企画

現代に蘇る徒然草 「仁和寺にある法師」の旅 仁和寺→石清水八幡宮 約20km

2023.11.16

「仁和寺にある法師」から始まる『徒然草』の一節。仁和寺の法師が約20㌔の里程をはるばる歩き、念願の石清水参詣を果たしたものの、拝殿のある男山山上に行くことなく帰ってしまったという逸話は、中学の教科書でも紹介されあまりに有名だ。今では電車を乗り継ぎ1時間ほどの道のりだが、時間のある学生のうちに、兼好の語り草になった法師の徒労をあえて体験してみようと思い立ち、徒歩で向かうことにした。(編集部)

今回の道のり

京都市右京区の仁和寺から八幡市の岩清水八幡宮までを徒歩で移動した。原典に言及がないことから、法師がとった経路の再現は断念した。

踏破した編集員は3名(汐・鷲・輝)。送迎のため、2名の編集員(史・爽)が京都と八幡の間を自動車で移動したが、踏破の達成感を分かち合うべく京都市南部の淀で合流し、終盤のみ歩いた。

当初の予定では、踏破後に岩清水参詣を行うところであったが、沿道のスポットに立ち寄りながら歩いたため、到着が日没を過ぎることが見込まれた。このため、自動車組の2名が日中に八幡宮に参詣・取材することとなり、徒歩組は図らずも「山までは見ず」、極楽寺(跡)・高良だけを拝んで帰ることとなった。


格式高い仁和寺からスタート


旅の始まりは仁和寺の二王門。秋も深まる霜月の上旬、午前9時前でもまだ朝の気配が残っており気持ちのよいスタートだ。仁和寺は第58代光孝天皇の勅願で888年に創建され、江戸時代の末まで皇室出身者が住職をつとめる門跡寺院として栄えた。壮大な門には見る者を圧倒する威厳があり、格式の高さを感じる。

およそ20㌔南の石清水を目指し、二王門を背に南へ歩みを進める。道沿いは和風の邸宅がならぶ落ち着いた佇まいだ。一帯は歴史的な門前町かと思いきや、古刹の景勝と閑静な環境を売りに戦前に分譲された住宅街だそうで少し意外だ。言われてみると確かに、広く整然とした区画からは近代の整地のあとが見える。

江戸初期に建立された二王門。平安期の伝統的な意匠「和様」で統一された美しい門だ



兼好の暮らした双ヶ丘


嵐電の御室駅越しに、標高116㍍の双ヶ丘が顔を覗かせる。この丘の周辺はかつて小院が建ち並ぶ仁和寺の寺域であった。16世紀成立の『実隆公記』では双ヶ丘東麓にあった浄光院を「兼好法師旧跡」としている。徒然草に仁和寺の話が多いことからも、兼好法師は執筆当時この一帯に居を構えていたと考えられている。

浄光院は現存しないが、近くの長泉寺にいまも「兼好法師舊跡」の碑があり、境内には兼好の墓がある。兼好は生前「契りおく花とならびの岡のへにあはれ幾世の春をすぐさむ」と、この地での永眠を望む和歌を残しており、念願叶って双ヶ丘に眠っているようだ。我々が訪れた時は門を閉ざしており、残念ながら墓参は叶わなかった。

兼好の墓がある長泉寺。双ヶ丘東麓の住宅街に溶け込むように建っている



侵蝕されず残った双ヶ丘

平坦な京都盆地の中にあって、標高100㍍前後の丘陵が連続する双ヶ丘は、海原に浮かぶ島と同じでよく目立つ。双ヶ丘のように平地にぽつんとある丘陵を「孤立丘」と呼ぶ。

孤立丘は様々な要因でできるが、双ヶ丘の場合はその地質が関係している。国土地理院の地質図を見ると、この丘の麓にあたる御室・花園一帯が250万年前以降の堆積物からなるのに対し、双ヶ丘の場所はそれより2億年以上古い、古生代のチャートが残っている。チャートは非常に硬く、風化や侵蝕に対する抵抗力が大きい岩石である。双ヶ丘の周りは侵蝕の作用を受け削られていったのに対し、チャートからなる双ヶ丘はあまり削られずに残った。この結果、平地の中にぽつんと丘陵が残る現在の地形が出来たと考えられる。

