている。ここから田中里ノ前の交差点の辺りまで、道沿いに飲食店が並ぶ。東大路通を横切ると、目に入ってくるのは戸建ての住宅や学生向けのアパートばかりだ。農学部グラウンドを過ぎて白川疎水と交差する辺りから、少しずつ勾配が上がり、起伏が激しくなってくる。御蔭通の長さは他の通りより長くはないが、高野川から白川の扇状地への勾配の移り変わりを実感することができる。

御蔭通は、周辺住民や大学生が行きかう生活道路として機能する。また、下鴨神社や田中神社、北白川カトリック教会、北白川教会と宗教施設が多く立ち並ぶことも特色の1つだ。境内には緑が豊かに生い茂っており、かつての農村の雰囲気を醸し出している。(史)

〈基本情報〉
・区間:下鴨本通~北白川仕伏町
・全長:約2㌔
・沿道の施設:下鴨神社
・私の印象:目立った特徴に欠けるが、生活するには便利。

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④東大路通 ―路面電車と共に発展した通り―


百万遍から京大ルネを通過して吉田寮の西側を通る。京大生がよく利用するこの通りは「東大路通」と呼ばれる。東大路通の登場・発展には、1895〜1978年に京都の町中を走っていた路面電車が大きく関わっている。

路面電車は▼琵琶湖疎水の開通で十分な水力発電が可能となったこと▼1895年の平安遷都1100年記念祭と内国勧業博覧会の訪問客の輸送手段を確保する必要性▼記念祭・博覧会を成功させたいという政府関係者や京都市民の期待等を背景に導入が決まった。1895年には、民間会社の京都電気鉄道会社が日本初の路面電車の営業運行を開始した。路面電車の走った道は整備が進んだが、特に洛外には細い道が乱雑としていた。「道の狭さが市の発展を阻害する」。1905年の市部会の意見に端を発し、市は本格的な道路整備に乗り出した。時の京都市長・西郷菊次郎は巨額の道路整備費用を外債で募り、整備した道に市電を通してその収益を出資者に返還することを考案。07年の市会での議決に至った。この際、八坂神社の西側を南北に走る東山通(現在の東大路通の別称)の設置、並びにその道を走る市電(東山線)の開通が確定した。

1911年時点では八坂神社の周囲は住宅が密集し、多くの細道が入り乱れていた。だが市電敷設のため、祇園から白川まで向かう祇園広道(小堀通)等の旧道が拡幅され、特に疎水周辺では住宅地を貫く新道も開削された。こうして1912年、東山三条~馬町間で東山通・東山線が開通した。

東大路通は開通後も東山線と並行して延伸され、13年には丸太町まで、大正末期から昭和にかけて百万遍まで開通した。京大北部、とりわけ一乗寺から修学院にかけて広がっていた田んぼを道路へ転用していき、70年代半ばには現在と同区間の道となった。なお、東山線の開通後、比較的早い段階で西大路通・北大路通に準じた通り名として「東大路通」と制定されたという。

市電と共に誕生した東大路通。78年の市電の運行終了後も、北部は京大や京都工芸繊維大学に向かう学生で、南部は祇園や清水寺、東福寺に向かう観光客で連日賑わいを見せている。特に祇園周辺では渋滞が起きることもしばしば。これからも人々の移動を支えるに違いない。(郷)

「東一条電停」付近を走る市電。奥には京大の時計台が見える(撮影時期は1970年代と推定/京都市交通局所蔵)



〈基本情報〉
・区間:修学院~九条通
・全長:約8㌔
・沿道の施設:京都大学、八坂神社
・私の印象:京大から北に向かい緩やかな上り坂が続く。高野や一乗寺から通う者には若干厳しい道だ。

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⑤白川通 ―急激な都市化を経験した近郊農村の近現代史―


比叡から東山に連なる山稜の裾を南北に貫く白川通は、昭和初期から整備された比較的新しい道だ。

分譲住宅やマンションが延々並ぶ今の町並みからは想像もつかないが、北白川や修学院のあたりはもともと田畑が広がる農村だった。雲母坂や志賀越道などの古い街道を除けば田んぼのあぜを通る細道ばかりで、昔から栄えた京のそばにあるわりに交通の便が悪かった。そこで、この地域を南北に結び岡崎へ至る幹線道路が、いまの神楽岡通を南北に延ばす形で計画された。後になって計画が変わり、もっと幅の広い通りをやや東寄りにつくることになった。22㍍の幅員から「十二間道路」と呼ばれたこの道が、現在の白川通である。

