複眼時評

谷塚巌 文学研究科非常勤講師「​​生成AIと実存哲学」

2023.09.16

昨年11月に、米企業オープンAIによってチャットGPTが一般向けに公開されて以来、その使用の是非をめぐってさまざまな議論が巻き起こっている。新聞紙上では(主に日経記事を参照)、生産性や市場競争力の向上に貢献できるという経済的な観点から、その使用を肯定的に捉える議論を多く見かける。一方で文章作成や画像生成が容易に行えることから、教育関係者からは警鐘を鳴らす声が多い。生成AIの技術開発に関しては、世界各国の取り組みはさまざまである。EU加盟諸国は規制の方向に進んでいるのに対して、アメリカを中心とする英米圏の国々(日本も含む)は、技術開発を積極的に推し進めようとしている。

このように昨年11月を境にして、人工知能は私たちの日常生活のごく身近に迫り、いよいよ直接的に影響を及ぼし始めるかのような感がある――コンピュータやスマホが日常の道具になっている現在、人工知能はすでに身近なものになっているのではあるが(西垣通『ビッグデータと人工知能』中公新書、2016年参照)――。いずれにしても、いったいAI技術の影響はどのように見定められるべきなのだろうか。ここでは少し冷静になって、そもそもAIとは何で、人間とどのように異なっているのかについて、アメリカの哲学者ヒューバート・ドレイファス(1929―2017)の議論を手がかりにして考えてみたい。ドレイファスは、前期ハイデガーの実存哲学と後期ウィトゲンシュタインの言語論に立脚して、人工知能の原理的な不可能性を明らかにした研究を1972年に公表し、その後のAI批判を決定づけた哲学者である。注目したいのは、「情報処理」をめぐる人間とコンピュータとの間にある溝である(以下、ヒューバート・L・ドレイファス、黒崎政男・村若修(訳)『コンピュータには何ができないか――哲学的人工知能批判』産業図書、1992年を参照)。

ドレイファスは50年代にアメリカで始まったAI研究史を総括したうえで、研究者たちに見られる「楽観論」に着目し、それを支えている次のような前提を疑問に付した。すなわち、「人間の情報処理と機械の情報処理が、究極的には同一の要素過程を含んでいる」(273)とする前提である。筆者はAI研究に関しては専門外なので、コンピュータにおける「情報処理」の複雑な仕組みを理解しているわけではない。とはいえ、人間の脳があたかもコンピュータと同じような仕組みで「情報処理」を行なっているとする考え方は、どこか受け入れがたいものを感じる。ドレイファスによれば、AIの研究は人間の「知的振舞い」をコンピュータによって完全な形で模倣・再現することを目指して始まった。つまりAIとは、理念的には「人間と同じように考える機械」のことなのである。しかしそのようなデジタル機械の実現可能性を、ドレイファスは厳密な哲学的分析を通して理論的に否定してしまったのである。

そもそも「汎用情報処理装置」として動作するコンピュータに入力される「情報」は、相互に無関係な「離散的要素」として表現されなければならない(274)。また「情報は二進数学によって、つまりイエスとノーの連続、スイッチの開閉の連続を用いて表現されている」(同上)。すなわち、コンピュータを操作するために用いられるのは、「無意味な離散的ビット」に変換された「情報」である(290)。こうした「情報処理」の捉え方をめぐってドレイファスは次のように注意を促している。「人間を問題にしているときのカギ括弧つきの『情報処理』については、われわれは注意深く語り、考えなければならない」(同上)。

さて、チャットGPTに代表される対話型生成AIでは、こちらが質問を入力すると、その質問内容にふさわしい(と思われる)回答が出力される。この時、あたかも生成AIが「私」を「理解」しているかのような錯覚にとらわれる。しかしここで注意しなければならないのは、生成AIは「人間」を「理解」しているわけではないということである。たとえば、2人の人物が同じ内容で質問を入力したとする。返ってくるのは同じ回答だろう。なぜならそれぞれの質問は同じ「情報」として処理されるはずだからである。つまり生成AIにとって、2人の「人間」の間には何の差異もない。しかし私たちが日常的に取り交わすコミュニケーションにおいてはそうはいかないだろう。たとえば、もし2人のうち、回答者にとって1人が友で、もう1人が敵であれば、同じ質問内容でもまったく正反対の回答が行われるかもしれないからである。すべての有意味な「情報」が「離散的要素」、「無意味な離散的ビット」として処理されるということは、キルケゴールの言葉を借りれば、「水平化」(=無関心なものに)されるということである。もしそうであるとすれば、人間と機械との間の「人格的対話」はありそうにない、ということにならないだろうか。

谷塚巌(たにづか・いわお)
文学研究科非常勤講師。専門はキルケゴール