双ヶ丘周辺の地質図。双ヶ丘に相当する地域が、チャートを示す橙に塗られている
出典:5万分の1地質図幅「京都西北部」(井本伸広、清水大吉郎、武蔵野実、石田志朗、1989、産総研地質調査総合センター)国土地理院ウェブサイトから取得(https://maps.gsi.go.jp/#14/35.033223/135.684659/&base=std&ls=std%7CgsjGeomap_G50_11_027kyoto-wn&blend=0&disp=11&lcd=gsjGeomap_G50_11_027kyoto-wn&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m)



平安京の外縁を南下する


しばらく南に進むと、これまで横目に見えていた双ヶ丘の緑が途切れ、山陰線のガードの先は住宅や工場が密集した風景が続く。細い路地や植え込みの中に時折ネコが姿を見せ、単調な景色にアクセントを加える。長丁場に挑む一行は愛らしい姿に大いに和んだ。

住宅街を抜けて御室川沿いを進む。水害対策なのか、大規模な改修をうけて直線的な川はコンクリートの水路といった様相で、法師が見たであろう往時の風情は知る由もない。左岸は生活道路だが、右岸は高雄や京北に抜ける国道で車通りが絶えない。車なら仁和寺から10分ほどか、と弱気なことを考えてみるが、ここでようやく全体の10分の1ほど。まだまだ道のりは長い。

御池通と交差するのは?


御室川が天神川と合流した少し先で、道は東西に伸びる御池通と交差する。ここを右に曲がって西に進むと変わった交差点があるらしく、寄り道することにする。案内標識によれば、御池通は先の丁字路で行き止まり。交差するのは南北の通りかと思いきや、東西に伸びる「三条通り」とある。ここ「三条御池」の交差点は東西に平行するはずの2つの通りが交わる珍しい交差点だ。

この交差点が、「南北の通り名+東西の通り名」からなる京都の交差点名の常識を逸脱しているのは、三条通りがカーブしているため。原則東西または南北に伸びる京都の通りだが、蹴上から西に伸びる三条通りは、平安京の西端にあたるこの辺りで、終点・嵐山をめざして北西に進路をとる。もともと御池通りとの交差点はなかったが、2008年の太秦天神川駅開業に伴って御池通りがまっすぐ延伸された関係で、「三条御池」の交差点が誕生した経緯がある。(汐)

平行するはずの通りが斜めに交差する三条御池交差点



庚申信仰と猿田彦大神


三条御池から南東に進み天神川を渡ると、石造りの鳥居と「猿田彦神社」の社号標が目に入る。金剛寺、尊勝院と並んで京都三庚申の一つに数えられる山ノ内猿田彦神社だ。鳥居をくぐり境内を見渡すと、至る所に猿の像がみつかる。中には見ざる言わざる聞かざるの三猿像も飾られ、絵馬にもその姿を見ることができる。御祭神の猿田彦大神は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊が地上へ降臨する際に道案内をしたことから、学業や仕事をよい方向へ導く道開きの神として祀られている。

平安時代、最澄が座禅のために霊窟を探していたところ、猿田彦が現れてこの地を示したため、座禅石の傍らに猿田彦を祀ったことが本社の始まりとされる。後世、後嵯峨天皇の行幸の際にも猿田彦が道案内をしたことがきっかけとなって、天皇の命により社殿が建立されたといわれる。

もともと猿田彦は道祖神として祀られてきたが、「猿」が「申」に通じることから庚申信仰と結びついた。江戸時代、60日に一度の庚申の日には、猿田彦や青面金剛の軸を掛けたり七種の供物を捧げたりして夜を明かし萬福招来を祈願する「庚申待」という風習があった。

一行が神社を訪れたとき、境内は閑散としていた。しかし現代においても、庚申の日には多くの参拝者でにぎわうという。古くからの信仰が現代にも受け継がれていることに思いを馳せながら、三条通を東へ進んだ。

猿田彦神社の石鳥居



庚申信仰とは?