一乗寺まで北上すると建物の合間に田畑も見えるようになる



白川通の整備は周辺の開発と軌を一にしている。いち早く整備が始まったのは、宅地化が早くから進んだ北白川周辺だ。もともと石材工業を初めとする産業が盛んだったこの地域では、農業の副業的性格が強かったため、全国ではまだ農業が主流の明治期に、現在の小倉町周辺の田畑を、鐘紡系の企業「絹綿紡績」の工場用地として提供した。土地の所有が村民から村外の企業に移り、当時の白川村は外部からの税収で潤った。しかし第一次世界大戦後の不況を背景に工場建設計画は中止され、急増していた京都市の人口の受け皿となる住宅地を開発することになった。

1931年から販売された「北白川小倉町住宅地」は幅6㍍の街路に面した各100坪の区画がならぶゆとりのある町で、住環境を好んで医師や学者といった富裕層が暮らす高級住宅街となった。この町割をひな形として、34年から周辺の区画整理が進む。この軸となる通りとして建設されたのが北白川の「十二間道路」だ。将来の交通量増加を見越して交差する道路を減らす設計は、現代のニュータウンにも通じる先進的なものである。

第二次世界大戦期に入ると、他の区間でも整備が進んだ。今出川から南、丸太町までの区間は1937年の開通だ。両端には路面電車の停留所があり、その間を結ぶ白川線が計画されていた。電車は道路の開通から17年後の54年に開業し、現在は市バスの車庫になっている市交通局の錦林車庫も同時に完成した。

東鞍馬口通より北、北山通までの完成は、一乗寺や修学院で市街化が進む1960年頃まで待たなければならない。今ではすっかり京大生の下宿先として定着したあたりが、高々70年前まで純然たる田園地帯だったというのはにわかには信じがたい。70年代にモータリゼーションが進むまではたまにバスが通る程度の交通量しかなく、農家の牛が渡るのんびりした光景もみられたそうだ。

今出川通から北山通までの区間は、中央分離帯にケヤキ並木が続く。白川通のシンボルとも言えるこの並木は遅くとも1960年代までに整備され、現在の樹高は高いもので12㍍に及ぶ。上下車線を覆うように大きく広がったケヤキの枝が夏になると青々と葉を茂らせ、緑豊かで落ち着いた雰囲気を演出する。

まっすぐ伸びる道路の真ん中にケヤキの並木が続く



1980年代になると、周辺の開発やバブル景気を背景に、お洒落なレストランが軒を連ねるようになった。77年の芸術短大(現・京都芸術大学)の開校もあいまって、沿道には個性的な店が集まり、北山通とともに京都のファッションストリートとして知られるようになる。週末になると個性的な店をめあてに府外から訪れる人もいたらしい。今の白川通はスーパーやチェーン飲食店が目立ち、生活至便なイメージが強いものの、フランス料理店や雑貨店なども点在しており、今もハイセンスな雰囲気が漂う。ただ、北に行くにつれて閉店したガラス張りのお店がいくつか見られ、全盛期を過ぎてしまった感は否めない。

白川通の歴史は周辺の都市化の歴史と密接に結びついている。この通りの整備にあわせて沿道は急激な都市化を経験した。例えば北白川の人口、世帯数をみると、1930年で6千人、1千世帯だったところ、宅地開発に伴って戦後の55年には1万3千人、3400世帯へと膨れ上がった。2020年現在、人口は1万まで減少したが、学生向けワンルームマンションの建設や核家族化によって世帯数は5900まで増加している。

のどかな農村の風景は失われたものの、伝統や歴史を感じるスポットが今も多く残るのは沿道の大きな魅力だ。この地域は修学院離宮や慈照寺に代表されるように、京都盆地の東縁をなす山々の懐に抱かれて、古くから皇族や公家、武士や文人が遊んだ里である。漢詩人の石川丈山が過ごした詩仙堂や、作家谷崎潤一郎が眠る法然院など、見どころは枚挙にいとまがない。鷺森神社や北白川天神といった地域の神社では、住民によって祭祀の伝統が大切に守られている。パターン化された観光によって消費されつくした「京都」に嫌気がさしているなら、近代的な町並みに文化と伝統が息づく白川通界隈の散策は絶妙な「味変」になるはずだ。ぜひ訪れてほしい。(汐)

湾曲した意匠が特徴的な店舗。以前はBGMや料理を芸術家がプロデュースする個性的なレストランだった



〈基本情報〉
・区間:宝ヶ池通~仁王門通
・全長:約6㌔
・沿道の施設:京都芸術大学、天下一品総本店
・私の印象:定番のライフ、フレスコ、生鮮館はもちろん、左京区では希少な業務スーパー、サンディ、イオンスタイルもあり、普段の買い物には困らない。

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コラムその1 鯖街道(若狭街道)


京大吉田キャンパスの最寄り駅「出町柳」。大阪方面へ向かう京阪電車と、北部の山々へと向かう叡山電車の終着・乗換駅として、多くの人が利用している。駅のほど近くでは、北部の山奥からやってきた2本の河川が「Y」の字のように合流し、「鴨川」になって南進する。この一帯は古くから交通の衝に当たる場所だった。

