複眼時評

石岡学 人間・環境学研究科准教授「厄介な〈青春〉を読み解く」

2024.01.16

のっけから宣伝のようで恐縮だが、この記事が出てからそれほど遠くない時期に、『みんなの〈青春〉―思い出語りの50年史―』と題した私の新著が、生きのびるブックス株式会社より刊行される。1970年代から現代にかけての青春をめぐる「語り」を読み解いた、“青春の歴史社会学”とでも言うべき作品である。とはいえ、お堅い学術書の体裁はとっていないので、ご興味のある方は読み物感覚で是非気軽にご一読願いたい。

ところで、そもそもなぜ私は青春など研究してみようと思ったのか。それは、青春が「良きもの」として過剰な意味を持たされ、その良きイメージが世の中に氾濫していることへの違和感に端を発している。しかも、それは単なるイメージであるにとどまらず、自らの現実の青春が有意義か否かを評価する参照枠にもなっている。つまり、イメージと現実を行き来しながら、青春は青春期をどのように生きるべきかについての規範であり続けており、若者に対する社会的視線のありようを象徴するものなのである。(その内実が時代によって変化していくさまがとても面白いのだが、詳しくはぜひ拙著を)。「教育」という営みが成立する上で不可欠な、「未熟な存在」としての子ども・若者カテゴリの構築性を問い直してきた私としては、この問題にいつかは取り組みたいと長年思っていた。ようやくそれを1つの作品にまとめることができたわけだが、とはいえ、青春は非常に大きなテーマなので、今はまだ素描ができたに過ぎない程度だと思っている。これからも、もう少し「青春」の問題を追究していきたい。

と、ここまでやや格好つけて書いてきたが、本当の発端はもっと情けないものだ。要するに、自分が学生だったころ、充実した青春時代を送れているような気があまりせず、「これは一体なんなのか、なぜなのか」という思いをずるずると引きずってきた結果として、中年になるまでこのような関心を持ち続けてきたというのが正しい。ただ、拙著を執筆していく中で面白かった(かつ救われた)のは、似たような思いを吐露する「語り」が想像以上に多かったことである。そして、そういった青春への不満・憤懣が、青春コンテンツを生み出す原動力になることがしばしばあるというのも、興味深い発見であった。何といっても、私自身がそのような青春へのマイナス感情を種にしてこのような本を書いたのだから、そのパターンにぴったりとはまってしまっている。楽しかった、充実していたという人よりも、そうでない人の方が青春に囚われるという傾向。青春は厄介なものだとつくづく思うが、こんなところにもそれがよくあらわれていると思う。

こんな話を「青春の当事者」である大学生にしたらどういう反応がくるのかと思い、今年度の授業で3・4回生に「自分はいま青春時代にいると思うか?」と尋ねてみた。すると、「もう終わった」と答える学生が多く、これはけっこう意外であった。「制服がない」「サークルを引退した」「高校時代の方が楽しかった」など理由はさまざまであったが、総じて「最も学生らしかった頃」との比較で自己評価していたように見受けられる。実は、現代の青春においては、生き方の内実云々よりも、青春を象徴する記号としての「学生生活らしさ」が重視されるようになってきたということも拙著に書いたのだが、この学生たちの自己評価もそれを反映しているように思われ、なかなか興味深いものだった。

それなら自分はどうだったのかと改めて振り返ってもみたのだが、それでふと思い出したことがある。私の中学・高校・大学(学部)時代はほぼ1990年代と重なっているのだが、執筆にあたっての資料を集めていく中で、この時代の青春をめぐる「語り」が案外見つけにくかったのである。(単に調べ方が悪いだけかもしれないが…)。1990年代といえば、概説的には長期にわたる平成不況の始まった時代であるとか、1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件などを境に時代が大きく転換したことを強調するものが多い。また、特に90年代後半は「少年犯罪の増加・凶悪化」が叫ばれ、青少年の「心の闇」が問題視された時期でもある。全般的に日本社会に沈滞ムードが強まっていく中で、1990年代の青春とはどういうものだったのか、実は意外にわからないことも多い。自分自身が過ごした青春時代を研究の対象とするのはなかなか難しい面もあるが、すでに30年近くが経過し「平成レトロ」などと過去化されつつある1990年代の青春を、いずれ本格的に研究しなくてはならないだろうと最近は考えている。

石岡学(いしおか・まなぶ)
人間・環境学研究科准教授。専門は教育史、歴史社会学