庚申信仰とは、道教や神道などさまざまな信仰・習俗が習合した複合的な信仰である。道教の説く「三尸説」によると、庚申の日の夜、人が眠りに就くと体内に住む「三尸」と呼ばれる3匹の虫が身体から抜け出し、その人の悪行を天帝に報告し寿命を縮めてしまうので、これを防ぐために徹夜をするという風習があった。これを「守庚申」というが、日本に伝来するといつしか元の意味が忘れられ、やがて名前も「庚申待」に変わり、江戸時代には村落全体で夜通し酒盛りをする宴会へと変わった。ちなみに、青面金剛はこの三尸を抑える神とされ、庚申待の本尊として祀られている。

九十年の歴史をもつ運動公園


少し歩くと大きな通りに出た。葛野大路通だ。コンビニ、ドラッグストア、ファストフード店などあまり変わり映えのない風景を横目にひたすら南へ進む。葛野大路花屋町の交差点で西に曲がり、西京極駅を通り過ぎて天神川を渡ると西京極総合運動公園に出る。仁和寺から約4㌔。一行はベンチに腰掛けしばし休憩をとった。

西京極総合運動公園は、昭和天皇のご成婚を奉祝する記念事業の一環で、京都市運動場として1930年に建設が開始された。42年には陸上競技場兼球技場や野球場など主要な施設が完成し、公園が開設された。46、88年にそれぞれ第1回、第43回国民体育大会の開催地となった。陸上競技場兼球技場は「たけびしスタジアム京都」と呼ばれ、2019年まで京都サンガF.C.のホームスタジアムとして使われた。

野球場の前に何やら野球選手らしい人物の銅像があったので近づいてみると、それは衣笠祥雄の銅像だった。衣笠は2215試合連続出場という偉業を達成したことで知られる広島カープの野球選手である。その功績が認められ、1987年には国民栄誉賞を受賞している。この銅像は彼の偉業を称えるために中学時代の同級生らによって建てられたもので、台座には衣笠の自筆で「限りなき挑戦」と書かれている。服のしわまで細かに再現されて迫力があり、なかなかの存在感を示している。衣笠の銅像に見守られながら少年たちがスタジアムへ入っていくのを尻目に一行は公園を後にした。

衣笠祥雄の銅像。2022年4月に完成した



御室川治水碑


ここで葛野大路通に戻る手もあったのだが、せっかく歩くならもっと細いローカルな道を歩きたいということで、1本西を走る「ほほえみ通り(西京極商店街)」を行く。通りの名前を示す看板は、京都サンガのクラブカラーである紫色だ。和菓子屋や飲食店、理髪店などがひっそりと立ち並び、ゆっくりと時間が流れている。

数百㍍の通りを抜けて交差点に出る。東から伸びる七条通が二股に分かれている。西へ伸びる方は一部重複しながら葛野西通へと名前を変えて西京極総合運動公園の西側へ走り、南西へ伸びる方は2度大きく曲がって桂川に平行な道となる。

南西へ伸びる方の道へ進むと、すぐに大きな石碑が目に入った。第3代京都府知事・北垣国道の筆で「治水碑」と書かれたその石碑には、京極村、梅津村、西院村、吉祥院村の村長らが名を連ねる。碑文によると、明治30年代、大雨による氾濫で田畑が水浸しになるのを防ぐため、御室川の治水工事を流域4村が協力して行い、その記念として石碑が建てられたという。石碑の建つこの地は、当時工事を主導した京極村の役場の向かいにあたる。コンクリートで舗装され、すっかり近代化した町並みの中に、昔の田園風景を偲ばせる石碑が残っていた。

幸運の白い鳩


七条通を進むと天神川通に出る。天神川沿いを南下し、途中で葛野大路通に戻ってまた道なりに進んでいく。九条通との交差点を過ぎたあたりで脇道に入る。この道は京都と下関・九州を結ぶ西国街道の一部だ。「吉祥院商店会」と書かれた旗がひらめいている。休日の昼下がり、車通りはほぼ無くのどかな雰囲気である。

昼食をとるため、飲食店のある東の京阪国道へ移動する。西高瀬川にかかる小さな橋を渡ろうとしたとき、電線にとまっている鳩の中に1羽だけ白い鳩がいるのに気づいた。縁起のよさそうな吉祥院という地名にふさわしいラッキーな出来事だった。(鷲)

