複眼時評

中村唯史 文学研究科教授「羅針盤が失効した世界で」

2024.02.16

大学1年の秋に「歴史はもう終わったんだ。これから後は今のような世界がずっと続くのだろう」という友人の言葉を印象深く聞いた記憶がある。その頃の日本は「一億総中流」とも呼ばれた比較的平等な社会で、国際情勢は米ソ両超大国、東西陣営が対立したまま均衡を保っていた。40年前の私には世界は揺るぎなく固定した構造であり、社会は息苦しい秩序で、順守すべき規範や倫理が上から肩にのしかかっているように感じられた。その数年後からペレストロイカが始まり、天安門事件やベルリンの壁の崩壊、ソ連邦の解体と続き、21世紀にかけて世界も日本も流動化していくことなど、当時は予想もしていなかった。まして今日のような、温暖化の危機が叫ばれているのにどの国も機関も有効な対策を打てず、建前としてすら大義のない排撃や侵攻や流血に歯止めがかからない混沌とした世界の到来は想像すらできなかった。

精神分析の方法を用いて20世紀後半に活発な批評活動を展開したラカン派は、人間は世界を「想像界(個々の私的な生活や感情の場)」、「象徴界(社会的な秩序や規範、イデオロギー等の審級)」、「現実界(人為的な秩序が通用しない自然や世界そのもの)」の3つに分けて認識すると考えていた。このいわゆる「三界説」を用いるなら、私が大学生の頃は、象徴界(言語化された規則や不文律の規範)が個人や、あるいは民族や国家などの集団を外側から強く律していた時代と言えるだろう。対して、冷戦終結後の世界に生じたのは、思想家の東浩紀(あずま・ひろき)が早くも20世紀末に指摘していたように、象徴界の弱体化である。自分たちを抑制していた約束事が力や権威を失ったため、人間の集団はみずからの主観や都合を優先して動くようになった。大義や正当化すら必要としない、むきだしの暴力が今日の世界を徘徊している。

日本では今、教育の実学化が唱えられている。一人一人が確固たる生活の基盤を持ち、社会に有益な働きをするのはもちろん大切なことだ。社会学者のマックス・ヴェーバーは、既定の目的を実現するために最適な道筋を見いだそうとすることを「目的合理性」と呼んだが、今日の教育はこれを重視しようとしているのである。日本だけでなく、現代世界全体の傾向だ。

ただし目的合理性は、あくまでも既定の目的を実現するためのものであり、目的それ自体の探求ではない。めざすべき目的が失われたときには、目的合理性も方向性や基準を失い、迷走する。そして私たちが生きているのは象徴界が弱体化した世界、価値判断の基準となる秩序や規範が希薄になった時代なのである。

私は1990年から92年までモスクワ大学に留学していたが、そのあいだに目にしたのはペレストロイカの自由化の末に混沌に陥った社会であり、価値の基準を喪失して苦しむ人々だった。1990年のに勤労者の平均月収だった370ルーブリで2年後にはせいぜいウォッカ1本しか買えなくなったほどの急激なインフレと、この国を律してきたソ連イデオロギーの失墜のなかで、金銭を第一に考える拝金主義に陥ったり、民族意識や宗教に帰依したりする人も少なくなかった。だが、なおも尊厳を保ち、自律的に生きようとする人びともいたのである。

たとえば、ある日乗ったタクシーの運転手だ。私はその日、古本屋で大量の本を買いつけたところだったが、運転手は車を大学寮の前まで走らせると、こちらが頼んでもいないのに書籍の束をいっぱいに抱えて、一緒に7階の部屋まで階段を上ってくれた(寮のエレベーターはもう半年以上稼働していなかった)。だが私がその分の労賃を払おうとしても、彼は拒んだのである。自分の仕事はタクシーで乗客を運ぶことだ、その正当な代価はもちろん要求するが、書籍の運搬を手伝ったのは、自分が愛するロシア文学を遠い国から来た君が研究しているのがうれしいからで、個人的な感情によるものだから代価をもらういわれはないというのが彼の論理だった。「尊厳」という言葉に行き会うと私はよく、経済的に苛酷な状況の中でも仕事の意義と範囲を自分で定め、頑なにそれを実践していた、あの理屈っぽく誇り高い初老の運転手を思いだすのである。

くり返しになるが、目的合理性は重要だ。しかし現代を生きる若い世代にはやがて、マックス・ヴェーバーの対概念である「価値合理性」(価値基準と目的を自分自身で定める能力)をも必要とするときが来るだろう。言動の指針や判断基準たる社会秩序や規範の失効は、思いのほかのスピードで生じるものだ。私が経験したソ連末期の混沌は、概して成功裏に終わったモスクワ・オリンピックからわずか10年後のことだった。

価値合理性の実現のためには、わかりやすいが一方的な説明や、複雑なものを単純化したレッテルを感情的に受け入れるのではなく、むしろさまざまな異なる立場からの情報や見解、言葉やデータを対比して読み解き、自分自身の論理で思考しなければならない。羅針盤が失効した世界を生きる若い世代には、ぜひ大学という場で目的合理性とともに、価値合理的な思考と、そのために必要な知識や技術も習得してもらえたらと思う。

中村唯史(なかむら・ただし)
文学研究科教授