この場所が栄えた地理的要因はさておき、ここではひとまず「若狭街道」を紹介したい。この道は、出町から高野川左岸と並行して北東方向にのび、八瀬・大原を経て、山の奥へ奥へと進み、最終的に若狭へと続いていた。若狭は古代より豊かな海産物を都に送り、「御食国」として都の食文化を支えていたという。特に鯖の運搬が有名なこの道は「鯖街道」の異名を持つ。若狭から運ばれる鯖は都に着く頃にちょうどいい塩加減になる、と記した文書も見つかっている。若狭と都を結ぶ道はいくつかあったが、若狭街道はそのなかでも最大の物流量を誇ったそうだ。

かつての若狭街道を少しだけ歩いてみた。スタート地点は、出町橋西詰。ここに「鯖街道口」の石碑がある。川を渡って叡山電車の出町柳駅付近に出て、川端通を北に向かう。御蔭通で右に曲がり、一本東に入ると、少し幅の広い道路がある。案内表示があるわけではないので、これがかつての街道だと知っている人は、地元民でも意外と少ないかもしれない。

「鯖街道口」の石碑=出町橋西詰



道沿いには住宅のほかに、昔ながらの和菓子屋さんや料理屋さんがポツリポツリとある。最近できたとみえるお洒落なカフェもある。左京図書館、洛北阪急スクエア(ショッピングモール)、左京郵便局を傍目に進み、下鴨神社の境外摂社である賀茂波爾神社(赤の宮神社)の鳥居の前を通る。修学院駅の近く、北山通との交差点には、「大原通」と書かれた小さな標識がある。確かにスマホの地図では「大原通」と表示されているから、今はそう呼ぶのだろうと納得した。もう少し進んで川端通に合流し、老舗料亭の「平八茶屋」を見つけたら引き返すのが賢明だ。このまま進むと、若狭まで行ってしまいそうだから。(扇)

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コラムその2 四条にある三つの駅名の謎


ここでは、四条にまつわる3つの駅に注目する。四条烏丸にある阪急電車の「烏丸」駅と地下鉄烏丸線の「四条」駅、そして祇園にある京阪電車の「祇園四条」駅だ。近接する2駅と同じ通り沿いにある祇園四条駅は同じ四条にある。それにも関わらず、どうして駅名は異なるのか。その謎を解く鍵は、京都の住所表示方法にある。

洛中(京都市中)では住所の表示にルールがある。第一に、碁盤目状になった東西・南北の2つの通りのうち、面する方、もしくは人通りの多い方から呼ぶ。この際、先に呼ぶ通りには「通」をつけなければならない。例えば上の図3だと、四条通烏丸といった具合だ。第二に、交差点をどの方角に進んだかを示す。東なら「東入」、西なら「西入」、北なら「上ル」、南なら「下ル」と表す。以上を踏まえると、下の図3の赤丸の指す地点は「四条通烏丸東入」と表記される。全てに該当する訳ではないのだが、このルールは広く利用されている。

図3 四条烏丸の地図
(参考:五島邦治 編『京都の歴史がわかる辞典:読む・知る・
愉しむ』(2005年、日本実業出版)、pp.277-278)



阪急電車は四条通の地下を、地下鉄烏丸線は烏丸通の地下を通っている。そのために上述の表記法を採用すると、阪急では「四条〇〇」、地下鉄では「烏丸〇〇」といった駅名が連なることになる。これでは煩雑で却って分かりにくい。そのため、阪急では四条、地下鉄では烏丸を省略した駅名を採用したという。

では、なぜ京阪電車は「四条」ではなく「祇園四条」なのか。京阪は地下鉄と同様に南北を貫く通り(川端通)に沿って走る。そのために、東西の通り名に順じて「四条」とするべきではないか、と思う読者もいるかもしれない。実は川端通沿いを走る京阪も、以前は地下鉄と同様に、東西の通り名に順じて「四条」という駅名だった。だが、京阪の職員によると、同名駅が離れているために、観光客から「紛らわしい」といった声が寄せられていたという。2008年、京阪は中之島線開通のタイミングで「四条」を「祇園四条」に改名し、地下鉄との区別を図った。

以上のため、阪急は「烏丸」、地下鉄は「四条」、京阪は「祇園四条」という名を冠することになった。

余談だが、京阪は他にも同時期に「五条」を「清水五条」に、「丸太町」を「神宮丸太町」と改名した。地下鉄と同名でなかった「三条」「七条」は改名せず、現在までその名を残している。(郷)

阪急 烏丸駅と 地下鉄 四条駅 の入り口



京阪 祇園四条駅 の入り口



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