電線にとまる鳩たち。真ん中の1羽だけ体が白い



鳥羽離宮跡公園


小枝橋を渡ったところに鳥羽離宮跡がある。かつて栄華を極めた院政の中心地だった。1086年に白河天皇が譲位し、風光明媚な鳥羽の地に離宮を造営したことに端を発する。京都南インターの南、約1・8平方㌔㍍の広大な土地に北殿・南殿・東殿等の御所が築かれ、池を中心とした庭園が造営され、各御所は船で行き来できたという。仏教の影響が強く、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院というように各御所に御堂が設けられた。周辺には住宅や御倉町が建設され、『扶桑略記』に「都遷しの如し」とも書かれたが、南北朝時代の内乱で荒廃した。

この公園はかつて南殿が存在した場所にある。公園内で見られる小さい山は築山の名残である。当時の風景に少しでも寄せようとしているのか、池や小川が設けられ、柳の木が植わっていた。公園を見渡してみると、少年たちが野球をしたり、親子が戯れていたりと、幼いころによく見た懐かしい休日の光景が広がっていた。なお、付近にある小枝橋は1868年に、旧幕府軍と新政府軍が「通す通さぬ」の押し問答の末に衝突し、鳥羽・伏見の戦いが勃発した地として知られている。かつての歴史の舞台であったこの地で、ありふれた日常が営まれていると思うと、どこか不思議な感覚に襲われる。

千本通を下る


京都市伏見区に到達すると、千本通りは桂川に沿うように走る。中心部での片側二車線の大通りとしての姿は見る影もなく、車一台通れるぐらいの田舎道へと変貌する。九条以南の千本通は鳥羽街道とも呼ばれ、京都の羅城門から淀の納所までを結ぶ。都市の喧騒からは程遠いのどかな景色をじっくり楽しみたい気持ちもあったが、当初の通過予想時刻を大幅に過ぎており、川の向こうで太陽が西に傾いていたので足早に進んだ。歩いている途中、街道沿いには住宅が連なり、周囲より一段高くなっていることに気づいた。国土地理院の治水地形分類図を確認すると、鳥羽街道と沿道の住宅は自然堤防上にある。これにより、浸水を免れることができる。街道が敷設された当時、大阪京都間の重要道である鳥羽街道の耐性を高めようとするために地形を利用する発想があったのだろうか。そう思うと、地理好きとしてはロマンを感じずにいられない。

しばらくして、空に煙突が伸びた日本建築が見えてきた。酒蔵である。渋墨塗と漆喰のコントラストが特徴的だ。伏見には酒造会社が多く見られる。その理由として桃山丘陵の地下を抜け、湧きだした「伏水」の存在が挙げられる。「伏水」は酒を着色させる鉄分をあまり含まない一方、マグネシウムやカリウムを適度に含む中硬水であり、まろやかな風味につながっている。今、目の前にある酒蔵は「増田徳兵衛商店」で、ブランド「月の桂」で有名である。1675年に創業し、300年以上の歴史を誇る。「月の桂」の名は石清水八幡宮の放生会に勅使として向かっていた姉小路有長がここに宿泊した際に詠んだ歌になぞらえているという。歩いて石清水八幡宮へ向かおうとしている自分たちにとってなじみ深い逸話である。仁和寺の法師がどの道を通ったかは分からないが、有長のようにこの道を通ったのかもしれない。

増田徳兵衛商店。煙突が目を引く



急に現れた地元民


千本通に堤防上の道路へ上がる階段があった。上がってみると、川の向こう岸の街並みまで見渡せ、疲労が蓄積する中でいい気分転換になる。この景色を好んでか、サイクリストがよく行き交っていた。ただ、道はかなり狭いので、一瞬でも気を抜いていたら轢かれそうだ。肩身の狭い思いをしながら歩いていたら、千本通からこの地元民らしき人が堤防に上がってきた。特に気にもしないで汐と鷲と喋っていたが、その人に話しかけられた。会話は汐に任せることにして、自分はオーディエンスに徹した。「どこの大学に行ってるの?」と聞かれたので、汐は京大生であると伝えた。すると、「だろうね」と返事され、なぜだかあまり嬉しくなかった。20㌔を歩くための服装をしていたので、その日の恰好は少し野暮ったかったかもしれない。そして「彼女は今できなくても焦らんでいい。そのうち引っ張りだこだから」という励ましにもやもやしつつも、「今は学業が本分だからね」という言葉を聞いて、「今、目の前にあることに一生懸命取り組みなさい」ということを伝えようとしているんだと理解した。今まで同じような言葉を幾度となく聞いてきた。しかし、見る限りは自分より遥かに長く生きてきただろう人に言われると、どこか説得力があった。しばらくして、地元民は別れを告げて去っていった。

横大路


横大路という地名を初めて聞いたとき、そういう大通りがあるのだろうとずっと思っていた。横大路は一般的には東西に伸びる重要道路を指す。しかし、汐に「そういう通りがあるわけではない」と言われ、驚いた記憶がある。確かに、京都市伏見区にそういった通りはない。ただ、横大路という通りは奈良県や鎌倉市に存在する。京都市に「横大路」という通りがあったのではないのかと考えた。「日本地名歴史大全」を調べてみると「山州名跡志」に「古ニハ東方今田畠ノ地ニシテ中ニ往還道アリ。号横大路伏見ノ城ヨリ当西此路摂津国河内等ヨリ到都街道ナル謂ナリ(=東に現在は田畑である地に昔は主要な道があった。横大路の名は、伏見城から西に当たるこの道が摂津国河内から都に至る街道であることから来ている)」という記述があることが分かった。この文言から「横大路」があるかは不明だが、由来となる通り自体は存在した可能性はある。

與杼神社


歩き始めてから約8時間。ようやく與杼神社に到着した。與杼神社は肥前国(現佐賀県)の與止日女神社から勧請したことが始まりである。もとは水垂村(現伏見区大下津町)に存在していたが、桂川河川敷の改修に伴い、1902年に淀城址本丸跡に移転した。桃山時代の様式を残していた本殿は重要文化財に指定されていたが、1950年に若者の花火遊びによって焼失した。かつての本殿の姿が見れないことは残念だが、淡い青緑色の屋根を冠した今の簡素な三間社流造の姿もどこか心惹かれる。(輝)

與杼神社本殿



馬は人間が運ぶもの?


時刻は16時を回った。完歩する自信がなかった筆者は、爽とともに淀城跡で一行と合流した。ここまで15㌔以上を歩いてきた編集員の顔には、すでに疲労の色が浮かんでいる。石清水八幡宮までは残り約5㌔。ゴールを目指してひたすら歩みを進める。淀駅周辺で高い位置に窓の付いたトラックを見かけた。爽が、淀駅の近くには京都競馬場があり、このトラックは競走馬を運ぶ馬運車であることを教えてくれる。鎌倉時代には人間が移動や運輸のために馬を利用していたのに、現在ではトラックに競走馬を載せて運んでいる。技術の進歩という一言で済む話かもしれないが、数百年で馬の利用方法がここまで変わるとは、なんともおかしなことだと思う。本来人間が自力で移動するためには、自分の足で歩くしか方法はない。普段何気なく使っている自転車や車、電車や飛行機も、あたりまえのものではない。人間が生きてきた長い歴史の中で、現代は移動にかかる時間が異常なほどに短縮された特殊な時代なのだと感じた。

川とともにある人々の文化


さらにまっすぐ進むと、淀水路に出た。ここは「淀の河津桜」として知られている桜の名所である。秋らしく濃く色づいた葉が生い茂っていた。春に咲き誇る桜の姿を自然と想像してしまう。住宅街を歩いていると、一風変わった住宅を見つけた。この浮田家は、表通りから見るとごく普通の家である。しかし、裏通りから見ると全く様相が異なり、高い基礎部分が建物を支えていることがわかる。建物が面する通りは、明治元年まで木津川の堤防であった。木津川の傍で水運業が栄えていた頃の名残が、現代にもひっそりと息づいている。

暗がりに見えた男山


次第に空が暗くなってきた。住宅街を抜けて、田んぼ沿いの道を進む。しばらくすると、大きな府道に出た。日曜の夕方で、車通りが多い。ものすごい速度で通過していく車を横目に見ながら、一歩ずつ前に進んでいく。宇治川御幸橋と木津川御幸橋を通過して、前方に見えてきたのは石清水八幡宮が位置する男山だ。現代と鎌倉時代を比べると、街並みは全く異なるだろう。しかし鎌倉時代にも、現在と同じ場所に山や川があった。昔の人が見たものと同じものを今見ることができるのは、過去と現在が繋がったものだからだと感じた。

遂に極楽寺・高良を拝む


仁和寺を出発してから約9時間が経過した。一行はついに高良神社、極楽寺跡に到着した。高良神社は、861年に行教が建立したと伝わる。社殿は鳥羽・伏見の戦いによって焼失したが、1882年に再建された。ちなみに、極楽寺も同様に焼失したが、再建されていない。筆者は仁和寺の法師が石清水八幡宮と誤解したというからには、高良神社にはさぞかし立派な建物があるだろうと予想していた。しかし、実際には鳥居とこじんまりした社殿があるのみであったので、少し拍子抜けした。当時は多くの参拝者でにぎわっていたことを加味しても、石清水八幡宮と間違えることはないだろうと思ってしまう。だがよく考えてみると筆者自身、観光客向けの案内掲示板や地図アプリが一切ない状態で石清水八幡宮の場所を間違えずに一人で参拝できる自信はない。一緒に歩く仲間がいて、文明の利器があるからこそ、間違えることがないだろうと思える。先達はあらまほしきとは、言い得て妙だと実感した。(史)

高良神社の鳥居。奥には再建された社殿がある



現代っ子の八幡参詣


長かった旅路も遂に終焉。ついに、目的地の石清水八幡宮に到着した。と言いたいところだが、ここまで車で颯爽とやってきた自分にはあまり実感がない。早朝に一行を仁和寺へ送ってから約7時間。史とともに京都中をドライブして時間を潰していたのだが、徒歩組のペースからしてゴールが日没後になりそうだったので先に石清水八幡宮に参拝することにした。

スタート地点の仁和寺から、車ならおよそ60分で到着する。700年の年月を経て、便利な世の中になったことを噛み締めながら男山の麓に降り立った。ここから石清水八幡宮の本殿まではケーブルカーで移動する。約3分の空中散歩だが、晴天なら途中で京都タワーまで見通せるらしい。しかし、この日はあいにくの曇天。眼下に、色づきを待つ木々を眺めながら本殿へと到着した。

平安時代初期、大安寺の僧・行教和尚が宇佐八幡宮で御託宣をうけたことに起源を持つ石清水八幡宮。国家鎮護の社として朝廷との関わり合いも深いが、源氏一門の氏神としても知られ、厄除開運、必勝の神としても栄えてきた。発明王・エジソンとの意外な接点もある。石清水八幡宮が位置する男山には多くの真竹が自生するが、エジソンが発明した白熱電球にはこの「八幡竹」が使用されたのだ。境内から少し離れると、これを記念した石碑を見ることができるほか、駅前の通りが「エジソン通り」と名付けられるなど、エジソンと石清水八幡宮との関連を肌で感じることができた。

まず目についたのは、大改修中の南総門。台風被害を受けて檜皮屋根を改修しているらしい。朱色に塗られた美しい門もグレーの布に覆われてどこか窮屈そうだ。南総門をくぐると、ついに御本社と対面することができた。国内に数例しか無い八幡造の建物がどっしりと鎮座する。「切妻造り」と呼ばれる屋根は、開いた本をひっくり返したような形が特徴的だ。境内では七五三参りを行う家族連れの姿も見られ、ゆったりとした時間が流れていた。

ほどなくして下山すると、京阪電車で淀まで移動し、徒歩組と合流する。自動車・ケーブルカー・電車・徒歩、様々な移動手段を経験した1日となった。(爽)

国宝に指定されている御本社。1634年、徳川家光によって造営された



後記

かねてから興味のあった古典の模倣であったが、日頃の生活ではまず考えられない時間歩き続けたこともあり、達成した感動より疲労が勝った。同行者と話しながらでなければ気を紛らわすすべもなく、途中で挫折していたことだろう。たった一人でこれほどの長い距離を歩き抜いた法師の労苦には到底およばない。石清水の本殿に参っていなかったと知った法師の落胆はいかほどかと思った。

吉祥院以南では、伝統的な住宅や、かつての地形や産業の様子を伝える旧跡が散見される。少し昔の京都郊外の生活が窺えて面白いが、紙幅の都合で全ては取り上げきれなかった。近くの桂川沿いは河原や田園の開けた景観が気持ちよい。鉄道駅がなくなかなか訪問しない地域だが、興味があれば散策に訪れてみてはいかがだろうか。

最後に、本稿を「先達」として石清水への徒歩参詣を目指す方には、休憩も含めて相当の時間がかかることを想定し、朝早い出発と、目的地への直行をお勧めする。(汐)